♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

夏休み:基本的には巣籠

2020年08月16日 07時32分42秒 | 被爆樹木たち
8月16日
1年前の記事をメールで知らせてくれますが、
それでは(わたしの)このブログで一番古い8月16日の記事は何だったかと思ったのです。
2004年8月はまだ毎日記事を掲載していず、8月20日の記事でした。
それでは、2005年8月16日の記事はと探してみました。
「(被爆した)アオギリ2005年8月」で8月12日撮影した画像で編集していました。
∵2004年9月7日台風で大きい方の被爆アオギリが根こそぎ倒れ、翌日復旧されたのです。
それ以来、この被爆アオギリが気にかかり撮影していたのです。
(裕編集の)(被爆した)アオギリ復旧工事 その後
これがいまの「被爆アオギリ2020年」につながっているのです。
(裕編集の)(被爆した)アオギリ2020年

8月16日(安芸区のわが家付近)天候:はれ


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8月15日(終戦の日)

敗戦68年目の年に「千鳥ケ淵戦没者墓苑」を訪ねてみました。
過去編集した頁を引っ張り出しました。
(裕編集の)千鳥ケ淵戦没者墓苑

8月15日(安芸区のわが家付近)天候:はれ


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8月14日

仏膳用惣菜セット(フリーズドライ・電子レンジOK)という手助けがあったというものの(みごとに)お供えすることができました。

8月14日(安芸区のわが家付近)天候:はれ


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8月13日

昨日は、息子が初盆で帰宅しましたので運転してもらい、
安佐南区伴北(あさみなみく・ともきた)の“安佐南工場大型ごみ破砕処理施設”に
ブリキでできたおもちゃ箱、旅行ケース大・中を自己搬入して処分(無料)をしてもらいました。
市のweb siteに
『新型コロナウイルス感染症拡大防止対策による休業や外出自粛が長引いたことなどにより、本年4月以降、家庭系大型ごみの自己搬入が非常に増え、慢性的な混雑状況となり、多くの皆様に長時間お待ちいただかなければならない状況となっています。』と云っていましたので、申請書をダウンロードして記入していきました。
大混雑を予想していきましたが、そこまでの渋滞はありませんでした。

8月13日(安芸区のわが家付近)天候:くもり(雨模様?)


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8月12日

わが家の猫の額の庭から沢山育っていった蝉たち
台所の外壁に殻を残した蝉も。

8月12日(安芸区のわが家付近)天候:くもり


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8月11日

わが家のユズの枝から育っていった蝉の殻。
ことしは例年になく油蝉の鳴き声に悩まされていました。
(例年になく多く育っていったようです。しかし、立秋後めっきり少なくなりましたが)
いつもの年ならわが家の金木犀で鳴き出したら追っ払っていましたが、かわいそうだと女房に常々云われていましたので、ことしは煩くても我慢していたのです。

8月11日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区:(中国配電本社で被爆した)獅子の装飾

2020年08月10日 07時56分54秒 | 被爆建造物等
中区小町の(現在建替えられている)中国電力本社ビルに取り付けられている「被爆した獅子の装飾」です。
※被爆当時・中国配電本社の玄関庇の吊金物だったこの“獅子頭像”を現在の中国電力本社ビル玄関飾りとして取り付けられています。
爆心地から≒680m  被爆当時町名も小町でした。


「入口獅子頭像」(被爆したものが取り付けられています)


(裕編集の)(中国配電本社ビル玄関脇で被爆した)獅子の装飾

8月10日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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中区:(中国電力本社ビル)被爆関連資料展示

2020年08月09日 04時59分42秒 | 被爆建造物等
中区小町の中国電力本社ビルに展示されている「中国配電の被爆関連資料」を取り上げました。
※1945(昭和20)年8月6日被爆当時・中国配電株式会社でした。
  爆心地から≒680m  被爆当時町名も小町でした。
※「被爆した定礎石」、「被爆した入口行燈」、「被爆した蓮弁」などが展示されています。


旧2号館は、
1929年12月広島電気株式会社本社ビルとして建築。
1942年4月中国配電本店となり、
1951年5月中国電力本店へと継承され、
1984年12月解体が着手されました。

