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真理の朝日が立ちのぼる前に『無明』の自壊作用が起こるのであるが、これが一転機となり驟雨の後の快晴のような爽快な健康がめきめきと回復してくる。

2021-07-30 11:02:10 | 日記
真理の朝日が立ちのぼる前に
迷いの自壊作用がおこるのである。
「迷いが砕ける」ことと「実相が現われる」こととは、
一つことの両面である。
エディ夫人はこのケミカライゼーションが起こったら、
「あなたの病気はもう治ったと自分は病人に宣言する」とまでいっています。
(生命の実相第8巻 谷口雅春)
【われわれが「神想観」によってある事物の成功を神にもとめる場合に、その求めた事物がえられないで失望していると、こんどは求めた以上のものが他の方面から与えられることがおうおうあるのであります。これは神の知恵が人間の予想した以上のところに働きたまうからであり、迷いの自壊作用でもあります。たとえば、ある病気に対し、健康な状態を神に求めていると、かえって熱が高くなったり、痛みが増加したり、分泌物がふえたりして、いっけん病状が急激に悪くなったりすることがあります。これでは「神想観」も効力がなかったのかと思って失望していると、その病状の急変が一転機となって、驟雨の後の快晴のような爽快な健康がめきめきと回復してくるのであります。クリスチャン・サイエンスの開祖エディ夫人はこの「病状の急変」をケミカライゼーションと名付けて「これは真理の朝日が立ちのぼる前に『無明(まよい)』の自壊作用が起こるのであるから、このケミカライゼーションが起こったら、あなたの病気はもう治ったと自分は病人に宣言する」とまでいっています。「神想観」によって生命の実相を観じたり、『生長の家』誌や『生命の実相』のような生命の真理を判りやすく書いてある本を読んで、病状が急激に悪変したならばこのケミカライゼーションという「迷いの自壊作用」であって、近くまったき健康の出現する前兆なのでありますから、自信をもって、やはり神想観を続けてください。そして毎日せめて一時間ぐらいは『生長の家』誌や『生命の実相』実相篇、光明篇、生命篇、万教帰一篇等を読み、聖経『甘露の法雨』を祖先の霊前で繰り返し読んでいただいておれば必ず急速にその病気は回復するのであります。】
 

霊の網をひろげること

2021-07-29 10:37:26 | 日記
「静謐(せいひつ)の度が深まるほど、その程度に応じて“霊の網”はひろがり漁獲高が増加するのである。」
と書かれているが、
“此の世には神しか存在していない”という究極の真理は
なかなか「信」にいたるまでが大変なのであるが、
「信」が熟してくると、
静かな確信、静謐といえるような境地に達するのである。
霊の世界に網を張る能力は、
「間断なき祈り」によって徐々に形成される能力であり、
祈らない人には形成は不可能である。
“祈ること”が信仰の中心的な行なのである。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【多くの人達は地上生活の一層の幸福と調和を求めて神想観する、換言すれば物質的な地上的な「善き物」がより多く得られるために、地上に網を一層広げることを念願するのである。しかし地上に網を大きく広げても、多くの魚を漁獲することはできないのである。魚を求めるならば、その魚が肉眼にはまだ見えないでも、海に網を広げなければならないのである。それと同じく、霊の世界の良き物はまだ肉眼には見えないが霊の世界に網をひろげてこそ、やがて肉眼に見える多くの魚(現象的な良きもの)を獲ることができるのである。霊の世界に網をひろげるには、現象的に噪(さわ)いではならないのである。静かなる心こそ、「霊の網」である。静謐(せいひつ)の度が深まるほど、その程度に応じて「霊の網」はひろがり漁獲高が増加するのである。】
でもこの真理を拡大するならば、
霊の網を広げることを怠らないならば、
現象の漁獲高も増加するわけだから、
その点も安心していてよいのである。
 
 
 
 

