自前の農産物直売所「農天市場」では、こんな名札を付けていました。
トーちゃんとカーちゃんと(その1)
太平洋戦争末期まで、我が家の家族は岐阜県の片田舎で暮らしていた。当時は一路線だけを権利を持ってバスやタクシーを運行する業態が許されていた。父の姉の連れ合い、つまり父の義兄がそのバスの会社を経営していて、国鉄高山線の白川口駅から中津川に至る峠道までの路線の権利を得ていた。
父からよく聞かされた話に、薪自動車や木炭自動車の話があった。出力不足に悩んだらしいが、工夫を重ねて乗り切っていたとか。「あのまま木炭車が進歩していたら、大した性能になっていただろうな」と繰り返し話していた。
魚沼の実家では父の頑固な継母が一人で暮らしていて、帰郷を強く請われたという。最後は「帰って来ないならば俺がこっちの家をたたんでそっちに行く」とさえ言いだしたとか。
父の姉たちは義母から離れたい気持ちが強くて、三人ともに岐阜で暮らしていた。あの、とんでもない女傑、わがままな義母が来たのではたまらないと、父は説得され帰郷するという流れになったらしい。
岐阜では姉たちは「トーちゃん」「カーちゃん」と呼んでいた。しかし、魚沼の田舎ではそんな呼び方をする家庭は無かった。
(続く)
長野県の田舎では岐阜と同じで「とーちゃん」「かーちゃん」と実父母の事を呼んでいました。実の兄姉は「にーちゃんねーちゃん」です。祖父母の事はおじいちゃんおばあちゃんで私は二人いたから年上のおばあちゃんを大きいおばあちゃん年下のおばあちゃんは小さいおばあちゃんでした。そしてです、他の人に呼び掛けるのは自分より年上だったら「とーさんかーさん」「兄さん姉さん」で爺さん婆さんとは呼びません(失礼だから?)年寄りの方にはとーさんかーさんで同年配だったら兄さん姉さんでしょうか。自分より年下の子供には「にーちゃんねーちゃん」です。おじさんが小学生に「ちょっとちょっとにーちゃん、これから○○に行きたいんだけんども教えとくれや。」なんていう調子でした。車にnaviなんか無いので道を聞きながら行きましたもんね。地図と道路標識と判らない時は人に聞いて行きましたね。今はnaviで黙ってどこにでも行けますから「ねえさんねえさん」なんて道を聞かれることも無くなったかも。それに小学校では「知らない人に話しかけられたら気をつけよう。」ですからー。そうそう女性でも「俺」と言っていましたね。
我が家のスベルベを含めた兄弟姉妹は実名で呼び合っていたような。
祖母はなんと言って呼んだか忘れた・・・と、思ったら思い出しました「バッパ」でしたね。
ある女性か「おばさん」と呼びかけられて「私はあなたのおばさんなんかじゃありません」と言ったとか。
お年寄りの送迎をしていた際に笑わせてくれた、女性が居ました。
「みんながバサ、バサなんて言うが、おら、生まれた時からバサじゃねー」なんて。
カーナビが無かった時代は助手席のカーちゃんがナビゲーター。
それで、カーナビになったそうです。って嘘。朝から嘘を言っちゃいました。
カーちゃん、横から指示しないでよ。って我が家も同じだった笑えない話(笑)。