創造の神が受肉して人間の形をとって現われた。
2021/5/27
神が受肉して人間の形化して現われた、
つまり「人間は人間の形をした見えない神である」という真理は
新約聖書ヨハネ伝が説く真意であるが、
その真理を哲学の書物にしたのが、
ドイツの哲学者大ヘーゲルであった。
ヘーゲルは『精神現象学』のいわば結論的な形で、
【神がこのように受肉して、本質的かつ直接的に自己意識をもつ人間の形をとる、ということが、絶対宗教の単純なないようである。受肉したとき、神は精神だと知られ、自分が精神であることを意識する。精神とは外化のなかで自分自身を知ることであり、自分とは別のものになるなかで自己同一性を保つような運動体なのだから。】
【神の本姓と人間の本性とは同じものであり、この統一こそが見て取れるのである。】(参考 精神現象学 長谷川宏訳)
訳者の長谷川宏氏は次のように書いている。
『神が人間としてこの世にあらわれたという事実が大切なのではない。その意味が大切である。そして、その意味とは、神の本性と人間の本性が同じだというところにあって、これこそがキリスト教によって人類史上はじめて、断固として啓示された事柄である、と。』
神の本性と人間の本性とが同じだというその本性というのは、
「知恵・愛・生命・供給・喜び・調和」であることは、
明らかである。
谷口雅春先生は実相が顕われるための方法を明示して下さっていました。
2021/05/24
谷口雅春先生は、
2021/05/24
谷口雅春先生は、
実相が顕われるためには、
神想観においてどのようにすればよいかを
明示してくださっており、
それがこの部分だと、
やっと気がつきました。
このことに気がつくこと自体がちょっと難しいので
その心境に達しないと
見落とすとおもいます。
霊的なことってすべてそうであって、
例えば聖書の素晴らしさも
霊的に心が高まって始めて
理解できるようになるのです。
神想観で実相を現わす方法についての雅春先生の記述は、
これであります。
(参考 生命の実相第8巻 無限生命に汲む道 谷口雅春)
【そこでどうしたらこの絶対健康の自覚を得、絶対健康の意識を生長させうるかと申しますと、(1)自己生命について、神なるその本来の面目を念(おも)うことによって、(2)本来の面目のみを念ずることによって(3)本来の面目のみが存在のすべてであると知ることによって、この自覚は促進するのであります。】
つまり
つまり
(1)は“神の子”なる「神」を念じるべし、であります。
(2)は実相を観じることだけしなさい、ということです。
(3)は実相が独在していると知りなさい、です。
(参考 生命の実相第8巻 無限生命に汲む道 谷口雅春)
【この三条件が完全に備わりますと、われらの念はくるいなく実相をうつし出し、真理に充たされ、真理そのものを念うのであります。そして念というものは習慣性をもっていて、真理に充たされ、真理そのものを念うのであります。そして念というものは習慣性をもっていて、最もたびたび考えるところのものにいよいよ深く這入り行くものでありますから、この思念の習慣をつづけて行きますれば、われらはますます真理の方向へ進み行き、実相の世界に属するいっさいの存在をいよいよますます深く意識するにいたるのであります。】
私は上の三条件の内容を実行すれば、
絶対に実相は顕われると、
信じています。
やはり谷口雅春先生は
聖典の各所で、
実相顕現の方法を明確に書かれているのです。
ちなみにこれは“科学的祈り”と内容的には同じです。
ちなみにこれは“科学的祈り”と内容的には同じです。
あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。
2021/05/24
新約聖書ヨハネ伝第11章5~13節
11:5そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。
2021/05/24
新約聖書ヨハネ伝第11章5~13節
11:5そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、
11:7彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。
11:8しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。
11:9そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
