<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

まつろわぬ青春の日の行方(1) <出浦先生>

2017-03-12 09:06:26 | 「学生時代」
 電話がなった。『誰だろう、こんな時刻に?』
 生徒達に静かにするように言うと電話に出た。その頃、私は、夜、家で中学生を教えていて、そのとき部屋には5,6人の生徒がいた。「静かに!」と言って静かにするわけがない。電話の声が聞き取りにくく右手で耳を押さえ、左耳に集中した。
 電話は「先生」からだった。そして、これが最初で、最後の電話となった。十二指腸潰瘍の手術をして、今は休職中だという。卒業してからまだ三ヶ月、あんなに元気だったのにとても信じられないことだった。そして、結局、私が、卒論で先生の指導を受けた最後の学生となった。葬儀の日、棺の横に座った奥さんとその横で泣いているまんまるい顔の幼い二人の姉妹を見ていて、大学での先生の様子は自分が必ず書き残そうと心に決めた。

 私が講座選択で土壌肥料を選んだのは、農芸化学科で唯一、この講座だけが農場を持っていたからでした。先生の研究テーマは「腐植」といい、土壌有機物の性質を調べ、それを分類することでした。私はそのとき有機農法や自然農法に興味を持っていたので何か通じるところがありそうだと思ったのですが、実際にはまったくつながりはありませんでした。しかし、所謂、「研究」というものがどのように進められていくものかということについてはしっかり学ぶいい機会になりました。
 先生は40歳くらいで、助手。いつも灰色の作業服で、白衣を着ているところは殆んど見たことがありません。ついでに言うと実験しているところも見たことがありません。大学の研究者というよりは町工場の作業員という雰囲気でした。机に向かうというよりは、腕組みをして、やや太めの体を椅子の背もたれに預け、斜めに座って実験室の天井の方を眺めていることが多く、急に立ち上がると流しへ行き、お茶を入れては戻ってくるという具合で、先生が何を考えていたのかはわかりません。おそらく、何かを考えているというのではなく何を考えればいいかを考えていたのではないかと思います。そこが先生のユニークなところで、科学技術をベースにした近代農法の旗手として邁進する大学の方向性に何か乗り切れないものを感じていたのではないでしょうか。
 私は二回生の頃から大学の勉強に疑問を持ちはじめ、それで自分で畑を借りると野菜を作り始めました。大学の授業にも出なくなったので殆どの単位を落とし、四回生のときには卒業に必要な単位数の半分しか取れていない状態で、みんなが卒論の実験に取り組んでいる昼間、私は単位を落とした科目の授業に出て、その空き時間で実験をするという始末。夜になるとそのまま家庭教師に行き、その帰りに大学に戻っては、また実験の続きをするという生活です。10時頃から12時頃まで実験をし、それから時々、先生と大学の正門前の「九州ラーメン」を食べに行くこともありました。
 アルバイトのない日はずっと実験です。先生は7時になると必ずラジオをつけました。英語ニュースです。耳を慣らせるために聞いていると言っていましたが、私の周りの先生はみんな英語が話せました。そこでは英語は普通のことだったのです。考えてみれば、論文も英語で書くのだから当然のことかもしれませんが、私は、中学生のときに教科書で英文手紙の書き方を習って以来、ずっと英語が使えるようになりたいと思って勉強してきましたが、未だに思うように使えません。人生の残り時間が少なくなった今、もう諦めて、最後のシゴトに集中しろと自分に言い聞かせようとしているのですが、まだ思いを捨てきれずに困っています。
 家庭教師のある日はそちらで夕食が出ました。たいていは食べ過ぎて勉強どころではなくなります。しっかりもてなすことで、その分、しっかり仕事をしてもらおうということなのでしょうが、家庭教師で成果を上げようと思うなら、出す夕食は軽食にすべきです。満腹の私が大学に戻ると、先生は鍋を片手に何か食べていたことがありました。水に溶いた片栗粉を鍋に入れ、そこに砂糖を加え、かき混ぜながら加熱すると、半透明な糊状のものができます。「学生のとき夜中に腹が空くとよく食べた」と言っていましたが、その味は私も知っていました。薬っぽいその味が頭に浮かび、その日に出された夕食の話はできませんでした。

 今、思うと、先生は、そんな私の実験にずっと付き合ってくれていたのです。家では幼い子供たちが帰りを待っているというのに。「ピンクレディーの振り付けがうまくできるようになったよ」と先生はよく話してくれました。
 先生からの電話を受けて私は友人と先生の家に見舞いに行きました。ぎょっとしました。黄疸で顔が黄色なのです。その姿は数か月前の先生からは想像できないものでした。それでも私はそれが最後になるとは思いませんでした。そのときに川で取った鮎を持っていき、焼いて食べたのですが、あのとき鮎を持って行って本当に良かったなと思います。
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