♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

安芸郡海田町:(港町公園)公衆便所

2020年02月14日 08時39分03秒 | 建物等
安芸郡海田町窪町の港町公園に建てられている「ギャンブレル屋根の公衆便所」です。
※表面に身障者・女性用の便所、裏面が男性用の便所になっています。
ギャンブレル屋根(gambrel roof)とは、
英国などの欧州から18世紀に米国に伝承された二面切妻二段勾配屋根のことで、形状が将棋の駒に似ていることから、駒形切妻屋根と訳されることもあるそうです。


当地では、めったに見ない折れ屋根の建物でしたので、
最初は過去に東広島市西条でみたマンサード・ルーフと思ったのですがWikipediaの解説で、切妻ということで「ギャンブレル・ルーフ」という形式と知りました。

(裕編集の)(海田町)港町公園公衆便所

2月14日(安芸区のわが家付近)天候:くもり


-追記-
最近は歳とって来たからでしょう、ぶらり散歩すると、公園などの公衆便所を頻繁に利用します。
利用した公衆便所で特徴があるものを僅かですが取り上げています。
(裕編集の)公衆便所
コメント (2)

安芸郡海田町:一等水準点1664

2020年02月13日 08時45分27秒 | 道標等
安芸郡海田町窪町の港町公園内に設置されている「一等水準点」です。
※この水準点を保護するために“建設省国土地理院・マンホール蓋”が設置されています。

立札“公園でのバーベキュー等は禁止されています”も設置されています

(水準点への配慮ではなく)公園でバーベキューをする人たちがいるのでしょう、それにしては小さな標識でしたが。
国土交通省国土地理院のweb公開資料を参考にこの見えない水準点の資料を参考にしました。
(裕編集の)一等水準点(港町公園)

2月13日(安芸区のわが家付近)天候:靄あり・晴れてきそう


-蛇足-
各地の水準点の基準になる原点がある事は想像できますよね。
その原点は、
東京都千代田区永田町の尾崎記念公園の一角に設置されている「日本水準原点」です。この原点はマンホール蓋ではなく”標庫”で保護されています。
(裕編集の)日本水準原点(標庫)
コメント (4)

安芸郡:(海田町)港町公園

2020年02月12日 08時33分58秒 | 公園・緑地等
安芸郡海田町窪町に設置されている「港町公園」です。
※国交省の資料によると公園面積は1,845㎡の街区公園だそうです。

海田町が海に近い処ですが、この公園も緊急避難場所になっていました。
(表示板には、海抜2,8m。津波、高潮、洪水には×が付いていましたが。)

もしもの南海トラフ地震時は、
海田町の公園ですが、近くに安芸区役所がありますので津波などの避難にはそちらに走ることだなと思います。


(裕編集の)(海田町)港町公園

2月12日(安芸区のわが家付近)天候:くもり⇒昼前から雨

コメント (4)

安芸郡海田町:JR海田市駅

2020年02月11日 09時06分47秒 | JR駅舎
安芸郡海田町新町に設置の「JR海田市駅」を取り上げました。
*2003年に撮影して頁を編集しました。
*2010年バリアフリー工事(エレベーター設置など)が行われ駅舎外観が変わりました。
南口を中心に2014年に外観が変わった頁を編集しました。

しかし、北口を取り上げていなかったので、2019年に撮影しました。

南北自由通路(途中に)海田市駅改札口 南口エレベーター前からみました


(裕編集の)JR海田市駅(バリアフリー工事後)

2月11日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

コメント

安芸区:中野東第二公園

2020年02月10日 08時24分28秒 | 旧瀬野川町附近
安芸区中野東に設置されれている「中野東第二公園」です。
わが町の国道2号線沿いに位置するこの小さな公園、もともとは中野東第三公園だったのです。
公園標識を見ると、昔の三が二となっていることがわかり、公園名が変更になったのだとわかります。

わが町の公園ですので撮影機会は何度もあったのですが、2019年久しぶりに撮影しました。
子どもたちが利用する近隣公園というのは希薄になってきているのでしょう。
(わたしが撮影したのはひるすぎでしたが、利用者はゼロ)
ストリートビューでこの公園をみると老人たちがグランドゴルフを楽しんでいる処が写っていました(グランドゴルフをたしなむ能力がないわたしですが)、近隣公園が老人の憩いの場になっているのでしょうね。
(裕編集の)中野東第二公園

2月10日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

コメント (8)

中区:日本銀行広島支店・原爆被災説明板

2020年02月09日 08時42分06秒 | 被爆建造物等
中区袋町の旧日本銀行広島支店前に建立されている「日本銀行広島支店・原爆被災説明板」です。
※爆心地から約380mの位置でした。
(※「原爆被災説明板」は、広島市により市内各所に45基設置されています。)

