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安芸郡海田町:(海田市駅からの)軍用引き込み線跡

2022年07月13日 08時26分50秒 | 軍都広島関連等
安芸郡海田町新町から海田町寿町・(旧)安芸郡矢野町の陸軍被服支廠海田市倉庫(現・陸上自衛隊海田駐屯地)まで布設されていた山陽本線からの(軍用)引き込み線を取り上げました。

※Wikipediaによると
『戦前、海田市駅から陸軍被服支廠海田市倉庫(現在の自衛隊)へ延びる引き込み線がありました。』
※広島原爆戦災誌の海田町の項目に
“海田市町に陸軍需品廠約70名”とあります。

八束要さん(わたしのおじさん)が昭和20(1945)年に書き残した“原爆記”に
長男(嘉光さん:旧制広島市立中学校3年)が(学徒動員で)8月6日『広島駅から海田の需品廠へ行く』とあるのです。
2021年になって海田町(矢野町にまたがる)需品廠〔現・陸上自衛隊海田駐屯地〕へ海田市駅付近から引き込み線があったことを知り「原爆記」の関連資料としていまになりましたが頁を編集したのです。

*海田町史によると「陸軍被服支廠海田市倉庫」とありますが。
兵器部修理所所長だったおじさんは「需品廠」と書き残しているので、引っ掛かってしまったので一年ほどかかってしまいました。

*昔はよく行った安芸区の図書館に行くときこの石積は古いなとは思っていました。
*ここの処は、かかりつけ眼科に行くときみていた石積みでした。

山陽本線から分岐の軍用線用石積みだったのだと思ったのです。


*Wikipediaに、
『・・・尾崎川に斜めに架かる小さな橋が唯一の遺構です。』とあります。
しかし、現在は撤去され橋台が残っています。


2003年八束要さんの「原爆記」をわたしのHPに掲載し紹介しました。
その中に(1945年8月6日)被爆当日長男嘉光さんが『広島駅から海田の需品廠へ行く』と云っていたと書き残していたのです。

「原爆記」 (八束 要 著)



最初に読んだ時、海田に需品廠があったのかと思って当時健在だった嘉光さんに尋ねたことがあったのです。
しかし、広島駅からその需品廠まで列車で行ったということに頭が廻っていなかったのです。
時は随分過ぎ、2021年Wikipediaの海田町の項で知ったのです。
早く気が付けば、尾崎川の鉄道橋なども撮影できたのにと勉強不足を嘆いてもと思いつつ
被服支廠の倉庫か需品廠かは解決していませんが、一応頁を編集完にしました。

(裕編集の)(海田市駅からの)軍用引き込み線跡

7月13日(安芸区のわが家付近)天候:晴れ
夕方、わが家付近カナカナ(一般的にはヒグラシ)の初鳴き


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2 コメント

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Unknown (ガーベラ)
2022-07-14 09:36:29
おはようございます 裕さん。

時季をずらして泣いていた蝉が一斉に鳴き出しています。

軍用引き込み線跡を辿られたのですね。
復興の開発は目覚ましく記録しておかないと忘れ去られてしまう部分が多いことに気付かされます。
あと何年かしたら辿れなくなってしまうかも知れませんね。
説明文と画像を照らし合わせながら成る程と認識しておりますです。
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参考にさせてもらいましたが ()
2022-07-14 12:01:56
こんにちは、ガーベラさん。

いわゆる鉄ちゃんとは違う視点で頁を編集したつもりですが、どうだったか。
知らないことが多すぎるので。

職業軍人で、外地で負傷し一度は廃兵になったおじさん。
原爆記のなかで”平和は大切”などという言葉は残していませんが、
原爆の惨禍を再び起こすような世の中にしてはならないということを心に原爆記を書き残したとわたしは思っています(ので)。
正確な解説が必要だと思っていますので、いまになりましたが、軍用線のことを取り上げました。
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