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実相が顕われる信仰の在り方を真剣に再考すべきである。

2021-05-03 13:18:35 | 日記
私たちは
実相を顕わし
神の国を見ることについて、
「新たに生まれる必要がある」
とイエスが明言していることに
注目すべきである。
このことが実は容易ではないのである。
今後私たちは
「生長の家をやればだれでも簡単に幸せになれる」
なんていう甘言を退け、
「如何にすれば神の国を見ることができるのか」を
真剣に探求する方向へと
舵を切り替えるべきなのだ。
 
新約聖書「ヨハネによる福音書」新共同訳
3章 イエスとニコデモ
1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 
2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
 

既にある完全の世界の扉を叩くこと

2021-05-03 11:49:12 | 日記
創造の神が創り給うた実相世界は、
完全世界である。
何しろ神の国であるからだ。
我等人間は“神の子”であるから
実相においては全て
「神の国」を与えられ済みである。
ただ与えられずみの恩徳を
いただく方法が分らないだけだ。
その方法とは
いただき済みであるという本当のことを知ればよいので、
それが真理を知るということである。
いただき済みであっても、
そのことを知らないと、
受け取りようがない。
「いただき済み」と知ったならば、
感謝で「神の子」「神の国」の完全を受けるだけである。
それが神想観で
「神の子円満完全」と念じる言葉だ。
ここでは「神」そのものだけを観じる必要がある。
神相観というのは、
神を観じる祈りである。
神想観をやらないと
残念ながら神の国は顕われないです。
「神」を観じることで「神」が顕われるのである。
(神と偕に生きる真理365章)
<既にある完全の世界の扉を叩くこと>
【神想観中に観ぜられる実在の世界は、すべては一つの神の示現であり、従って「一切の生物処(ところ)を得て争う者なき大調和の世界」である。すべてが一つの神の示現であり、肉体人間なる不完全者が工夫巧者によって。やっと築き上げた如き自力の世界ではないのである。すべてが神の示現の世界であるから、それは他力の世界であり、絶対慈悲の世界であり、ただ恩寵によって完全に生かされている世界である。随(したが)って、人間的なはからいによって、「この善」「この幸福」を求めることは不要である。ただ神の恩寵を感謝によって「叩けば」よい世界である。まことにも「叩けよ、さらば開かれん」とはよく言われたものである。「先ず神の国と神の義(ただしき)とを求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし」とはよく言われたものである。】
人間は“神の子”だからすでに善きものは一切与えられているのである
それは人間が“神”であるからなのだ。
人間の本体は見えない“神”なのです。
「人間我」が「神我」に置き変わるために
神相観があるのです。
「神の国」が出現するのはその時です。
 
 
 

「因縁・因果を超える道」これを伝えるのが生長の家の使命です。

2021-05-03 10:55:42 | 日記
『神に依り頼(たの)める者はシオンの山(実相のこと)の如くなるべし。動くことなく永久に変わることなし』
と詩篇第125にあるように、
「現象の心」を神様に
明け渡してしまったときに、
実相は顕われてきます。
つまり「神」と神のつくり給うた「神の子世界」(実相世界)しか存在せずとさとり(悟らなくても、想いでよい)、
その世界への「信」を徹底させればいいのです。
その方法はただ一つ、
「神」そのものを観じることです。
「神」しかないんだから、
神とともにまします「神の子」(実相)の円満完全を、
それのみを観じればいいのです。
生長の家は「因縁を超える道」を説くのがメインであり、
横の真理による救済を説くわけではないです。
自分が“神の子”つまり“神”とさとり、
父なる神様と偕(とも)に生きるのです。
神様の世界に病気や不幸なんてないですからね。
この大事な忘れかけている真理を伝えるために、
神様は私を生かしてくださっていると、
今日気がつきました。
「因縁・因果を超える道」これを伝えるのが生長の家の使命です。
 
 

天国を受くる者は「幼な児」の心を持つ者である。

2021-05-03 10:17:36 | 日記
この世は神の国であって現象は非実在なんだ、
そして、みえない“神”の完全世界だけがあるんだと納得するには、
1真理を知ること、
2祈って実相を観じ続けること、
3潜在意識の浄化
が必要だ。
でもはじめから「幼な児」の心になんか、
なれるものか!
「我」がとれてこないと、
だめなのである。
また肉体の不調を無視できるには
徐々に真理体得につれてであるのが私の体験的実感だ。
ただこの三つが継続的な修行で為されてくると、
『神があらわるれば善となり、義となり慈悲となり、
調和おのずから備わる』不思議安全世界が
実際に顕われるのである。
その時には多分素直な「幼な児の心」になっているわけだが、
これ乃ち「神」を信じ、
自分が「神の子」つまり「神」だと
分った時なのだ。
(神と偕に生きる真理365章)
【「素直」と「幼な児の心」とが神の恩寵をそのまま受ける神秘的鍵である。この「幼な児の心」を恢復することが「新たに生まれる」と云うことである。理屈を言わずに「人間は神の子である」と言われれば、それを素直に承認して「ありがとうございます」と感謝することである。「人間は神の子であり、本来病はないのだ」と教えられれば、たとい現象的に病があらわれておろうとも、そんな病は本来ないのであってそれは恰も「夢」を見ているようなものである。夢は体験としてあっても、夢にある内容は実際起っていないのである。その如く病いの苦痛は体験として感じられていても、実際にはその病は存在しないのであると、完全にその病を心の内から否定するのが「幼な児の心」と云うものである。「何故、無いものがあるとして感じられるか」などと理屈を言うのが、“知恵の樹の実”を食べる事である。】
幼な児の心になるための心の変革、
“知恵の樹の実”を食べてしまったことから脱却するための宗教的求道が
実際問題として先決である。
生長の家をやっていさえすればそれだけで救われるとか、
それだけで幸福になれるなんて通説がはびこってしまっているので、
私は今その逆を行って、
実際の実相実現の方法を自分の体験から述べていこうと思う。