昭和56年の豪雪で、妻が二階の窓から写しています。
家の一階部分は完全に雪に埋もれ、後方には雪に埋もれた旧鉄道官舎が見える。
その頃の我が家、駅前道路。幼い娘達と妻が見えます。
雪国暮らし
雪国の暮らしも、自動車と道路が飛躍的に発達した、昭和四十年前後から様変わりした。
辛く、そして暗いと言うイメージが徐々に薄まってきてウインタースポーツなどと言う言葉が流行り、
スキー客で賑わうようになって来た。
高度成長社会と呼ばれた国の飛躍的発展が雪国の暮らしもイメージも変えたのだ。
昭和四十年頃までは一級国道さえ冬は雪に閉ざされ、数ヶ月も自動車は通れなかった。
その雪に閉ざされた国道をコースにノルディックスキーの駅伝が行なわれていたのだから驚く。
幼かった私には応援をしたという記憶しかないが、姉たちはカンジキを履いて、競技コースを踏み固めたそうである。
国道さえそんな状態だから、脇道も当然のこと雪に閉ざされ、
国道がブルドーザー除雪された姿を現した後、スコップで掘り出したのだ。
細くても地面を掘り出すと雪消えは格段に早まった。そうなると待ち望む春もすぐそばまで来たと感じる。
早くても三月から四月にかけての事である。
それまでの間、十二月から二月の日の短い時期の朝は辛かった。
朝の暖かい布団の中で気持ちよく眠っているところを母に起こされる。
父と一緒に玄関を開ける。そこから道までの数メートルの間は雪の階段である。
屋根から下ろした雪が道路も埋め尽くし、道路は地面から随分と上になってしまう。
家の茶の間から通行人の足が見える事も珍しくはなかった。
人家と人家の間は低いため、人々は道路の勾配を登ったり下ったりしながら歩き、
誰も冬は当たり前の事と不平も言わなかった。
カンジキを履き、まずはその高い道までスコップか「コスキ」と呼ぶ木製の道具で、
雪を撥ね上げながら上がる。そこからは道に積もった雪を踏み固め、ゴム長だけで歩けるようにしなければならない。
我が家は集落の中心部から、信号場から駅に昇格したばかりの国鉄の小駅の前に家を移転新築したので、
道踏みの分担が多くなった。
二百メートル余りだったと思うが、道幅を広げそして足が沈まないように踏み固めるには何回も、
往復することが必要だった。
道踏みが終わると、雁木と呼ばれた本屋に付属した小屋根の雪を下ろす。
それでやっと冬の朝の行事は終了。大概小一時間はかけていたように思う。
暖かい家に体の雪を払って入り、暖かい母の味噌汁で朝ご飯を食べてから登校となる。
みんなが他人のために眠い目を擦りながら暖かい布団から起き出し働いた。
そして私も一番列車に乗る人のため、雪道を踏むのは当然の事と思っていたのだ。
雪国の人々は大人も子供も辛抱強く、そして勤勉なものだったと思う。今考えると夢のような話だ。
こちらは毎日晴れていますがそちらは雪が降る日が多いでしょうね。
その上、日陰にありすぐに陰に入り積雪は多いで゛すね。
日の短い、冬の朝は6時と言ってもまだ暗く、辛いものが有りました。
冬の道は田圃を覆った雪の上に雪を踏みしめて近道を作っていて、便利と言えば便利。
でも、ひとたび吹雪になると、その道も掻き消えて雪原となり、
何処を歩いていいのか分からないほどになっていました。