自分の内に
既に自分の本体としての「完全なる生命」がある。
この自分の内に
「完全なるもの」が存在していて、
それが本当の自分なのだということが分ってくると、
実相の悟りが確立されてきたんだと、
言えるのである。
人間は「既に仏なのだ」「もともと神の子なのだ」という自覚を取り戻すために、
真理を学び神想観を実修するのである。
祈りの方法は「この内在の“完全なる生命”に自分自身の魂の波長を合わす」ことなのである。
自分の「内」に神と共にまします“神の子”を
観じることなのだ。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【誰にも、その潜在意識の底の底にイエスが「此の世に創造られぬ前より神と偕に有ちたりし栄光を今御前にあらわしめ給え」と祈ったところの“神と偕(とも)に有(も)ちたりし其の栄光”ある「実相の完全」さを奪還したいところの願いが宿っているのである。その“完全なる生命”は自己の内に、今其処にあるのである。その内に宿る“完全なる生命”は自己の内に、今其処にあるのである。その内に宿る“完全なる生命”が神癒のシテなのである。この内在の奥底の生命はただ“円満完全さ”のみを知るのである。この内在の“完全なる生命”に自分自身の魂の波長を合わすとき、神癒の奇蹟が起るのである。】