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霊の網をひろげること

2021-07-29 10:37:26 | 日記
「静謐(せいひつ)の度が深まるほど、その程度に応じて“霊の網”はひろがり漁獲高が増加するのである。」
と書かれているが、
“此の世には神しか存在していない”という究極の真理は
なかなか「信」にいたるまでが大変なのであるが、
「信」が熟してくると、
静かな確信、静謐といえるような境地に達するのである。
霊の世界に網を張る能力は、
「間断なき祈り」によって徐々に形成される能力であり、
祈らない人には形成は不可能である。
“祈ること”が信仰の中心的な行なのである。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【多くの人達は地上生活の一層の幸福と調和を求めて神想観する、換言すれば物質的な地上的な「善き物」がより多く得られるために、地上に網を一層広げることを念願するのである。しかし地上に網を大きく広げても、多くの魚を漁獲することはできないのである。魚を求めるならば、その魚が肉眼にはまだ見えないでも、海に網を広げなければならないのである。それと同じく、霊の世界の良き物はまだ肉眼には見えないが霊の世界に網をひろげてこそ、やがて肉眼に見える多くの魚(現象的な良きもの)を獲ることができるのである。霊の世界に網をひろげるには、現象的に噪(さわ)いではならないのである。静かなる心こそ、「霊の網」である。静謐(せいひつ)の度が深まるほど、その程度に応じて「霊の網」はひろがり漁獲高が増加するのである。】
でもこの真理を拡大するならば、
霊の網を広げることを怠らないならば、
現象の漁獲高も増加するわけだから、
その点も安心していてよいのである。
 
 
 
 

自我を完全に打ち砕くためには、それが何故必要であるかその理由がわかる必要がある。

2021-07-29 09:51:06 | 日記
肉体の傲慢が消え去るには、
「現象ナシ実相あるのみ」という真理が
分るということが必要です。
また、時間・空間世界世界というものが、
“神の子”なる実相生命の
目に見える世界における表現の世界であるという唯神実相哲学が、
はっきり分っていないと、
物質に価値を置く観方から脱することが難しいでしょう。
ほとんどの人が物質を実在と思っているからです。
「自我を砕く必要がある」と納得するには、
その根拠となる「物質は実在ならず」という真理が、
分って始めてできることなので、
真理の理解が先決となります。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【本当に肉体の傲慢が消え去った時、肉体はイエスの如くこう言うであろう。「神よ、われみずからにては何事をも為し得ません。わが語ることはわが語ることではありません。わが内に宿るあなた(神)が語らしめ給うのです。私は唯ラッパに過ぎません。私には何の智慧もありません。私には何の力もありません。私には何の生命もありません。肉体そのものものには何の健康もあり得ないのです。私はただ謙遜に、あなたの生命が流れ入って私の健康として展開することを待ち望むだけなのです。私には何の富もありません。私の富と見えるものは実は私の富ではありません。神の栄光(さかえ)の展開に過ぎないのです・・・」こうして神にすべての栄光と誉れとを捧げ得るとき、本当に自我がくだけたのである。自我がくだけたのである。自我がくだけ、自我が空無となったとき、はじめて神があなたの生活を全領するのである。】