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仕事を失うということは、他に自分に適したもっとよい仕事があるということです。

2021-03-30 10:10:25 | 日記
仕事を失うということは、
神様は他にもっとよい仕事を与えようとしているからであると、
発想の転換をすることが実相の考え方なのである。
この発想の転換は、
神の絶対善を信じることでできるのである。
「善なる神以外存在していない」という「信」である。
(祈りの科学 谷口雅春)
【そんなことを話している中にこの憐れな婦人は、
「チェーン・ストアは多くの人にとって大変都合のよいものでした。小さな別々の商店を経営しているものにとっては余りありがたくはありませんでしたけれども。」といったりなどした。「だって進歩ということは宇宙の法則なんですよ。それはすべての人に対する発達を意味するものであって、或るものが進歩するからといって他のものが傷つけられるなどという事はあり得ないんですよ。」とマン女子はいった。「あなたがチェーン・ストアの進歩のために現在の仕事から追い出されたとしたならば、それは時が熟して、もっとよい仕事にあなたが用意されているのですよ。あなたを傷つけているものは、起った事件そのものではなく、起った事件をあなたがどのように考えるかというその考え方にあるのです。あなたは、ある雑貨店を買いたいために金が欲しいとおっしゃるが、それはあなたの表面の願いであって、あなたの本当の願いじゃないんですよ。あなたは実は求めていないものを求めているのです。真にあなたの求めているもの・・・そしてあなたがそれを期待する権利のある所のものは、あなたの正しい位置と生活になくてはならぬよきものが常に豊かに与えられている状態であって、決してもうすでに衰退しつつある雑貨店の老舗を買って開業することじゃないんですよ。人生の目的は進歩にある。魂の進歩にあるのです。あなたはすでに雑貨商を営んでそれによって得られる所の魂の修行は終ったから次の環境にまで押し出されようとしているのです。あなたは今後貴方にとって正しい境遇があるのです。それを実現するためにはきっと適当な境遇が既に用意されていることをあなたは信じなければなりません。他にあなたの地位があるということを、そしてそこに当然あなたの必要な豊かなる供給があるということをあなたは信じなければなりません。一つのタイプの仕事がなくなるということは、外に仕事が仕事がないという意味ではない、もっと外にいいものがあるということを意味するのです。」】
 

2021年3月勉強会資料

2021-03-29 15:21:58 | 日記
人間の「まことなる願い」を知るためには、神と相対して
神の願いを聴く必要がある。信仰というものは「神と神の子の一対一関係」に入ることなのである。
2021/3/28
現象の心が願っていることは、必ずしも実相の心が願っていることと同じとは限らない。現象心の判断は「我の心」に左右されるからである。
ただ下記の女性の場合は、マン女子に指導を受けて、神の願いを知ることになったのである。
(祈りの科学 谷口雅春)
【そこで私の注釈をちょっと挿ませて頂く。神さまの目から見たならば、彼女に対して家を買うための三千ドルを与えるか与えないかは問題ではなかったのである。神さまは彼女を神自身の自己顕現として彼女をして霊の法則を理解せしめ、彼女に於いて神の愛を実現する所の道を知らしめる事が一層必要であったのである。「霊の法則」そして「愛の法則」とは「与えれば与えられるの法則」である。彼女にとって必要だったのは、三千ドルを叔母から与えられることではなかったのである。叔母に対して・・・それを契機としてすべての人に対して・・・愛を与えることが如何に尊いかを彼女に知らしめることが神の御心であったのである。最初彼女は、「叔母が自分に三千ドルを家を買う代金として与えてくれる気持になるように叔母の心を変化せしむるように祈って欲しい」というのが表面的な願いであった。然しそれは表面の願いであって、まことの願いではなかったのである。何も叔母の心を変化せしめる必要はなかったのである。自分の「与えずして求める心」を変化することこそ彼女の「まことの願い」であった筈である。真に彼女が祈るべき事は、「神よ与え給え」と祈ることではなく、「神よ如何に既に与えられているものに感謝すべきかを教え給え。そして如何に愛を人々に与うべきかを教え給え」という祈りでなければならなかったのである。この祈りが本当に成就した時、自然に無限の供給は流れ入るのであって、吾々の周囲を変化する必要もなければ、他の人の心を変化する必要もないのである。唯自分が如何に変るかということが必要なのである。】
人間の「まことなる願い」を知るためには、神と相対してみ心を聴く祈りが必要なのである。
 
