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(饒津神社)御陣中御手水鉢

2013年02月05日 09時01分46秒 | 雑関連
東区の饒津(にぎつ)神社へ今年は女房と子供は早い時期に参拝したと云うのに、わたしは初詣とは云えない1月18日に参拝したのです。
拝殿前で参拝した後、根際の稲荷大明神を参拝しました、その途中ここで紹介する“御陣中御手水鉢の由緒”板を見たのです。
いままで何という節穴だらけの目をしているのかとわたし自身を恥ずかしながら思ったのです。
説明文によると、浅野長政が肥前国名護屋城内、陣屋で愛用されたものだそうです。
ここに設置された年代からこの手水鉢は被爆したものであることがわかりました。

(饒津神社)御陣中御手水鉢

広島ぶらり散歩「神社寺院など」編

2月5日(安芸区のわが家付近)天候 :曇り


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4 コメント

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こんにちは (めちゃこ)
2013-02-05 11:54:43
石で囲い大事にされているのですね。
歴史を語り目で教えてくれる大事な証拠ですね。^^
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大切に.. (地理佐渡..)
2013-02-06 07:11:14
おはようございます。

>浅野長政が肥前国名護屋城内、陣屋で愛用

挑戦出兵時のことですらかずいぶん古いもので
すね。浅野殿はよほどお気に入りだったのでしょ
うね。帰国時に安芸の国へと持ち帰っているわ
けですから..

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先祖伝来・・・ ()
2013-02-06 09:56:31
おはようございます、pecyuniaさん。

浅野家の初代が使用した手水鉢として、大切にされてきたのでしょうね。
1593年から数えても420年前からですから・・・
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転々として?・・・ ()
2013-02-06 10:13:06
おはようございます、地理佐渡管理人さん。

浅野長政は、(秀吉の五奉行の一人として)
朝鮮出兵でも功績があり、甲斐国府中21万5千石を与えられて甲府城に入ったそうです。ので、名護屋城から甲府城にもって行った、または、秀吉の側近として大坂城近くの邸宅にもって行った?

その後、子どもの幸長が関ヶ原の戦いの功績で、紀伊国和歌山37万石へ加増転封されたので和歌山に移した?
長政自身は江戸幕府の成立後は家康に近侍し、慶長10年に江戸に移ったというから江戸にもって行った?か家康に遠慮して和歌山においていた?

幸長の子、長晟が元和5年に安芸国に移封してきた時から広島城内に置かれ、泉邸に移され、饒津神社が創建された時にいまの位置に置かれたそうです。

転々としてきたのでしょうが、浅野家として大切に扱ってきたのでしょうね。
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