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「金の指環」が“金”そのものであるように「人間」は“神性”「そのもの」であって、それ以外の何ものでもあり得ないのである。

2021-05-09 12:13:10 | 日記
「金の指環」が“金”そのものであるように「人間」は“神性”「そのもの」であって、それ以外の何ものでもあり得ないのである。
人間は「神の子」つまり「神の肖像」たる実相身だから、
永遠に砕けたりできるものではないのである。
本当の自分は久遠不滅です。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【“人間は「金の指環」のようなものである”と言った人がある。「金の指環」の“金”は、指環から取り離すことができないように、それは指環の本質を成しているのである。“金”を離れて「金の指環」は存在し得ないように、“神性”を離れて「人間」は存在し得ないのである。「金の指環」が“金”そのものであるように「人間」は“神性”「そのもの」であって、それ以外の何ものでもあり得ないのである。「金の指環」の「指環」としての形は一時的のものに過ぎない。「神なる人間」が「肉体的形態」をしているのも一時的であるに過ぎない。指環としての形はくだけても「金」はくだけないのである。それと同じように「肉体的な形はくだけても「人間そのもの」(神性)は永遠にくだけるものではないのである。】

神相観と欠乏観とを間違えてはならない

2021-05-09 11:20:25 | 日記
神想観の目的は「我の置き換え」であると
書かれている。
方法は「幼な児」の心で“神の国”を受け入れることである。
このこと自体が難しいのだが
私はこれこそが実相が顕われる根本的方法(鍵)であると確信したので、
このことだけやってまいります。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【あなたの「貴方」がなくなり、「神のあなた」があらわれることが必要なのである。これを“悔い改め”と称し、コンヴァージョンと謂い、「我の置き換え」と言う。神想観はこうして「我を置き換え」させるのが目的であって、病気を去って健康にし、不景気を去って富裕を来たらしめるというような現象の“影”を追う末梢的なものではない。もっと根本的なものが神想観である。常に自己の存在の中心であり本質である実相(神性・仏性)にのみ観を集中するのである。若し神想観中に「病気が治りたい」とか、「富を得たい」とか、、現象的な“影”を追及する観念が少しでも混じると、それは本当に純粋の神想観ではなくなるのである。それは既に“何か”の「欠乏観」である。多くの人たちは「欠乏観」をしながら「神想観」をしていると思って、「神想観は私には効かぬ」と言うのである。神想観は病気を治す薬ではないのである。もっと根本なもの、「全自我」を入れ換えるのである。】