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雑行雑修の心を振り捨てて唯一向専心「南無阿弥陀仏」と念ずるのも、人間的はからいの完全抛棄であり、其処に神があらわれる。禅も念仏も一如である。

2021-07-28 10:33:38 | 日記
「この精神がギリギリの処に到達するというのは、人間自我の頭脳的知恵が極限に達して崩壊することである。」
とあるのは、
人間が自力で問題の解決をはかろうとしても、
それは無理なのだ、
とさとることである。
そうなると、
既に厳然と存在している“生命の実相”に
お任せすればよいのだ、
ということでなる。
心が神に展開するきっかけとなるのは、
この神への「無条件無我降伏」である。
幼な児の心になれ、なんて言ったって、
私の意志的努力では、
それは無理というものだった。
私には無理だった。
私は人生体験がすべて
私を我を落とす方向へ方向へと導いて、
仕方なく無理やりそのような方向に導かれた、
というのが
実際の話だ。
それほど
「我を落とす」ことで
神我を導き入れるということは、
難しいことなのである。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【神想観の目的は、自己の内なる仏性(キリスト教的に言えば“汝の内なるキリスト”)を目覚めしめるところの方法である。その内なる仏性を目覚めしめる方法は必ずしも一種類ではないのである。「南無阿弥陀仏」とひたすら称名念仏するのも、内に宿りたまう阿弥陀仏を目覚めしめ、此処がこのまま阿弥陀仏の極楽浄土であることを自覚せしめる方法である。坐禅し調息するのも、その一つの方法である。公案を授けられて、一心にそれを解決しようとして精神がギリギリの一点に到達するのもその方法の一つである。この精神がギリギリの処に到達するというのは、人間自我の頭脳的知恵が極限に達して崩壊することである。雑行雑修の心を振り捨てて唯一向専心「南無阿弥陀仏」と念ずるのも、人間的はからいの完全抛棄であり、其処に神があらわれる。禅も念仏も一如である。】
 

波立ちさわぐ表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入り大いなる業を成就するのである。

2021-07-28 09:51:04 | 日記
「波立ちさわぐ表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき」
とありますが、
“自我の抛棄”ということが
難しいのである。
これは“つかみを放して神に全托する”ことが
そのための方法であるのである。
そのとき、
内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入り大いなる業を成就するのである。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【「自己の内に宿る仏性」又は「汝の内に宿るキリスト」という場合の「内」とは「肉体の内」ではないのである。わが存在の深奥なるところに、現象の自分の想念が波立てども、決して波たたずに、深く一切を湛えて不動にしてそのまま一切をあらわすところの根源的な存在があるのである。すべての善きものは悉く、この深く湛える根源より発するのである。これをキリストは「天の父」と称したのであり、その「天の父」のまします「わが存在の深奥なるところ」を「神の国」と称したのであり、「神の国は汝の内にあり」と喝破されたのである。キリストが「我れみずからにては何事をも為し得ず、天の父われに在(いま)して御業を為さしめ給うなり」と言ったところの「何事をもなし得ない我みずから」とは、波立ちさわぐ表面の自我であり、その表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入り大いなる業を成就するのである。】