「この精神がギリギリの処に到達するというのは、人間自我の頭脳的知恵が極限に達して崩壊することである。」
とあるのは、
人間が自力で問題の解決をはかろうとしても、
それは無理なのだ、
とさとることである。
そうなると、
既に厳然と存在している“生命の実相”に
お任せすればよいのだ、
ということでなる。
心が神に展開するきっかけとなるのは、
この神への「無条件無我降伏」である。
幼な児の心になれ、なんて言ったって、
私の意志的努力では、
それは無理というものだった。
私には無理だった。
私は人生体験がすべて
私を我を落とす方向へ方向へと導いて、
仕方なく無理やりそのような方向に導かれた、
というのが
実際の話だ。
それほど
「我を落とす」ことで
神我を導き入れるということは、
難しいことなのである。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【神想観の目的は、自己の内なる仏性(キリスト教的に言えば“汝の内なるキリスト”)を目覚めしめるところの方法である。その内なる仏性を目覚めしめる方法は必ずしも一種類ではないのである。「南無阿弥陀仏」とひたすら称名念仏するのも、内に宿りたまう阿弥陀仏を目覚めしめ、此処がこのまま阿弥陀仏の極楽浄土であることを自覚せしめる方法である。坐禅し調息するのも、その一つの方法である。公案を授けられて、一心にそれを解決しようとして精神がギリギリの一点に到達するのもその方法の一つである。この精神がギリギリの処に到達するというのは、人間自我の頭脳的知恵が極限に達して崩壊することである。雑行雑修の心を振り捨てて唯一向専心「南無阿弥陀仏」と念ずるのも、人間的はからいの完全抛棄であり、其処に神があらわれる。禅も念仏も一如である。】