自我を完全に打ち砕くためには、それが何故必要であるかその理由がわかる必要がある。

2021-07-29 09:51:06 | 日記
肉体の傲慢が消え去るには、
「現象ナシ実相あるのみ」という真理が
分るということが必要です。
また、時間・空間世界世界というものが、
“神の子”なる実相生命の
目に見える世界における表現の世界であるという唯神実相哲学が、
はっきり分っていないと、
物質に価値を置く観方から脱することが難しいでしょう。
ほとんどの人が物質を実在と思っているからです。
「自我を砕く必要がある」と納得するには、
その根拠となる「物質は実在ならず」という真理が、
分って始めてできることなので、
真理の理解が先決となります。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【本当に肉体の傲慢が消え去った時、肉体はイエスの如くこう言うであろう。「神よ、われみずからにては何事をも為し得ません。わが語ることはわが語ることではありません。わが内に宿るあなた(神)が語らしめ給うのです。私は唯ラッパに過ぎません。私には何の智慧もありません。私には何の力もありません。私には何の生命もありません。肉体そのものものには何の健康もあり得ないのです。私はただ謙遜に、あなたの生命が流れ入って私の健康として展開することを待ち望むだけなのです。私には何の富もありません。私の富と見えるものは実は私の富ではありません。神の栄光(さかえ)の展開に過ぎないのです・・・」こうして神にすべての栄光と誉れとを捧げ得るとき、本当に自我がくだけたのである。自我がくだけたのである。自我がくだけ、自我が空無となったとき、はじめて神があなたの生活を全領するのである。】
 

雑行雑修の心を振り捨てて唯一向専心「南無阿弥陀仏」と念ずるのも、人間的はからいの完全抛棄であり、其処に神があらわれる。禅も念仏も一如である。

2021-07-28 10:33:38 | 日記
「この精神がギリギリの処に到達するというのは、人間自我の頭脳的知恵が極限に達して崩壊することである。」
とあるのは、
人間が自力で問題の解決をはかろうとしても、
それは無理なのだ、
とさとることである。
そうなると、
既に厳然と存在している“生命の実相”に
お任せすればよいのだ、
ということでなる。
心が神に展開するきっかけとなるのは、
この神への「無条件無我降伏」である。
幼な児の心になれ、なんて言ったって、
私の意志的努力では、
それは無理というものだった。
私には無理だった。
私は人生体験がすべて
私を我を落とす方向へ方向へと導いて、
仕方なく無理やりそのような方向に導かれた、
というのが
実際の話だ。
それほど
「我を落とす」ことで
神我を導き入れるということは、
難しいことなのである。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【神想観の目的は、自己の内なる仏性(キリスト教的に言えば“汝の内なるキリスト”)を目覚めしめるところの方法である。その内なる仏性を目覚めしめる方法は必ずしも一種類ではないのである。「南無阿弥陀仏」とひたすら称名念仏するのも、内に宿りたまう阿弥陀仏を目覚めしめ、此処がこのまま阿弥陀仏の極楽浄土であることを自覚せしめる方法である。坐禅し調息するのも、その一つの方法である。公案を授けられて、一心にそれを解決しようとして精神がギリギリの一点に到達するのもその方法の一つである。この精神がギリギリの処に到達するというのは、人間自我の頭脳的知恵が極限に達して崩壊することである。雑行雑修の心を振り捨てて唯一向専心「南無阿弥陀仏」と念ずるのも、人間的はからいの完全抛棄であり、其処に神があらわれる。禅も念仏も一如である。】
 

波立ちさわぐ表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入り大いなる業を成就するのである。

2021-07-28 09:51:04 | 日記
「波立ちさわぐ表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき」
とありますが、
“自我の抛棄”ということが
難しいのである。
これは“つかみを放して神に全托する”ことが
そのための方法であるのである。
そのとき、
内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入り大いなる業を成就するのである。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【「自己の内に宿る仏性」又は「汝の内に宿るキリスト」という場合の「内」とは「肉体の内」ではないのである。わが存在の深奥なるところに、現象の自分の想念が波立てども、決して波たたずに、深く一切を湛えて不動にしてそのまま一切をあらわすところの根源的な存在があるのである。すべての善きものは悉く、この深く湛える根源より発するのである。これをキリストは「天の父」と称したのであり、その「天の父」のまします「わが存在の深奥なるところ」を「神の国」と称したのであり、「神の国は汝の内にあり」と喝破されたのである。キリストが「我れみずからにては何事をも為し得ず、天の父われに在(いま)して御業を為さしめ給うなり」と言ったところの「何事をもなし得ない我みずから」とは、波立ちさわぐ表面の自我であり、その表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入り大いなる業を成就するのである。】