(裕編集の)(中国電力本社ビル展示)被爆関連資料

8月9日(長崎・原爆忌)
(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区:被爆アオギリ2020年原爆忌

2020年08月08日 07時39分41秒 | 被爆樹木たち
普段の平和記念式典後なら見学・観察する人たちはもっといたでしょうが、
アオギリの回りも寂しいものでした


中区中島町の平和記念公園に移植されている「被爆アオギリ」の2020年8月6日です。
※1945(昭和20)年8月6日当時基町の広島逓信局中庭(爆心地≒1,300m)で被爆しました。


アオギリは種をつけていました

いつもの平和記念式典後であれば、このアオギリの回りにも多くの人がおり、アオギリを見学している人も多いのですが、コロナ禍の今(2020)年は様変わりしていました。
西隣で催されていた、被爆ピアノによる“ピースコンサート”も聴いている人は少ないな~と率直に思いました。


(裕編集の)(被爆した)アオギリ2020年

8月8日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区:平和記念公園2020年8月6日原爆忌

2020年08月07日 08時17分53秒 | 平和記念公園
≒北側から(“平和の灯”越に)平和記念式典会場をみました。
コロナ禍という事で人出の少ない原爆忌の平和記念公園は(わたしは)はじめてでした


中区中島町の平和記念公園。8月6日(木)お昼少し前でした。蒸し暑い日でくもりっていました。
平和記念式典をわが家のTVでみてから朝食を摂ったりしてから(午後からの広島赤十字・原爆病院での定期検診に行く前に)式典後の平和記念公園を訪ねました。
※広島赤十字病院は開いていましたが、広島市民病院は(急患外来以外は)休みでした。


被爆者である兄であっても式典に参加できず、相生橋の上から遠く式典を会場を見ていたそうです。
コロナ禍の式典後だったからでしょう平和記念公園としては人出は少ないと感じたわたしでしたので兄にそう話すと自分も感じたということでした。
いつもなら長い列ができている平和記念資料館前にも長い列を見ることができませんでした。
(裕編集の)平和記念公園広場の四季(2020年)

7月16日(安芸区のわが家付近)天候:(先ほどまで雨)くもり

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中区:被爆テラコッタ(福屋90年のあゆみ・展にて)

2020年08月06日 07時44分54秒 | 被爆建造物等
(被爆した)テラコッタタイル 
1990年の広島大学工学部調査のプレートが付けられています。


中区胡町の福屋百貨店東館で催されている「福屋90年のあゆみ・展」です。
※福屋は、1929年広島で唯一の百貨店として創業しています。
*ここでは、外壁に使用されていた壁材「被爆したテラコッタ(タイル)」に注目しました。
爆心地から≒710m
〔1945(昭和20)年8月6日(月)〕被爆当時町名も胡町でした。


新聞報道で、この“福屋90年のあゆみ・展”が催されていることを知ったので行ってみようと思ったのです。
展示の中に外壁に使われていた被爆したテラコッタが展示されていましたので、これを中心に頁を編集しました。
(裕編集の)福屋90年のあゆみ・展(被爆テラコッタ)

8月6日(安芸区のわが家付近)天候:くもり(靄っています)

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中区:(平和記念公園原爆死没者慰霊碑前)スロープ

2020年08月05日 07時27分28秒 | 平和記念公園
中区中島町の平和記念公園・原爆死没者慰霊碑前に設置されている「スロープ」を取り上げました。

※1951年丹下健三がイサムノグチに原爆慰霊碑の設計を依頼した時、原爆慰霊碑がある中央部を高くする事を丹下にスケッチを添えて提案しています。
(ノグチは原爆慰霊碑を設計しましたが、原爆投下国の人間という理由で採用されなかったのです。)
結局(現在の)原爆死没者慰霊碑を設計した丹下は、ノグチの考えを取り入れ慰霊碑がある処を舞台(祭壇)に見立てるように段差を設けました。
*当時は、高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる建築物の設計思想は希薄で、丹下でさえも階段を設けただけでスロープは造られなかったのです。
但し、正面参道からは×ですが、東西方向からは車椅子でも原爆死没者慰霊碑前には行けました。