11:10すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
11:11あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。
11:12卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。
11:13このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。
<見えない″神の子”(神)を観じるという難しいことを如何にするか?>
2021/5/25
『詳説神想観』には
『詳説神想観』には
以下の如く記されている。
【“生命の実相と申し候事は此の世界が此の儘神の国であり人間は其の儘神の子なりと申すに候。観ずればそれが現るるものに候。観ぜざれば現わるる事なし。さればこそ心を静めて実相を見よと申すに御座候。現象に如何なる悪顕われ候とも何れも神の作り給える実在には之無く候あいだ気にかけずに唯実相円満完全なる相のみを観ずれば結局は円満完全なる実相顕わるるものに之有り候”】
上のご文章には『此の世界が其の儘神の国であり人間は其の儘神の子なり』という真理を「観」ぜよと書いてある。
「神の国」と「神の子」を観ぜよとは、
具体的には何をすればよいのでしょうか。
ここで私投稿者が始めた方法を紹介します。
「神の子」を観じるのは、
“見えない神”が“神の子”だから
つまり透明人間(実相人間)を観じるのです。
あるいは“いのち”を観じるのです。
しかもそれは宇宙に遍満しているのだから
「実相独在」「万物は神のコトバ」を観じるのです。
あるいは「神の心」「実相金剛身」を
想って観じるのです。
谷口雅春先生は、
昨日5月24日にブログ投稿したように
実相を現わす根本策として
【神なるその本来の面目のみを念ずること】
と実相第8巻にお書きになっているのが、
根本の根本であり、
このことは他の光明思想家方は
言ってないと思います。
<物質は物質として存在しているのではなく、“神のいのち”の表現として存在している。>
2021/5/17
現象世界は“神のいのち”の表現である。
正確に言えば、
自分の本体である“神の子”(実相)の
自己表現なのだ。
“神の子”(実相)は
見えないけれども私の「内」に実在している。
“神の子”(実相)は
見えないけれども私の「内」に実在している。
であるから現象というものは
見えたり触ったりできるけれど、
物質として存在しているわけではなく、
「神のいのちの表現」ととらえる必要があり、
物質の奥に実在している、
「知恵・愛・生命・供給・喜び・調和」という
見えない神の恩徳が真実在であるのだ。
現象世界は全部「見えない神のいのち」の表現である。
つまり、実相が独在している。
現象世界は全部「見えない神のいのち」の表現である。
つまり、実相が独在している。
キリストがニコデモに
「新たに生まれなければ神の国に入ることはできない」と伝えたのは、
物質的世界観を霊的世界観に変えなければ、
「神の国」を見ることは不可能だ、
という意味であった。
この世界観の転換ができることを
実相のさとりというのである。
現象世界の「今・ここ」の一点において、
実相の現象化が永遠に行われつつあるのであって、
でも表現されたものは実相の現象化それ自体であるから、
すでに結果(実相の反映)の世界であって、
実相それ自体ではない。(実相の表現体である。)
しかし見えない“神の子”がたった今もここにいて
今ここで
実相の表現を
成しつつあるのである。
今ここで
実相の表現を
成しつつあるのである。
現象がどうあろうとも
実相理念なる円満完全世界は今 ここにあるのだ。
実相理念なる円満完全世界は今 ここにあるのだ。
神想観について
2021/5/8
1 方法 内なる「神の子」「神の国」を心の眼でみて、コトバで観じる。
「神の国は汝らの内にあり」とある如く、
内に「神の国」のあることを「信じ」切り「観」じる。
“神の子”は内のどこにいるか。
「神の子円満完全」と念じている本体の場所が「神の子」の居場所。「神の子」は神と共にいる。
“神の子”は内のどこにいるか。
「神の子円満完全」と念じている本体の場所が「神の子」の居場所。「神の子」は神と共にいる。
“神の子”(神の肖像)の円満完全なることをに“神の子”と共に居る神にゆだねる。
2 神想観の目的は「我の置き換え」。人間我を神我に置き換えることが目的。神想観は病気を治す薬ではない。