「すべての人は実は実相を求めている」と知り、その信念で行動するということは、難しい生き方だが、ここに至って初めてその人の生き方が本物となるのだ。
2021/3/28
一見物質的満足を求めているかのように見える人も、その奥には人間らしい生活を、人間らしい愛と同情と賞讃とを求めているのであり、そして結局は魂の進歩することをこそ求めているのである。
実相ならざる思い、即ち迷い心というものは、本来存在していないのであるから、どんなに迷っているみたいに見えていても、本当は迷っていないとする人間観は、「実相」に立脚した真の人間観である。
実相は「善のみの世界」であるから、この世界観に立たない限り世の中は良くならないのだ。
吾等が求めるもののを叶えていただくという立場に立てば、実相の世界(御心の天になる世界―神の国)にすでに成就せる所のものであれば叶えられるというのが、真理である。
(祈りの科学 谷口雅春)
【以上の実例によってわかったように吾々は真に何を求むるかを本当に知らなければならないのである。そして吾々の求めるものは結局は他のものではなくしてもっと内的なものを本当は求めているのであるということがわかるのである。金を求めるものも、実は真に金を求めているのではなく、人間らしい生活を、人間らしい愛と同情と賞讃とを求めているのであり、そして結局は魂の進歩することをこそ求めていることがわかるのである。豊かなる生活、愛と同情と讃歎と、そして魂の喜びにみちた進歩と・・・これらは実相の世界(御心の天になる世界―神の国)にすでに成就せる所のものであるのである。事すでに成れりであるのである。吾々は唯、それに波長を合わせればいいのである。「神の国と神の義を求めよ、其の余のものは汝らに加えらるべし」であるのである。吾々が真に求むべきものを知り、その求むべきものを真に魂の世界に於いて波長を合わす時には形の世界に於いてはそれ自(おのず)から成就することになるのである。】
「すべての人は実は実相を求めている」と知り、その信念で行動するということは、難しい生き方だが、ここに至って初めてその人の生き方が本物となるのだ。
 
 
耶蘇と同じような栄(は)えある神の子の顕現を、吾々の此の現代は要求しているのである。
2021/03/17
耶蘇と同じような栄(は)えある神の子の顕現を、吾々の此の現代は要求しているのである。
イエスの説いたことは
“神の子”を実現することである。
これこそが人間の生の目的であり、
幸福生活の基礎である。
私はこの考え方に
いささかも揺るぎを感じない。
(心と運命 谷口雅春)
【耶蘇と同じような栄(は)えある神の子の顕現を、吾々の此の現代は要求しているのである。無論耶蘇は吾々について「汝は神々なり」と証明しているのである。吾等の常に見得るところの唯一の神は人のうちに人を通して顕現せる神であり、顕現的創造である。「汝に宿るキリスト、栄光の希望・・・これは世界の礎(いしずえ)よりして隠されて来たところの秘密である」のである。吾々各人は、その偉大さに大小はあれども、いずれも神の顕現である。それ故に著者の如きはぺテロがイエスの顕われたるを見て「吾が主、吾が神」と叫んだのを訝(あや)しみはしないのである。それどころか、自分は善男善女の顔の中に、神の顕現したまえるを見出し、そこに宿り、そこに顕われたまえる神に対して「吾が主、吾が神」とさえ恥ずるところなく呼びかけることが出来るのである。】
 
