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内在の神を目覚めしめるには・・・・人間自我の頭脳的知恵が極限に達して崩壊すること

2021-05-10 10:44:53 | 日記
人間的はからいの完全抛棄が為された時、
そこに神があらわれる、と書かれているが、
正直ここが難しい。
「人間自我の崩壊」ということが
簡単ではないのである。
でもこれが出来た時に、
実相を観じるコトバの大行によって
神のコトバ鳴り響き、
実相が本格的に顕われるのだ。
雑行雑修の心を振り捨てて唯一向専心「南無阿弥陀仏」と念ずることが、
自我を棄てる方法の一つに書かれているが、
「内」に宿る“神の子”を念じること一つに念いを集中して神想観を実修することが、
私投稿者の自我を棄て実相に入るための
根本行となっている。
あれこれやらず、
重点としてはこれ一本に気持ち的にしぼってしまった。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【神想観の目的は、自己の内なる仏性(キリスト教的に謂えば“汝の内なるキリスト”)を目覚めしめるところの方法である。その内なる仏性を目覚めしめる方法は必ずしも一種類ではないのである。「南無阿弥陀仏」とひたすら称名念仏するのも、内に宿りたまう阿弥陀仏を目覚めしめ、此処がこのまま阿弥陀仏の極楽浄土であることを自覚せしめる方法である。坐禅し調息するのも、その一つの方法である。公案を授けられて、一心にそれを解決しようとして精神がギリギリの一点に到達するのもその方法の一つである。この精神がギリギリの処に到達するというのは、人間自我の頭脳的知恵が極限に達して崩壊することである。雑行雑修の心を振り捨てて唯一向専心「南無阿弥陀仏」と念ずるのも、人間的はからいの完全抛棄であり、其処に神があらわれる。禅も念仏も一如である。】
谷口雅春先生は
これはと思う自分の方法を定めて、
実相を顕わす方法を実行し切ることで
神があらわれますよと、
おっしゃっているのである。
 
 
 

人間は超時空の神が時空の世界へ投影せられた神の肖像である。

2021-05-10 10:16:54 | 日記
すべての存在の根底には
「想起された行為の結果」である業が横たわる。
つまり想起されたから
存在するものがあるのだ。
人間は“神の子”を神が想起して現象化した所の
万物の支配者・創造者である。
実相は神の業(わざ)であり、
現象は人間の業(わざ)である。
しかし現象は根底に神の業(わざ)が横たわる。
現象非実在であり、
“神の子”が実在しているからだ。
(神と偕に生きる真理365章 谷口雅春)
【神はアイディア即ち想念を起こすという行為によって宇宙の万物を創造せられたのである。そして神は人間を、霊なる無相の神の肖像(即ち具体的映像)として人間をつくり給うて、宇宙の万物を支配し統制する権能を与えられたのである。(創世記第1章)
 こうして人間は超時空の神そのものを、時空の世界に顕現せられたのであるから、謂わば、人間は超時空の神が、時空の世界へ延長して来たものである。この故に人間を“神の子”と称するのであり、神が心にアイディアを想起することによって万物を創造せられたように人間もアイディアを想起するという行為によって万物を創造するのである。それは心の中に行われた行為であるから業(わざ)であり、業(ごう)であり、Karma(カルマ)である。業(ごう)はすべての存在の根底にあるものである。(碧巌録解釈 参照)】