立ち上がり部分がないところは縦型ライトが設置されています


(裕編集の)(平和記念公園原爆死没者慰霊碑前)スロープ

8月5日(安芸区のわが家付近)天候:くもり(靄っています)

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中区:平和の像「若葉」(湯川秀樹歌碑)

2020年08月04日 07時32分50秒 | 原爆慰霊碑等
中区中島町の平和記念公園(広島国際会議場南東側)に建立されている「平和の像・若葉」です。
※湯川秀樹:1949年ノーベル物理学賞受賞者。
※像作者・圓鍔勝三:1988年文化勲章受章者。























 
























※まがつひのかみ(禍津日神 )

(裕編集の)平和の像「若葉」

8月4日(安芸区のわが家付近)天候:くもり(靄っています)
居間のカーペットを天日干しました(冬まで待機です)。 19:30追記

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中区:慈母像

2020年08月03日 08時59分43秒 | 原爆慰霊碑等
中区河原町の平和大通緑地帯に建立されている「慈母像」です。
※原爆で夫と子どもを喪った高ノブさんにより建立された慈母像です。
御影石で造られたこの(慈母観音菩薩)像の足元には合掌する童子が配されています。
その童子はわが子を原爆で奪われた母親の悲しみを訴えていることを表しているのでしょうか。


2019年久しぶりに撮影しようと思ったときはあいにくの雨模様の天候でした。
像前で、頭を垂れ手を合わせた後、顔を上げると花壺に刻まれた「寒修行」に目が留まりました。
今まで何度となくお参りしていたつもりのわたしですが、信心という深い心がないから見逃していたのだろうと思ったのです。

(裕編集の)慈母碑(慈母の像)

8月3日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
月を見ながら可燃ゴミ出し 21:13追記

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中区:河原町地蔵尊

2020年08月02日 08時42分36秒 | 神社寺院等
中区河原町にお祀りされている「地蔵尊」です。
※境内には被爆した石燈籠が復元されています。

説明板には、
『・・・前略・・・昭和20(1945)年8月6日原子爆弾により被災し焼跡より石佛像二体と石燈籠一基を掘出し仮堂を建てて復興しました。戦後の区画整理で敷地は686㎡(207坪)となりました。
昭和25(1950)年に新しく本尊を刻み、昭和52(1977)年に本堂を改築しました。』とあります。



(裕編集の)河原町地蔵尊

8月2日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区:広島第二陸軍病院跡・原爆被災説明板 //新型ウィルス対策責任者よ

2020年08月01日 08時34分38秒 | 被爆建造物等
中区基町の太田川土手に広島市によって建立されている「広島第二陸軍病院跡・原爆被災説明板」です。
爆心地から約1,000m
説明板には
『広島第二陸軍病院は、軍施設が立ち並ぶ基町地区の北西端に建っていました。〔1945(昭和20)年8月6日(月)〕被爆当日、病院内には、職員330人、入院患者750人がいたとされていますが、一発の原子爆弾により倒壊炎上し、多くの死傷者を出しました。
美しい桜並木が入院患者をなごませた太田川の堤防には、わずかに残った職員が、ムシロやトタンを使って天幕を張り、臨時救護所を設置し、多くの負傷者の治療にあたりました。』とあります。


2020年新型ウィルスで東京にある「えいじゅ(永寿総合)病院」で感染患者が多く出ているというラジオニュースでわたしは全くの勘違をして衛戍病院を思ったのです。
編集頁をみると頁の更新をしていないことに今になってわかりましたので、被爆75年のいまになりましたが更新しました。
(裕編集の)広島第二陸軍病院跡・原爆被災説明板

8月1日(安芸区のわが家付近)天候:くもり


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閉会中審査にも出席せず、総理大臣たるもの、自分の云いたいことだけをTVの前で云うのではなく、新型ウィルスに無策だと考えている多くの国民の批判的な声にも応えなくてはならない職責があるはずです。
新型ウィルス感染者の数だけを問題にするなと国は強調していますが、ここの処の感染者の全国的広がりをみるとそれは間違いだとわたしは思うのです。
自己防衛ですよ!
と云われてもどうにもできない老人のわたしですので、川柳を詠んでみました。
野放しの 新型ウィルス 待つワクチン
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