 
マン女子がこの婦人に対して知らせることができたのは、人間の生の目的と意義であった。人は自分の神から与えられた使命を知って、自由な生活をも与えられるのだ。
2021/3/25
マン女子がこの婦人に対して知らせることができたということは、人間の生の目的と意義であった。
要約します。
・地上に生れたるすべての人々は、或る使命を神から与えられて生れたものであるから、必ずなすべき仕事がある。
・その仕事を果たすことを通して日常生活に必要なるすべてのものが与えられるようになっているのだ。
・この婦人は真に何を求めているかと云うことを彼女自身で気がつくことができた。
(祈りの科学 谷口雅春)
【マン女史はこの婦人に対して、地上に生れたるすべての人々は、或る使命を神から与えられて生れたものであるから、必ずなすべき仕事があり、その仕事を果たすことを通して日常生活に必要なるすべてのものが与えられるようになっているのだということを、充分納得の行くように話してきかせるのには随分骨が折れたということを書いている。然しついにマン女子は、この婦人が真に何を求めているかと云うことを彼女自身に知らせることができたのであった。】
 
 
視えない神の喜びを直観できる・・・真にあるものは、神の愛、智慧、生命、及びそれらの働きなのであって「まことなる願い」がそれに基づくものであれば、現象上の何かが必需物となって現れてくるのである。
2021/3/24
実相が顕われてくると
祈る目的が神の愛、智慧、生命に基づくことになり、
現象に現われるものは、
すべて不思議な必需物のみとなり、
現象世界は
「神の国」へと変質する。
視えない神の喜ぶ有様を
直観できるようになってくる。
(祈りの科学 谷口雅春)
【これは譬喩(たとえ)であるが、宗教的見地から見て、又実在論の上から見て、現象は実在の影であって「真にあるもの」ではないのである。真にあるものは、神の愛、智慧、生命、及びそれらの働きのみなのである。その働きが現象界に投影して、現実上の金銭となって現れて来ることもあるが、金銭を媒介とせずして、現実上の何かが必需物ともなって現れて来るのである。金銭は要するに媒介であるから媒介のみを求めて真に「まことなる願い」のものを求めなければたといその祈りがきかれて金銭が得られたにしても、真に求める「真なる願い」は実現することができないことがあるのである。】
 
現象は「いのち」の展開であり観念の世界である
2021/03/27
先ずはじめに「自然」について
・自然界は神の“いのち”であり善であり、一体的存在である。人は自然を神の“いのち”として拝む必要がある。このこと自体はその通りであると考える。しかし今回は唯神実相哲学に照らして「自然」を考えてみた。

<現象世界はすべて自分のいのちの展開>・・・「現象世界は観念世界」(心の影)
・赤ちゃんとして生まれた時の写真から毎秒写真を取り続けているとすれば無限数の写真になる。その中には山梨の山に青年時代に行った写真もあれば、子供のころ逗子の海で泳いだ写真もある。小学校で授業をした写真もある。これがすべていのち(実相)の展開である。人によっては自然の中だけの写真しか持っていない人もいれば、ビルディングの中の写真しかない人もいる。「万物は神の心・万物は神のコトバ」という万物は固定していない。実相は「神の心」であるが、万物の内容は人様々である。だが過去はもう無い。現象はいのちの展開であり観念の展開である。
(参考までに)
ヘーゲルは自然を「知」ととらえており、「自然界」を独立したものとみなすことは、世界の統一的な全体像がこわれてしまう、としている。
道元は「東山水上を行く」「石女夜児を生む」という文章を書いている。
 
 
いのち(神の子)に全托
2021/03/27
1 命が神の子であってそれが自分の本体。
現象は霊的波動であり、過去に思ったことの心の影。現象の奥に「実相」が存在している。
2ここに「いのち」があると決める。「いのち」とは「神の子」のことであり円満完全な「人間のあるべき生き方」としての動的理想体。(別次元的存在)
3「神に依り頼めるものはシオンの山の如くなるべし。動くことなく永久に変わることなし。」詩篇125 
4「神の子」に全托
「神の子円満完全」「実相円満完全」と念じる。
実相とは「神の言」のこと。
5 根拠
(参考 ヨハネ伝第1章)
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。
3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
6 まとめ「創造の神は瞑想によって「言」を発し、実相世界を創造した。人間(神の子)も瞑想によって実相を観じ、現象世界を創造する。このことが「言」を受け入れるということの意味である。
 
