すべての実在は
きれいな丸い珠の如くである。
つまり「心」は「円満完全大調和」なる珠の如くである。
(正法眼蔵を読む 一顆明珠の巻の巻 谷口清超著)
<明珠と因果>
かくの如く「明珠」はまことに偉大なもので、その採光は尽十方世界に充満して無窮である。だから、これを愛さないでおられる道理がない。こんなに大切なものは他にないのである。その色彩の一つ一つ、その輝きの一閃一閃にも、尽十方世界そのものの価値がある。誰一人としてこの偉大さを奪い取ることができないのである。その「明珠」は、一切のものに内在する実相であるから、瓦といっても本当は明珠だ。従って市場で、これは瓦だといって投げ捨てるものはいない。全てのものが夫々その立場に於て尊重されるのである。全てが明珠であり、凡ゆるところに明珠ありと悟れば、六道(天上、人間、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄)を輪廻する因果についても、「不落因果」か、「不昧因果」かと、思いわずらうことはいらないのである。六道の因果こそがこの明珠の現成であるからだ。因果を昧まさず、その法則本来の実体が、まさに「明珠」なのである。「明珠」こそが本来の面目、実相(眼睛)であり、法則であり、大慈大悲であるのだ。
しかしながら、吾も汝も、「明珠とは何か」「明珠ならざるものなし」と知らずして、さまざまに思い、あるいは思うまいと思いわずらったりして、永い間思いを廻らして来たものである。けれども今、玄沙の法道によって、自分自身の身心がそのまま「明珠」である、尽十方世界が即ち「明珠」だということを学び明らめた。そこでこの心といっても、私の心ではなく、実は明珠そのものであって、生滅を超えた実在である。そこでその心の起源はどこか、誰がどうして心を生じ、心を滅するのであるかなどということは問題でなくなる。心を滅すれば明珠になるのか、それともならぬのか、そんなことは何もない。
たといどのように迷い悩んでいても、そのまま「明珠」なのであって、「明珠」ならざるものは何一つないのである。もし明珠でない何者かがいて、それが何かを行わせたり、念(おも)わせるというのでもない。そんな現象など、何もナイのである。いかなる暗黒世界の、進歩もた退歩も、それは仮の姿であって、本来ナイのであり、全ての実在はただ「一顆明珠」のみである。