3 自我が空無になった時に、「天の父われに在して御業を為さしめ給うなり」となり、内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入る。実相を開くための扉のメイン・スイッチは「幼な児の心」で「神の子」「神の国」を信じ切ること。
私たちの心を、唯、内在の神のみに振り向けよ。
2021/05/08
神を愛することイコール実相が現われることである。
2021/05/08
神を愛することイコール実相が現われることである。
神の創造の素晴らしさをわかる必要がある。
そうすることが神を愛することにつながるからだ。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【私たちの心を、唯、内在の神のみに振り向けよ。病いに振り向けるな、貧乏に振り向けるな。これが自己の神性を自覚する最勝最善の近道である。「汝、心をつくし、精神をつくし、魂をつくし、力をつくして汝の神を愛せよ」とキリストが言ったことは、自己の神性を自覚するための最も近道であるのである。現象界の形ある何物かを求めるよりも、「神」そのものを求める方が、根源を求めることになり、その余のものは根源より流れ来たっておのずから調うことになるのである。しかも「形あるもの」を最初から求めた人の如く、形ある事物に執着し、縛られ、それを失うまいと恐怖する必要もなく、唯流れる滝の水を必要に応じて汲むが如く、執着なくして、豊かなる生活を享受することができるのである。ひとたびこの境地に達したならば「持たずして豊富に享受する」と言う聖境を味わうことができる。】
実相を顕わす原動力は“神”への「信」なのだ。
2021/05/06
実相を顕わす原動力は“神”への「信」なのだ。
2021/05/06
実相を顕わす原動力は“神”への「信」なのだ。
“神”の力、“神の国”を「信」じるから
実相があらわれるのである。
宗教やってても神を信じていなければ、
心の救いには程遠いのである。
宗教の名を借りた現象崇拝ではだめだ。
(奇跡の時は今 J・Eアディントン著 谷口雅春訳)
【然り、神癒の力は聖木の切片の中にあるのでもなく、エスキュラピアスの神像の中にあるのでもなく、“人間イエス”の中に在るのでもなく、また況んや、人間が服用する薬剤の中にあるのでもないのである。すべての力は“神”に属するのである。神の全能の力のみが唯一つの“力”である。そのほかに“力”はないのである。イエスは次の如く言っているのである。
「汝の信仰、汝を癒せり・・・・われみずからにては何事をも成し得ず、天の父、われに在(いま)して御業を為さしめ給うのである」】
「神」が「存在のすべて」だと思うようになり、
この世の一切合切が「神」なんだと
感じられるようになれば、
もう実相は現われているのである。
「キリスト吾れに宿る」の自覚が絶対に必要!
2021/5/4
「キリスト吾れに宿る」の自覚が絶対に必要である。
「キリスト」というのは「神の子」のことであり、
「真理そのもの」のことでもあります。
“このもの”を神想観で観じるのです。
「キリスト」は父なる神とともに居ます。
神とともに居ますから〝神の子”なのです。
(奇跡の時は今 J・Eアディントン著 谷口雅春訳)
【彼(イエス)は“天の父われに居まして御業を為さしめ給う也”と称して、内に宿る神を説いたのであった。彼が「われに由らで父に至る者なし」と説いたのは〝内在のキリスト”の自覚なくして“父”に至るものはないという意味を説いたのであった。また『ピリピ書』第2章5節に「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と説かれている如くキリスト・イエスの心を心とせざれば何人も神の全能をわがものとすることはできないのである。キリスト・イエスの心を心とするとは、神の霊と一つなるところの霊を自己の〝内”に有つことを知ることである。わたし達は、神を遥かの彼方に置いて跪いて拝んだり、神に向かって話さなければならぬことはないのであるということをイエスは実に完全に知っていたのであった。否、わたし達はキリストの意識・・・すなわち神と一体の自覚を“神に通ずる道”として神の御許に行くべきであると彼は説いたのであった。】
表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき内面の深く湛える奥底の自我「天の父」が表面活動に入り大いなる業を成就するのである。
2021/05/08
表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき、
2021/05/08