奇蹟は必ずしもイエスによって起こされず、イエスを信ずるものによって起こされたのである。
2021/03/23
イエスが奇蹟を起こしたのではない。イエスを信ずるものが「信ずること」によって、起こしたのである。
(祈りの科学 谷口雅春)
【凡そイエスの時代にも、イエスの衣にふれても癒されなかった多くの人達があるに相違ないのである。奇蹟は必ずしもイエスによって起こされず、イエスを信ずるものによって起こされたのである。多くの信仰うすきものがイエスによって癒されなかった失敗談は、一々聖書には記載されていないけれども、イエスの十二弟子が伝道に行って病者を癒やすのに失敗した記事はかかれているのである。その時イエスは弟子に対して「あの病いは重態であったから仕方がない」などとは云っていないのである。そして「汝ら信仰うすきものよ」と戒めているのである。ここに彼が如何に信仰をば奇蹟の源泉としているかが明らかである。仮りにここに「奇蹟」という言葉を使ったが、それは現代の自然科学では尚はっきりその機構が説明できない所の「祈りの実現」という意味に解すれば好いのである。】
 
イエスは“汝の信ずる如く汝に成る”ということを教えたのだった。
2021/03/23
イエスは“汝の信ずる如く汝に成る”ということを教えたのだった。
イエスが教えたこのことは、
「信」があれば
その「信」のごとく願いが叶う、
ということである。
このことは実相というものは
創造の神が完全世界のみを造り給うたという「実相世界」への、
強い「信」があって実現することを意味する。
それであるから吾々に大事なことは、
「神の国」への「信」と「観」である。
神への信仰が奇蹟を生むのである。
ただ「信」じただ「観」じるのみである。
(参考 奇蹟の時は今 J.E.アディントン 谷口雅春訳)日本教文社
【イエスは百卒の長(おさ)に向って「汝の信ずる如く汝に成れ」といい給うたのであった。そして盲の人に対しては「汝、このことを私が成し得ると信ずるや」と問いを発して尋ねられている。またイエスは自分の言葉の力によって無花果(いちじく)の樹を枯らした後、次のように言い給うたのであった。「汝ら祈りて何事にても求むるとき、それを受けたりと信ぜよ。汝はそれを得ん」(『マタイ伝』第8章13節、第9章28節、第21章22節】
参考マタイ伝
8-13それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
 
9-28そしてイエスが家にはいられると、盲人たちがみもとにきたので、彼らに「わたしにそれができると信じるか」と言われた。彼らは言った、「主よ、信じます」。
 
21-22それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
 
ラザロ復活の奇蹟には、真理の裏付けがあった。イエスは現象の心の波長が実相の心に既に到達していたのだった。
2021/03/22
イエスの祈りによるラザロ復活の奇蹟は、
吾々には普通信じ難いのではあるが、
真理の眼からみて、
「現象ナシで実相あるのみ」を考えると、
既に放送されている実相という神の放送の波長に
イエスが心を完全に合わせた結果、
起った出来事であるとわかる。
人間は“神の子”であり、
“神の国”に現に今存在しており、
それこそが本当の自分が現に実在している真実の世界だ、
という真理である。
吾々の心が“神の子”の心になると、
その通りになるということである。
(祈りの科学 谷口雅春)
【一切の存在は時間空間を超越せる実在世界にすでに存在するのであるが、それを所要の時間空間面に出現せしめるのは心のラジオ的波動によるのである。これを祈りというのである。イエスはまことにこの受信セット的心の波を如何に起こすべきかによく通達していたのであって、その為に彼は多くの奇蹟をなし得たのである。彼は「汝ら祈る時それをすでに受けたりと信ぜよ。即ち汝はそれを受くべし」と教えたが、実際イエス自身もそのように実行していたのである。彼はまず神に対して「汝は常に吾が願いをきき給うを知る」といって神に感謝しているのである。既に受くるに先立って受けたる如く感謝する所に、すでに受けたと同じ波長が起るのであって、その波長に従って実在世界にある所の人間不滅の姿が、祈りによって指示した時間空間面に、現れて来てラザロがたちまち復活したのであった。】
 
