トップ画像↑ 画面右の墓石に「前 東福寺岷山士融大釋師」とあります。
(中央の墓は「中西長門守秀長」の墓、画面左奥が「琉球人の墓」)
福昌寺墓地の石塀の外の一群の墓を見て、よく知らない人物のことを調べてみることにしました。
まず、「K」の「岷山(樺山資之 父)の墓」です
←こちら、画面右の墓石に「前 東福寺岷山士融大釋師」とあります。
(中央の墓は「J」の「中西長門守秀長」の墓、画面左奥が「I」の「琉球人の墓」)
そもそも「樺山資之」という方を知りませんでしたので、ネット検索してみると、
「樺山三円」の諱であると出ていました。
また、「樺山資之」の別称:樺山三円の実父が「樺山資雄」と書かれたサイトを見つけ、
「樺山資雄」(かばやま すけお)は「幕末から明治期の国学者」であることがわかりました。
晩年は「松原神社の宮司となった」とあります。
享和元年10月14日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。香川景樹(かげき)に和歌をまなぶ。藩命で八田知紀(はった-とものり)らと地誌「薩隅日地理纂考」を編集。晩年,鹿児島の松原神社の宮司となった。明治11年7月13日死去。78歳。通称は武左衛門。著作に「山陵遺考」。
出典 講談社 」
「中西長門守秀長」についてはまた後日調べることにします。