『1945年8月6日(月曜日)午前8時15分、原爆の強烈な爆風により、外形は残ったものの内部は破壊され、42人の犠牲者が出ました。
市内の金融機関はほとんど壊滅したため、日本銀行の内部を仕切り各銀行が窓口を設け、8月8日から業務を開始しました。』
2017年になって新しい説明板に取り替えられたことに気が付きました。

2001年この原爆被災説明板を撮影して頁を編集したのですが、
2019年この原爆被災説明板の写真をみていて、今頃になるまで如何に節穴の目をしていたのかと恥ずかしながら“国泰寺の大クス”の被爆後の姿に注目しました。
*この大クスノキは被爆死したままだったのだと。
この大クスより少しばかり遠い白神社のクスノキは、被爆後ひこばえが成長し被爆クスノキになっているからなのです。

(裕編集の)日本銀行広島支店・原爆被災説明板

2月9日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

コメント (2)

中区:中島地区原爆被災説明板

2020年02月08日 08時30分44秒 | 被爆建造物等
中区中島町の平和記念公園内を通る旧西国街道沿いに建立されている「中島地区原爆被災説明板」です。
※爆心地から約100m~700mという至近距離の位置でした。
(※「原爆被災説明板」が広島市により市内各所に45基設置されています。)

『(1945年8月6日米軍による原爆投下の前)被爆前の広島市の繁華街だった中島地区の残り香は、現在の平和記念公園にはなにも残っていないと云えるではないのでしょうか。
この中島地区原爆被災説明板の画像中央は、1899年に住友銀行広島支店として建てられ、被爆当時は(貿易商の)藤井商事が入っていたレンガ造2階建の建物でしたが(画像でお解りのように)原爆で破壊されました。・・・・』

「(1899年7月竣工)煉瓦造2階建・被爆当時「藤井商事」です。
遠くに「(現在の原爆ドーム)広島県産業奨励館」が写っています


現在、(平和記念公園として整備された)ここを訪れた外国観光客に原爆が公園に投下されよかったのではと云われたという話を聞いたことがあります(が)。
この地区は江戸時代から、西国街道沿いの繁栄した地区で、原爆投下前までは広島市の繁華街だったところなのです。

広島への原爆投下は、一発の原爆で敵国にどのくらいの被害(犠牲者)を与えられるかとの作戦でもあったのです。
それは、休み明けの月曜日の(夏の日の)朝の朝礼をしているか仕事にとりかかっている(±はあったでしょうが)8時15分、
米軍機エノラゲイは(日本軍が玉砕した)テニアン島から計算された6時間30分もかけ原爆を投下したことでもわかります。

(裕編集の)中島地区原爆被災説明板

2月8日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

コメント (2)

瀬野川:山王大橋

2020年02月07日 08時26分38秒 | 旧瀬野川町附近
旧橋は下流側(画像で左側)に架かっていました。
国道2号からみました。(向側:安芸区中野出張所)

わが町、安芸区中野と中野東を結び瀬野川に架かる「山王大橋」です。
2009年3月15日開通した「(新しい)山王大橋」を取り上げています。
*安芸区中野出張所の建物は、旧瀬野川町庁舎だったそうです。

2009年7月撮影して〔旧橋とは別の頁で〕(新橋)山王大橋の頁を編集しました。
(しかし、当時は旧橋の解体は終わっていませんでした)
2019年久しぶりに撮影し、頁を更新しました。


新しくなった(今回紹介した)山王大橋は、大橋の名は荷が重い名称ですが、旧山王大橋を知っている方々(わたしもその一人ですが)には中野東地区から中野出張所に行く橋としておおいに整備された橋になっています。
(裕編集の)(新橋)山王大橋

2月7日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

コメント

瀬野川:備中橋

2020年02月06日 09時58分18秒 | 旧瀬野川町附近
わが町、安芸区中野と中野東を結び2級河川・瀬野川に架かる「備中橋」です。
※3径間のポニートラス橋です。

歩行者と自転車専用の橋というか車が通る幅員はないし車の荷重耐える構造ではないようです。
2018年の西日本豪雨のこの橋自体への被害はなかったようです。


2006年頁を編集してからいつでも歩いて行けて撮影できるのにほったらかしでしたので今回更新しました。
(裕編集の)備中橋

2月6日(安芸区のわが家付近)天候:くもり
わが家のため水に薄氷はる(雪は無し)
※10時前広島気象台が初雪を観測したそうです

コメント (2)