屈服の許されない試練だらけの人生
2021/03/19
私は自分が青年時代、
何という低いレベルの思考と感情レベルの持主かと、
本当に思っていて、
それが嫌になっていたのでした。
中学生の時から
意気地のない弱い人間であり、
おまけに利己的な人間であったのです。
そんな人間の私に
容赦なく
伏せ込まれていた人生が七難八苦でありました。
あまり具体的に書きたくありませんが、
最初の試練は神経症にかかったことです。
これは精神の疾患ではないから、
頭がおかしくなったわけではありません。
でも最初の試練でありました。
私は人生苦というものは、
自分の心が招いた迷い心の産物だという真理を
よく心得ています。
でも過去の業が次から次へと自壊作用として訪れる人生は、
きびしいものがありまして、
その都度心の生長によって乗り越えて行くという、
性質のものであります。
ですので私の人生は向上を目指す以外に方法はなく、
結果的に
逆境から学ぶという人生になったのでした。
ただ逆境というものは、
自分の不徳が招いたものなので、
恥ずかしい事態であるのは明らかであります。
よくない人間だったから逆境を招いたわけで、
人に苦しい思いをさせた結果、
後で作用反作用の法則で、
自分が苦しんだのでした。
ただそれでも今までの人生を通して一貫して言えることは
「神にいつでも守られていた」
という事実でありました。
いろいろな試練を乗り越えるために
自分から積極的に防護策をとりました。
ざっとこんなことをしました。
・坐禅
・坂東札所巡り(打ち止め2回)、秩父札所巡り
・道徳科学(モラロジー)への参加
・谷口雅春哲学・人類光明化運動
考えてみると、
私の人生は前々の世からの自壊作用の連続展開であり、
それに対処するに、
信仰の深化で乗り切って今まで来ている、
ということであります。

 

人間の「本来の面目」(神の子)を実現させよう 

2021-03-29 15:17:31 | 日記
<人間の「本来の面目」(神の子)を実現させよう >  
 生長の家人類光明化運動は、人々が「神のいのちを生きることで幸福になること」を目指します。“神の子”人間は、神様の子つまり「神」を本体としており、“神の子”は人間の設計図つまり人間なるものの理念であり、生き方の核は「愛」の生き方です。「知恵・愛・生命・供給・喜び・調和」の統一理念体である実相金剛身が、真実の人間なのでありますから、すべての人間は聖なる存在なのです。また幸福生活そのものです。この幸福生活の実現を目指すのです。
 吾等生長の家人の使命は、自分の“いのち”が“神の子”つまり「神」であるという真理を先ずは学びそしてそれを人々に伝えることであります。真理実現による幸福生活に誘うのです。吾等は視えない‟いのち”があって生きていますが、“いのち”つまり“神の子”の在り方は「天地一切のものに感謝する生き方それ自体」であるのです。人間が実際は「神」であるからです。これが唯神実相哲学の神髄であります。人間の本体は「神」であり、「神の国」に住んでいるから、本当は病気や不幸などの存在していない完全体であり、視えない「超」的存在です。‟いのち”が見えないように‟いのち”の本体“神の子”実相も視えません。でも“神の子”の現象顕現で“神の国”の幸福を現実に享受できます。この真理を学びそして伝えるのです。真理が人を幸せに導くからです。
 最後に「神の国」を顕現できる方法へと導くのです。一気にはできないです。吾々は一見物質とみえるものに、その裏に実在している「神」を見る力をつけます。現象を見るにあたり、その現象に於いて、視えない「神の働き」を読む力をつけねばなりません。それには観の転換が必要であり、意識の改革というより意識革命が必要です。だから真理の本を読んだり自分の意識を高めて、この世が神の国なのだと分るほどに意識を向上させるのです。唯心所現の法則により、心が神性・仏性あふれる“神の子”の近くまで達した時に、本来この現象の世の奥に潜んでいた「神の国」が実現し、神の属性である諸徳が、神の子人間に流入することになるのです。このことに必要なのが神想観なのです。実相を現象顕現するべく人々を導くことが生長の家の目ざすことです。これが本当の幸福生活であり、生長の家はこの真理で人類光明化を目指します。
 
