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* 前のページより続き
我が家の祖先のことをいろいろ調べ、家系・繋がりなどをまとめているうちに、
名越左源太の墓を未だに拝めていないのは申し訳ないこと、是非とも探し出して
お参りしなくては、という想いが募っていました。
左源太の子供・子孫がどれだけ残っているのか、お参りをするひとが果たして
いるのだろうか?と考えると、おそらく鹿児島に残っているのは
ウチと内村さんと、おそらくイサさんの子孫の方くらいではないかと思われるのでした。
3/6(木)
タンタドの名越左源太別邸跡へ。
これまでにも2~3度探したのだが、今回ようやく初めて訪ね当たる。
屋敷跡地前の坂道入り口に表示板があるが、車で行くと少々見つけにくい感あり。
3/11(火)
福昌寺にあった墓が移設されたという坂元墓地へ。
* ネットで探して移設のことを知ったのは↓このHPでした。
名越左源太公の墓
墓地の管理事務所へ行き、移設・改葬されたという無縁墓の多数の骨壺を見せてもらう。
名越とも縁のある「町田氏」の名前を多く見かける。
昭和24年の時点で連絡の取れないものや訪れる人の無い墓は
全て無縁墓としてまとめられ、供養されたということだった。
*ほとんどの骨壺の蓋に番号が書かれていたが、
市の墓地関係部署で訊くと、移設・改葬されたものは昭和40年代に
まとめて供養され、資料・名簿などは残っていないとのこと。
左源太のものが果たしてそこにあるのかは不明のまま。
この日はこのあと県立図書館へ行き、永井亀彦氏の
「高崎崩の志士 名越左源太翁
(嘉永年間著わされた郷土誌料 南島雑話の解説)」と
「高崎くづれ 大島遠島録 (名越左源太翁日記)」の
2冊を借りて帰った。
私は新聞で連載されていた「南島雑話の世界」と後に出版された書籍以外、
この時初めて見にしたが、父は台湾で暮らしていた頃に
左源太の描いた絵と解説の原稿を目にしている。
左源太の次男・轟は父の祖父。台湾南部で大正11年2月に亡くなっている。
父は大正15年生まれだから、轟さんとはお目文字叶わなかったわけですが、
左源太の描いたものは父親(轟の長男)から見せてもらったそうです。