瀬野川:権現橋

2020年02月05日 08時49分36秒 | 旧瀬野川町附近
瀬野川左岸擁壁の本格復旧工事完了に伴い車の通行も可能になっています。
2020年1月25日撮影

わが安芸区も流れる2級河川・瀬野川に架かり中野と中野東を結ぶ「権現橋」です。

2018年7月6日の西日本豪雨(で落橋はしなかったのですが)影響を受けました。
※4径間の鉄筋コンクリート桁橋です。

歩行者のみ通行可   2019年3月1日撮影



最初に頁を編集した時は、嵩上げの手摺は無かったのです。
2006年3月5日撮影

(裕編集の)権現橋

2月5日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

コメント

中区:八丁堀一帯・原爆被災説明板

2020年02月04日 08時41分33秒 | 被爆建造物等
中区鉄砲町に広島市によって建立されている「八丁堀一帯・原爆被災説明板」です。
※爆心地から約800m付近でした。
(※「原爆被災説明板」が広島市により市内各所に45基設置されています。)

『空襲による火災の拡大を防ぐ目的から、(1945年8月6日)被爆当日この地区でも防火帯をつくるための建物疎開作業が行われており、多数の犠牲者がでました。
また、地区内の家屋は一瞬のうちに倒壊し、付近一帯すべて火の海となり焼失しました。』


新しく取り換えられた説明文(上記)は、旧原爆被災説明板碑文よりも簡単になっていました。
(裕編集の)八丁堀一帯・原爆被災説明板

2月4日(安芸区のわが家付近)天候:はれ
この冬わが家のため水にはじめての薄氷はる

コメント (2)

(山中髙等女學校)第四十回卒業記念 昭和四年三月

2020年02月03日 15時03分36秒 | カテゴリー以外
(現在の)中区千田町に過って開学していた「(旧制)山中髙等女學校」で学んだお袋・(旧姓)高下静代、そのお袋の卒業アルバムを取り上げました。
※その卒業記念アルバムは、昭和4(1929)年3月のものです。


「正門」と題した山中髙等女學校

(第一次世界大戦後の)1920年の恐慌以来(暗黒の木曜日の)1929年世界恐慌という時代背景を考えながらこのアルバムをみました。
お袋の卒業アルバムは、原爆の惨禍その後の混乱期を乗り越え今日に残っています(ので)。
編集にあたって、全頁掲載することとしました(が)。
生徒たちの顔写真は小さく編集することにしました。(108歳でまだ健在な方が居られたらと配慮しました。2019年県内最高齢者111歳。)
卒業者名簿は、町名までの記載でしたので詳細住所がわからないということで小さな画像で掲載しました。
(裕編集の)(山中髙等女學校)第四十回卒業記念アルバム

2月3日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

コメント

番外:わが家:イチゴがきた

2020年02月02日 21時04分18秒 | いまだ初心園芸
広島の1月平均気温が、 8.1℃だったそうです。
記録が残る1879(明治12)年以降で最も高かった1989(平成元)年の7.4℃を上回ったそうです。

わが家のイチゴに小さな実が生って来ました。
(過去のわが家の)イチゴ

上記一面の気温の記事を(当地の)中國新聞で読んだあと
その下の“ちゅーピーと学ぼう!”での問題の答えがわたしにはわからなかったのです。
問題
『ニワトリが長く飛べない理由は2つあります。
一、敵に襲われることや、餌をとる必要がないこと。
二、(二つ目の理由はなにかな)』
答えを見てそう云われればと思ったのですが。
コメント

中区:(旧制)山中髙等女學校址・碑

2020年02月02日 09時17分39秒 | 各種記念碑等
中区千田町の千田第一公園に建立されている「山中高等女学校址」碑です。
1887年山中正雄氏が私立広島高等女学校を広島市天神町に設立。
1902年国泰寺町(現在の千田町二丁目)に移りました。
1919年私立山中高等女学校を山中高等女学校と改称。

お袋(1912年生まれ)がこの地で学んだ山中高女出身だと知ったのはすでにわたし自身の人生の後半だったのです。

2019年(お袋を喪ってからはじめて)訪ねてみました。
この碑の前にたたずみお袋が学んだこの地をしのび、残している90年ほど前の卒業アルバムの頁も編集しようと思ったのです。
(裕編集の)山中髙等女學校址・碑

2月2日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

コメント (2)

元安川:平和大橋歩道橋

2020年02月01日 08時45分12秒 | 橋梁
中区大手町地区と中島町(平和記念公園側)を結び、元安(もとやす)川に架かる「平和大橋歩道橋」です。
※2径間の連続合成鈑桁橋です。
※(平和大橋の上流側に架橋されています。平和大橋は4径間単純鈑桁橋です。)
※供用開始は2019年3月21日でした。

国際コンペまで実施し決定した平和大橋歩道橋が、その設計前提で平和大橋東詰交差点が廃止になることで付近住民が交通不便をきたすと反対したことで頓挫しました。
その後、改めて平和大橋東詰交差点存続を条件として、平和大橋に寄り添うような現在の設計になり実施することになりました。



広島市設置「平和大橋歩道橋のあらまし」という説明板の断面図を使用しました

(裕編集の)平和大橋歩道橋

2月1日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

コメント (4)