 

神が祈りを叶えてくださる過程というものは、自己の心がまず動き出して外界に働きかけることそして、外界そのものが動いて心の動きに呼応することとの両方で成立つのである。

2021-03-29 12:48:45 | 日記
神が祈りを叶えてくださる過程というものは、自己の心が動き出して外界に働きかけることそして、外界そのものが動いて心の動きに呼応することの両方で成立つのである。
実相が振動して現象の動きとなるのであるから、
自分を通して‟神のコトバ”が展開するのである。
(祈りの科学 谷口雅春)
【人間は神の自己実現であるから、神が祈りを叶えて下さるのも、自分を通してそれが動き出し、実現するものだということを知らなければならないのである。植物が成長するのも同じことであって、植物の成長は、外側から養分を積み重ねてもらって、外からひきのばしてもらうのではなく、その植物に宿っている神の生命力が内部から動き出して、その植物を成長せしめるのと同じことである。吾々に宿る所の神の生命力が、吾々を内部から自然に動かすようにして、その内部衝動そのままに動いて行く時、自然と事物が成就して行くようになるのである。無論この場合、吾々は自己の我欲に支配せられず、無我の心になって神そのままの動きが現れるようでなければならない。そして又
神は自己の中にも存在すると同時に、外にも宇宙到る処に、そしてすべての人々の中にも存在し給うのであるから、吾々が無我になって祈る時、「吾祈れば天地応え、吾動けば宇宙動く」とあるように、自分の中から自然に動き出す運動と、外から自然に展開して来る所の導きとがあるのである。そしてすなおにそれに従っている時にその祈り求めたものが自然に現象界に実現することになるのである。コーリア女子が日本に渡航することができたのも、自分自身が自然にその友人にその希望を伝えていたことや、その時丁度ロスアンゼルスにいたことなどは自分の中から自然に動き出した催しであるが、その知人がバスの中で新聞を拾って、女流教育家募集の広告を目にして夜中に電話をかけてくれたことなどは外から神の導きがやって来た実例であるのである。】
 

自分の祈りが実現する過程は紆余曲折することがあるものなのだ。

2021-03-29 12:04:48 | 日記
吾々が実相を祈っている過程にあっても、
実相でない事態が起こったという事が、
私の実際問題としてよくあるのである。
それが自分に必要なことであったと気がついたのは
ずっと後のことであって、
でも起こったことは全て感謝して受けてきている。
本当に実相が顕われ始めると、
起こることは良いことばかりに
なって来るとは私は感じている。
現象は全部つながっていて、
自分の実相の展開を現象心が受けているわけであるから、
ひとつことを願って祈っていると
そのひとつことが良いことであっても、
ストレートにやってこないものなのだ。
必要あって紆余曲折して実相はやってくる。
(祈りの科学 谷口雅春)
【一度吾々が無我になって神のみ心を実現すべく祈る時には、外から来る導きをすなおに受けてそれをそのままハイと実行することが必要である。自分の中から「何だかしたくなって」自分の心が動いて来ることを、神からの導きであるとして実行するのは誰でもでき易いことであるけれども、祈りによって神さまに万事を任せてしまった後にさえも、一見自分にとって不利益だと思われるようなことを他から持ちかけられた場合には、すなおにそれに従うことが一寸困難であるようなことも度々あるものである。しかし実は「他から」というような「他」の存在はないのであって、宇宙は一体であるから、すべては神からの導きであるとすなおにうけてその一見都合の悪いと見えるようなことにも感謝して従って行く時に、その「一見都合の悪いこと」は自分の祈りが実現するための道程として是非なくてならぬものであったということがわかるのである。】