表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき、
実相は現われる。
この自我の抛棄が
なかなかに難しい。つまり、
幼な児の心になることが実相の扉を開くゴールデンキーなのだ。
幼な児の心になることが実相の扉を開くゴールデンキーなのだ。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【「自己の内に宿る仏性」又は「汝の内に宿るキリスト」という場合の「内」とは「肉体の内」ではないのである。わが存在の深奥なるところに、現象の自分の想念が波立てども、決して波立たずに、深く一切を湛えて不動にしてそのまま一切をあらわすところの根源的な存在があるのである。すべての善きものは悉く、この深く湛える根源より発するのである。これをキリストは「天の父」と称したのであり、その「天の父」のまします「わが存在の深奥なるところ」を「神の国」と称したのであり、「神の国は汝の内にあり」と喝破されたのである。キリストが「我れみずからにては何事をも為し得ず、天の父われに在して御業を為さしめ給うなり」と言ったところの「何事をもなし得ない我みずから」とは、波立ちさわぐ表面の自我であり、その表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき内面の深く湛える奥底の自我「天の父」が表面活動に入り大いなる業を成就するのである。】
天国を受くる者は「幼な児」の心を持つ者である。
2021/05/03
この世は神の国であって現象は非実在なんだ、
2021/05/03
この世は神の国であって現象は非実在なんだ、
そして、みえない“神”の完全世界だけがあるんだと納得するには、
1真理を知ること、
2祈って実相を観じ続けること、
3潜在意識の浄化
が必要だ。
でもはじめから「幼な児」の心になんか、
なれるものか!
「我」がとれてこないと、
だめなのである。
また肉体の不調を無視できるには
徐々に真理体得につれてであるのが私の体験的実感だ。
ただこの三つが継続的な修行で為されてくると、
『神があらわるれば善となり、義となり慈悲となり、
調和おのずから備わる』不思議安全世界が
実際に顕われるのである。
その時には多分素直な「幼な児の心」になっているわけだが、
これ乃ち「神」を信じ、
自分が「神の子」つまり「神」だと
分った時なのだ。
(神と偕に生きる真理365章)
【「素直」と「幼な児の心」とが神の恩寵をそのまま受ける神秘的鍵である。この「幼な児の心」を恢復することが「新たに生まれる」と云うことである。理屈を言わずに「人間は神の子である」と言われれば、それを素直に承認して「ありがとうございます」と感謝することである。「人間は神の子であり、本来病はないのだ」と教えられれば、たとい現象的に病があらわれておろうとも、そんな病は本来ないのであってそれは恰も「夢」を見ているようなものである。夢は体験としてあっても、夢にある内容は実際起っていないのである。その如く病いの苦痛は体験として感じられていても、実際にはその病は存在しないのであると、完全にその病を心の内から否定するのが「幼な児の心」と云うものである。「何故、無いものがあるとして感じられるか」などと理屈を言うのが、“知恵の樹の実”を食べる事である。】
幼な児の心になるための心の変革、
“知恵の樹の実”を食べてしまったことから脱却するための宗教的求道が
実際問題として先決である。
生長の家をやっていさえすればそれだけで救われるとか、
それだけで幸福になれるなんて通説がはびこってしまっているので、
私は今その逆を行って、
実際の実相実現の方法を自分の体験から述べていこうと思う。
<「見えない神」を観じることが神想観の焦点的的あて>
2021/5/25
自分の周囲の環境はもとより、
海も山も空も星も
土も空気も、
家族も知り合いも含め、
一切合切が自分の「いのち」の展開であります。
私の誕生時から現在まで、
私の環境世界は全部私のいのちの展開でありまして、
それが巻き収められた一巻の理念的原型を
「実相世界」というのであります。
「万物はこれ神の心・神のコトバ」であります。
これは珠玉の水晶玉のような円満完全それ自体なのです。
実相を観じるというのは、
この「無」または「空」なるもの奥にある「神の国」を
観じることであります。
ですから「見えない神」を観じることが神想観の焦点的的あてなので、
これに成功すればOKということになります。
私は今このことに取り組んでいますが、
実相を正観しなければ実相は顕われませんと、
雅春先生はおっしゃっております。