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☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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名越彦太夫とは?

2019-10-07 23:55:25 | 名越彦太夫

以前アップした画像で「名越彦太夫」という名前が気になっていた。

(『福昌寺跡の島津家墓地に』(2018.3.20))

どこかで目にした様にも思った。

が、その後そのままで放っておいた。

(画像は福昌寺跡島津家墓地にて2008.5.17 撮影)

 

 関連記事「5月の歴史探訪フォトアルバム-2

 

最近になって調べてみる気になった。

 

ネット検索をかけてみると、「篠崎 仲苗(しのざき なかなえ)」という名前がトップに上がっていたので見てみた。

 

「名越彦太夫高房の次男」とある。

 

 実父:名越彦太夫高房(名越左源太家分家筋の当主。家格代々小番。広敷御用人や側役、当番頭などを務める)

 
「高房」‥‥‥ 島津斉興から島津忠義に仕えた名越彦太夫高房
 
 

実はずいぶん前に、原口泉先生の著書『NHKかごしま歴史散歩』の中の「サラリーマン武士の一日」の章で目にしていたのだ。

 

それによると、名越家の初代・名越恒渡(つねただ)の弟・高豊の子孫で、5代目が高房ということらしい。

 

4代目・盛発が鮫島家から養子入り。この頃相当家運が傾いていたが、4代目は鮫島家から持参した30石を基礎にして家運をおこした中興の祖である、とのこと。

 

5代・高房は、横目役に就いていたが、1816年(文化十三年)から長崎詰となり蔵屋敷の監査などにあたった。

ところが長崎在任中、何かと出費がかさんだ様で、再び家計が苦しくなる。

1823年(文政六年)から琉球への転勤願いが叶い(注:琉球といっても奄美のこと)約2年勤務。

その結果、苦しかった家系も挽回し、さらに新たに屋敷地や禄高も買うことが出来た。

 

6代目・彦太夫高温(たかはる)の代には219坪と買増した添地合わせて339坪あり、禄高も幕末には4百石近くになった。同じ屋敷内に家来の黒木家と川村家を含めて三世帯が住んでいる。

 

名越彦太夫(6代目)は、順調に昇進してお側役までなった。(お側役とは殿様と家老の取次役)

 

尚、名越彦太夫高房の次男・彦十郎は、母方にあたる篠崎蔵太左衛門家の養子となり、名跡を相続する。

江戸芝藩邸において江戸留守居を務めていたが、庄内藩を中心とする江戸幕府軍による薩摩藩邸焼き討ち事件の際に戦死。 ←Wiki「篠崎仲苗」より https://ja.wikipedia.org/wiki/篠崎仲苗

 

 

 ちなみに「名越彦太夫」と同じ石塔台座には「町田」の名もあります☆


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