☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

「平川の国生先生」mixi日記より

2008-10-07 22:35:29 | 日記
鹿児島市のホームページが面白いです!
(追記 2017. 4. 10/注:残念ながらリンク先はなくなりましたので
   代わりになるページがある分はリンク貼っています)

こういうの見つけると、つい、いろいろ読んでしまう
県や市のホームページって、使いにくかったり
ちょっとつまらないイメージがあったけど、
いつからこんなに充実したんだろう??
といっても、日頃よく見てたわけじゃないのですが。


<メモ>
「国生先生記念碑」
http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/_28665/_28666/_29834.html#2
大正三年の桜島大爆発後、平川小学校の校長となった国生岩右衛門先生は、子供たちの家庭が貧しいためよく学校を休むことから、平川の教育は貧乏から脱け出さなければ成功しないと考え、土質、気候のよく似ている桜島と同じように、びわの木を植えることを思いつきました。ーーーーーーー


「島津久光」
http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/_28665/_28666/_28685.html#2

 西郷隆盛が参議を辞めて帰国した後、内閣顧問に任ぜられ、翌年、左大臣に任命されたが、保守的な傾向が強くて政府首脳と対立し、一八七五年(明治八)辞任して、郷里鹿児島の玉里邸に隠退した。そして、一八八七年(明治二十)十二月六日、七十歳で病死し、国葬によって福昌寺墓地に葬られた。現在、照国神社隣りに、斉彬、忠義、久光の銅像が建っている。ーーー

☆玉里邸(島津久光の別邸)跡は、私の母校の中にあるのです♪


「若き薩摩の群像」&「長沢鼎(磯永彦助)誕生地」
http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/_28665/_28666/_28680.html#3

このページも残っていません。
 変わりに、以下に該当するページを貼っておきます。(追記 2017. 4. 10 )
 内容については当時とは変わっていますのでご了承ください。
「若き薩摩の群像」「長沢鼎誕生地」
「磯永彦助(長沢鼎)」


などなど。
きっとあなたもハマること間違いなし!

さあさ、こちらからどうぞ。
    ↓
<名前からさがす>
http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/_28665/_28666.html

☆このリンク先も残っておりませんので、
 コチラは当時のものではありませんが
 代わりとなる『偉人賢人』のページを紹介しておきますのでご了承ください。(追記 2017. 4. 10 )

  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「"ワイン王 長沢 鼎" というひと」mixi日記より

2008-10-07 19:26:08 | 歴史探索
先程、アメリカ・ニューヨークにお住まいのマイミクさんの日記から
関連記事へとんで、「NY永住組」というコミュを見つけました。
mixi内にも本当にいろんなコミュがありますね。
改めて、海外で暮らしている方々も多いのだなぁと感じること暫し。

そこから日系人のためのサイトへ飛んだら、
幕末の薩摩からイギリスを経て、アメリカへ渡った
「長沢鼎(ながさわ かなえ)」に関する記事がありました。
       ↓    ☆以下、リンク先が残っていないものが多々あります(追記 '17. 4.11)
   「グレープ・キング」長沢鼎の足跡

鹿児島出身の方ですから、当然名前も知っていましたし、「ワイン王 長沢鼎」としても有名ですが、イギリスに留学した後、アメリカで偉業を成し、彼の地に骨を埋めた、ということくらいであまり詳しいことは知りませんでした。
(「カリフォルニアの葡萄王」となっていたり、いろいろですが‥‥)

おそらく現地に残っている資料を元に書かれたのだと思いますが
このサイトの記事はとても興味深く、詳しいことが書かれていました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


[長沢鼎(ながさわ かなえ)](1852~1934)
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/gunzon.html#nagasawa

>> 元薩摩藩士。藩の名門校、開成所で英語を学ぶ。1865年、藩費留学生として
森有礼、鮫島尚信らとともに若干13歳でイギリスに渡る。<<
                     ーー 上記記事より ーー


☆上記記事にもあるように、
長沢らがイギリスに留学した当時は鎖国中であり、
幕府に対して彼らは脱藩・密航して国外に出たという筋書きになっていた。
「長沢鼎」という名前はこのとき藩主から与えられた変名であり、本名は実は「磯永彦助」。



記事によると、
>> スコットランドの中学校に入学して英語を学んで2年が経ったころの長沢に、劇的な出会いが訪れた。宗教家トマス・レーク・ハリス。カリスマ的指導力を持つアメリカ人である。<<

宗教家が絡んでいたんですねー、知らなかった。

そこで、改めてWikiで「長沢鼎」を検索したのですが記載がなく、
そのかわり、「トーマス・ブレーク・グラバー」というスコットランドの商人の記事がリンクされていました。
長崎グラバー園の、あのグラバーさんですね。

グラバーさんは「政治的混乱に着目して薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売。薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長沢鼎らの海外留学の手引きもして」いたらしい。
そんな関わりがあったことは知りませんでした。



長沢鼎に関する記事のつづき ーー

>>このころ本国日本ではいよいよ倒幕の気分が沸騰し、その対応に忙しい薩摩藩は留学生の生活を一時的に見放していた。1867年、長沢ら留学生有志はハリスに同行して渡米。ニューヨーク州ブロクトンにある教団コロニーに居住し、ワイン醸造などの労働に従事しながらハリスの教えに従った自給自足の集団生活を送ることになる。
 1868年、明治維新の報に森らは帰国したが、ひとり長沢のみはハリスの希望により教団に残された。<<ということらしいです。


☆「長沢ワイン」でGoogle検索するといろんな記述があります。
http://www.sommelier.jp/higashikanto/CALIFORNIA14june2004_3.htm
↑ここからのリンク
http://www.sf-japan.or.jp/news/0407/0407-03.htm


「ナガサワワイン」
http://www.rakuten.co.jp/yamakataya/1821359/378185/


ちょうどNHK大河ドラマ「天璋院 篤姫」が、
次回辺りからこの頃を舞台に展開していくので、
想像をめぐらせると2倍3倍に楽しめます。


*ちなみに、薩摩藩留学生15名の中には、名越左源太の長男もいました。
私の曾祖父のお兄さんですが、こちらは薩摩に帰って来てからは
なかなか思うような生き方が出来なかった、と聞いています。

註: 渡航したのは総勢19名ですが、藩費留学生は15名で、
   新納久脩・松木弘安(寺島宗則)・五代友厚の三名と
   通訳:堀孝之(長崎出身)とともにイギリスに派遣。

☆ 鹿児島市のHPより「磯永彦助(長沢鼎)」(← '17. 4.11 追記 )

☆ 下の2枚の写真は2008年3月16日に訪ねてみた興国寺跡墓地で撮ったもの(← '17. 4.11 追記)

興国寺跡墓地で見つけた長沢鼎の墓への案内表示。


*墓地への入り口。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする