無病息災を祈る「夏越の祓」の翌日が7月1日。
日本の民間行事としての大祓の一つである。
もっとも、「夏越の祓」は夏越節供,水無月(みなづき)祓とも呼ばれ、旧暦6月晦日(みそか)をいい、この日は一年の前半の最後の日、一年の折り返しとなる日であり、「なごし」という言葉は神意を和らげる、「和す(なごす)」が由来だと考えられており、大晦日の「年越の祓」とともに新しい季節に入る物忌(ものいみ)の日とされていた。『拾遺和歌集』に「題しらず」「よみ人知らず」として、「水無月のなごしの祓する人はちとせの命のぶというふなり」という歌にも見える。
夏に挙行される意味として、衣服を毎日洗濯する習慣や自由に使える水が少なかった時代、半年に一度、雑菌の繁殖し易い夏を前に新しい物に替える事で、残りの半年を疫病を予防して健康に過ごすようにする意味があったのではと考えられている。またこの時期は多くの地域で梅雨の時期にあたり、祭礼が終わると梅雨明けから猛暑と旱(ひでり)を迎えることになるが、この過酷な時期を乗り越えるための戒めでもあった。
6月の晦日は、大阪市住吉大社の夏越祭(※1参照)が有名で、今は7月31日に行われている。「夏越の祓」のことは以前このブログでも書いたのでここを見てください。
前口上が長くなったが、旧暦ではなく新暦の7月1日は「国民安全の日」である。
産業災害(労働災害)、交通事故、火災等に対する国民の安全意識の高揚等の国民運動展開のために、1960(昭和35)年5月の閣議で制定され、総理府(現在の内閣府)が実施している(※2参照)。実施日は毎年7月1日。これは産業災害防止対策審議会(1959年(昭和34年)設置 - 1967年(昭和42年)廃止)の答申が概ね毎年7月1日となる ことから設定された模様(※3参照)。
制定の趣旨は、国民の一人一人がその生活のあらゆる面において、施設や行動の安全について反省を加え、その安全確保に留意し、これを習慣化する気運を高め、産業災害、交通事故、火災等国民の日常生活の安全をおびやかす災害の発生の防止をはかるために創設されたものである。
内閣府では、産業安全、交通安全、火災予防、学校安全等の安全運動の総合的見地から一段と推進し、国民の安全に関する認識の向上と各種安全運動の連けいの強化をはかるものとして、次に掲げる事項を実施するものとしている。
1) 関係行政機関及び関係団体においては、相互に連絡協調し、職域、学校、家庭及び地域社会を中心に、その環境に即した安全思想の普及徹底に有効な広報活動を行うこと。
2) 安全思想の普及徹底、安全水準の向上に顕著な功績のあった個人又は団体を内閣総理大臣又は関係各大臣が表彰すること。
3) 国民のすべてが安全な生活環境の醸成のため、生活環境の自主的な安全点検その他「国民安全の日」にふさわしい活動をするよう勧奨すること。
なお、地方公共団体においても、「国民安全の日」の趣旨にかんがみて、適切な措置が行われるようその協力を求めるものとする。
さて創設など過去の歴史を探ってみよう。
日本が今日直面している産業安全問題は、18世紀半ばから19世紀にかけて英国で始まった産業革命によってもたらされた。
当時の産業活動に伴う危険に対峙したのは、綿紡績(綿糸紡績,綿紡ともいう)工場で機械を操作する女工や機械のエネルギー源である石炭・鉄鋼石を採掘する鉱山での坑夫たちであった。つまり、工場や鉱山などの産業革命を担う生産現場での危険源に直接係わった人々が災害の対象であり、今日でも続いている労働災害の皮切りとなったものである。その後、産業の拡大とともに大規模爆発災害や水質汚濁,大気汚染など、産業活動に付随する影響がたんに工場などの生産現場内に留まらず、工場外での住民や環境にも影響を及ぼすいわゆる「公害」が出現し、その対応に追われてきたところであるが、今日では、地球温暖化による地球規模での環境問題や各種の環境ホルモン(内分泌攪乱物質)による次々世代の生物への影響問題などが出現し、産業活動に伴う影響は空間的拡大と時間的深化をみせている。
我が国で本格的な産業革命(日本の産業革命)が導入されたのは、明治開国(明治2年=1869年)後に富国強兵、殖産興業が国家政策として採用されて以降のことであるが、欧米に比べ100 年近く遅れて始まったこの日本の産業革命は、産業部門ごとの発展が不均等であり、部門の間のつながりも不十分であった。
農業部門では大規模農場へ発展するものがまったくなく、商品貨幣経済に巻き込まれて競争に敗れ土地を失った農民たちは、高い現物小作料を払って地主から土地を借り、小規模生産を続けた。小作農家の生活は苦しかったため、娘たちの多くは繊維工場へ出かけて安い賃金で働かなければならなかった。小作農からさらに転落した者は、近くの都市などで仕事にありつけない限り、炭鉱や金属鉱山へ流れ込んで地底での重労働に従事した。
産業革命が終了したころの資本主義的生産の状態は、繊維工業と鉱山業に500人以上の大規模作業場が数多くみられ、賃金労働者(職工・鉱夫)も両分野に集中していた(表1)。
日本産業革命を代表する繊維工業部門は綿糸紡績業であった。渋沢栄一らが設立した大阪紡績(後の東洋紡績の前身。現:東洋紡)が、最新式の輸入機械と安い輸入綿花(綿の種子についた実綿 [みわた],または,それから生産された繊維 [ リント])を使い、女工を昼夜二交替で働かせて高利益をあげたのに刺激されて、1880年代後半に大阪、東京、名古屋などの大都市商人が出資する大規模紡績が続々と設立された。
1897(明治30)年に国産の機械制綿糸の輸出量が輸入量を上回り、輸入インド綿糸を国内市場から駆逐しただけではなく、中国・朝鮮へと輸出され、1913(大正2)年には中国市場においてインド糸輸入量を超えるまでになる。しかし、昼夜二交替制労働は女工の体重を減少させ結核患者を多発させたため、1911(明治44)年制定の工場法(施行は、1916年)において、女工の夜業禁止が定められた(ただし同法施行から15年間の適用猶予付き)。
また、養蚕農家がつくった繭を原料として生糸(絹)を製造する製糸業は、最大の輸出産業として多額の外貨を稼いだ。昨・2014(平成26)年世界遺産に登録された富岡製糸場のフランス式鉄製繰糸機(※4参照)などをモデルに軽便かつ安価な木製繰糸機がつくられ、1870年代後半から長野・山梨・岐阜などの農村にたくさんの器械製糸場が設立された。
製糸家は輸出港横浜の生糸売込問屋や地方銀行から借金して原料繭を仕入れ、出稼ぎ女工を長時間働かせて生糸を生産した。女工の賃金は、工場内の全女工の賃金総額を固定したまま彼女らの繰糸成績によって分配されるという等級賃金制であったため、女工は長時間にわたって緊張した仕事を続けねばならず、しかも能率上昇の成果は全体として製糸家のものとなったようだ。製糸業の中心地長野県諏訪では、製糸家が同盟して女工の登録制度をつくり工場間の移動を禁止したので、彼女らは厳しい労働条件を耐えなければならなかった。
一方鉱山業の石炭と銅は当時の重要な輸出品であった。1890年代から諸鉱山の主要坑道に巻揚機械が導入されたが、切羽(きりは)での採掘と主要坑道までの運搬は手労働であり、地底での労働はたいへん厳しかった。筑豊の炭鉱では夫婦が仕事の単位となり、夫が狭い切羽で掘り出した石炭を妻が竹籠に入れて炭車まで引きずってゆく姿がみられた(労働基準法 第64条の2の女子坑内労働禁止は1933年)ようだ。こうした危険な重労働に従事する労働者を集め、彼らの生活を会社にかわって管理したのが、納屋頭(なやがしら。納屋制度参照)とか飯場頭(はんばがしら。飯場制度参照)とよばれる人々である。金属鉱山では鉱毒水や亜硫酸ガス(二酸化硫黄)による鉱害がかならずといってよいほど発生し、周辺住民との間にトラブルを生んだ。
鉱夫の酷使に支えられ、周辺住民へ鉱害を及ぼしながら、鉱山経営は大きな利益をもたらしたため、三井、三菱、住友、古河(ふるかわ)などの大財閥の最大の蓄積基盤となった。
このように、明治初期に産業の近代化を担った繊維産業や石炭・鉄鋼石などを採掘する鉱業は、やがて日清 (1904年=明治37年2月8日 - 1905年=明治38年9月5日)・日露戦争(1904年=明治37年2月8日 - 1905年=明治38年9月5日)を経て重工業化が進むが、急速な近代化の下で、産業安全運動が展開されるまでにはかなりの時間を要した。
細井和喜蔵著『女工哀史』(※5参照)は、当時の紡績工場で働く女性労働者の生活を克明に記録したルポルタージュであり、自身の機械工としての経験と、妻としをの紡績工場での労働経験をもとに書かれたものである。また、『虞美人草』についで夏目漱石が職業作家として書いた二作目の作品(長編小説)『坑夫』(※6:「青空文庫」参照)があるが、これは、ある日突然、漱石のもとにあらわれた一人の青年(工夫)の悲惨な経験を素材とした、やはりルポルタージュ的な作品である。当時の女工や工夫の過酷な労働環境を窺い知ることができる。
我が国で産業安全運動が導入されたのは,明治末に古河鉱業会社(現:古河機械金属)足尾鉱業所、通称足尾銅山(現:栃木県日光市)と呼ばれる事業所で展開された「安全専一」運動が始まりだそうである。
足尾銅山は、当時の明治政府の>富国強兵政策を背景に20世紀初頭には日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した。しかしこの鉱山開発と製錬事業の発展は、足尾山地の樹木が、坑木・燃料のために伐採され、掘り出した鉱石を製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染を引き起こした。荒廃した山地を水源とする渡良瀬川は洪水を頻発し、製錬による廃棄物を流し、足尾山地を流れくだった流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、広範囲な環境汚染を引き起こした。いわゆる、足尾鉱毒事件である。田中正造による国会(帝国議会)での発言で大きな政治問題となったのはよく知られている。1890年代より鉱毒予防工事や渡良瀬川の改修工事は行われたものの、鉱害よりも銅の生産を優先し、技術的に未熟なこともあって、鉱毒被害は収まらなかった。
●上掲は1895年頃の足尾鉱山
そんな足尾鉱毒事件が問題になったころ、「安全専一」運動を導入するに当たって指導的な役割を果たしたのが、当時足尾銅山所長であった小田川全之(おだがわ・まさゆき。)であったという。
小田川は、1883(明治16)年工部大学校土木工学科(現東京大学工学部)を卒業後、群馬県,東京府の土木工事や民間鉄道工事等に従事したのち、1890(明治23)年に古河家に入っている。当時の古河家は後年古賀財閥を創設する古河市兵衛が、東京に古河本店を開設し、渋沢栄一らの資金援助で、足尾銅山を中心とする多くの鉱山経営に取り組んでいた。
小田川が古河家に入社した1890(明治23)年は、先に書いた栃木県の名主の家に生まれたという田中正造(当時栃木県会議長)が、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選した年であり、この年には栃木県の渡良瀬川で大洪水を起しし同家の主力鉱山である、足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され騒ぎとなっていた年である。
そして、田中は、翌・1891(明治24)年には、鉱毒の害を視察し、第2回衆議院議会で鉱毒問題に関する質問を行っている。その後彼は、10年間、帝国議会に質問書を出し続けるが明治政府はこれを無視し続けた。
そのような中、古河家に入社した小田川は、足尾銅山での土木工事や鉱毒対策に取り組む。鉱毒対策では最新技術の導入を図るとともに,1897(明治30)年には農商務省から同銅山への第三回鉱毒予防工事命令に対して、180 日間の期限内に排水濾過池・沈殿池や採鉱堆積場の築造、煙突への脱硫(有害作用を持つ硫黄分を除去する)装置の設置等の難工事を成し遂げ、鉱毒の河川流入や拡散防止対策の中心的役割を担ったという。いわば、現在では常識的で、創業前には当然完備させている公害防止設備を足尾銅山では、小田川によって初めてなされたということである。
翌1898(明治31)年、その功績が認められ、銅鉱山の工作課長に就任。1903(明治36)年には古河本店理事に就任。
そして、翌1904(明治37)年には古河家3代目当主となる寅之助のアメリカ留学に随行し、1907(明治40) 年まで米国に滞在し、その間に、採鉱・精錬技術の調査を進め、これら最新技術とともに持ち帰ったのが当時米国で「Safety First」と呼ばれ広がりをみせていた安全の理念とその実践思想であった。
「Safety First」とは、米国最大の鉄鋼会社であったUS スティール社が1906(明治39)年にゲーリ工場を建設し操業を開始する際に「安全第一、品質第二、生産第三」をスローガンとして掲げ、工場設計,建設施工、設備搬入、レイアウト、据え付け・運転に至るまでの過程を安全第一主義の下に実施したところ、災害が激減するとともに生産効率も大幅に改善されたことが評判となり多方面に影響を与えた実践運動であった。
小田川は1911(明治44) 年に足尾銅山所長を兼務し、翌年から「Safety First」を「安全専一」と翻訳し、同文の琺瑯(ほうろう)製の標識を坑内作業所に掲げ、1913(大正2)年から同事業所所内報である『鑛夫之友』を刊行し,同誌に作業安全を喚起するための講話を掲載するとともに、1915(大正4) 年には安全心得読本を作成し作業員全員に持たせるなど、文字通り事業場での安全確保のための先駆的活動を展開したという。
ただ、「安全専一」活動は、鉱山の外部に普及したり、この運動に社会運動として取り組んだわけではなく、足尾銅山内に限定されたものであったが、”産業安全”という普遍的な価値を実現するための先駆けとなった運動ではあった。
足尾銅山は、日本の公害問題の原点と呼ばれ、産業近代化技術によってもたらされた負の遺産の象徴的な場所となっているが、同時に産業安全運動の出発点ともなった地でもあったようだ(※8参照)。
小田川によって掲げられた産業安全運動の灯火は大正時代に入り次の世代に引き継がれた。産業安全運動に関する次世代の代表格の一人が蒲生俊文(がもう・としぶみ。1883=明治16年生まれ)であった。
蒲生は、二高、東京帝国大学で学んだのち東京電気(現:東芝前身)の工場内に我が国で初めての事業所内安全委員会を組織し活動を展開するとともに「Safety First」を安全第一と訳し、広く同思想の啓蒙普及を図るために、逓信官僚の内田嘉吉らとともに「安全第一協会」を1917(大正6)年に設立(内田を会長、蒲生を理事として)。同協会の事業として、機関誌「安全第一」を通して広範な安全情報を提供するかたわら、2年後の1919(大正8)年には当時の、東京市で開催された安全週間の輪が年々広がり、1927(昭和2)年10月2日から一週間1道3府21県連合工場安全週間が開催されるようになった(※10参照)。
この連合安全週間は、この種の運動を広域的実施しようとする機運を盛り上げ11月には九州一円と山口県の連合安全デー、福島鉱山監督局管内での鉱山安全デー、12月には、海軍所属の全鉱山、専売局所属の全事業所での安全週間などが開催された。そして、翌年には、全国的に足並みを揃え実施されることになり。ここに、全国統一の「全国安全週間」が昭和3年10月2日~7日(昭和6年の第4回からは7月1日から7日)の間「一致協力して、けがや病気を追い拂ひませう」の標語(労働衛生を含めた運動であった様である)のもとに繰り広げられ、今日に至っているようだ。その際、産業安全のシンボルマーク・緑十字を定めるなど、産業安全運動を、足尾銅山の小田川のように、たんに事業所内での活動に留めず社会運動へと発展させた功績は大きい。
●上掲画像説明:1919(大正8)年、6月15日から1週間、東京市で初の「安全週間」が催され、運動本部や警視庁などが災害予防を呼びかけた。1928(昭和3)年からは、「全国安全週間」となり、全国的な活動になった。上段の写真は安全徽章の製作に追われる運動本部の夫人たち。下段は当時の安全週間のマーク。写真は雑誌『歴史写真』からのもの。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1918-19年号23P掲載写真を借用した。
それまでの事業所における安全問題では、工場で災害が発生した場合など、被災者が一方的に解雇されたり、見舞金による示談で済まされたりするなど、事業所での安全責任は事業者と労働者との片務的な私的関係によって処理されていた。「安全第一協会」による活動の意義は、そのような状況下にあった安全責任の枠組みを、同協会の安全第一思想に基づく運動を通して、事業所での安全対策の必要性や災害補償制度の有用性を社会的に認知させることによって工場法により法制化された労働災害に対する予防措置や災害補償を、事業者責任(※9参照)として履行させることを促進したことにあるという。すなわち,生産活動に伴う安全の確保が国家・社会的管理の枠組みの下に取り組まれるための産業界の基盤整備を行った訳であるというのだが・・・。
又、東の足尾銅山の小田川全之、東京電気の蒲生俊文に対して、西で活躍したのが住友伸銅所(現:住友金属工業)の三村起一(1887=明治20年生まれ)である。一高,東京帝国大学で学んだのちに住友総本店に入社し,住友伸銅所にて安全運動を開始した。我が国での最初の労働立法である工場法が1916(大正5)年に施行された折から、工場内での安全活動を周囲の無理解と闘いながら率先垂範して展開していたという。1919(大正8)年には米国へ労務管理研修のために出かけ,帰国後は住友各社の重役を務めたのち、1941 (昭和16)年住友鉱業(現:住友金属鉱山)社長、同年住友本社理事を歴任し、戦後は経団連理事や産業災害防止対策審議会会長,さらに初代中央労働災害防止協会会長など枢要(物事の最も大切な所)なポストを務めたという。
三村と蒲生とが出会ったのは1917(大正6)年に三村が蒲生の工場を訪れたときだそうだが、その出会いは三村の一高以来の恩師新渡戸稲造の勧め、紹介によるものであったという。また小田川と蒲生との接触については,蒲生が「安全第一協会」を設立し安全第一運動を展開した折、小田川は同協会の賛助会員として参画するとともに、同協会設立総会での記念講演や機関誌へ投稿を行うなど、その活動に対して積極的な支援をしているという。
このように産業安全運動は、小田川や新渡戸らの明治期の近代化を担った世代と、蒲生や三村らの次の世代とが密接な関係を有しながら引き継がれていったようだ。
昭和に入り、1929(昭和4)年には工場法に基づく「工場危害予防及び衛生規則」(※11参照)が定められ,作業安全のための環境整備は進展するが、やがて戦時統制が強化される中で、産業安全運動も停滞を余儀なくされていった。そのような状況下にあった産業安全運動の中で忘れてはならない人物に。伊藤一郎(1888年=明治21年生まれ。※12の伊藤一郎先生のことl参照)がいると言う。
1911(明治44)年東京高等工業学校卒業後に同校助教授、東京工業大学講師を経て伊藤染工場の経営に参画し、1939(昭和14)年同工場を東洋紡績(現:東洋紡)に譲渡し、翌年その売却金50 万円を国に寄付し、「安全第一協会」を設立以来、多くの産業安全関係者の宿願であった産業安全研究所(※12)と産業安全参考館開設(1943=昭和18年。1954 =昭和29年には「産業安全博物館」と改称)の設立を願い出た人物だそうである(※12のここ参照)。
戦後、1947(昭和22)年に労働省(現:厚生労働省)が設立され、安全衛生行政が同省所管の下に執行されるとともに、労働基準法(昭和22年4月7日法律第49号)や労働者災害補償保険法(昭和22年4月7日法律第50号)、労働組合法(昭和24年6月1日法律第174号)などが成立し、労働条件を取り巻く環境と執行体制は大きく変わった。
そして戦後の復興を経て、1958(昭和33)年には、国としての「産業災害防止総合五カ年計画」が策定され。以降5年ごとに改訂され実施されている。また1972(昭和47) 年には労働安全衛生に関する基本法とも言うべき「労働安全衛生法」も成立している。この間産業安全運動もさまざまな変遷を経て、現在は中央労働災害防止協会、建設業労働災害防止協会(※13)を始め多くの団体・組織による活動に引き継がれている。尚、2013 (平成25)年4月から始まっている、第12次労働災害防止計画の計画本文、概要などは参考の※14を参照されるとよい。
これからの産業安全は、経済のグローバル化(グローバル資本主義)が進行する中で、世界的枠組みの下に展開することが求められている。
ILO(国際労働機関)は1999(平成11)年の 総会において21世紀のILOの目標として「すべての人へのディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)の実現」を掲げた。そして、2003(平成15)年から4月28日を労働安全衛生世界デーと定め、労働災害と職業病における予防の重要性に注意を喚起する日としている。しかし、今でもなお毎年世界全体で230万人を超える人々が業務上の災害や疾病によって命を落としているという(※17参照)。
以前このブログ「世界社会正義の日 」で、ILの批准条項中、日本の未批准条約が多くあること、そして、連合調べによる『ディーセント・ワークに関する調査』(※15:「人事ネットワーク/日本の人事部」のここ)など見ると、ディーセント・ワークの認知度も非常に低く、ILPの批准条項中、特に、労働時間関連(※16参照)が批准できていないことを書いたが、事業場での安全衛生確保のためには、先ず、適正な労働時間管理が出来ていないといけないはずだなのだが、今はどうなっているのだろうか・・・。
それはさておき、日本の安全運動に取り組んだ人物のうち、小田川の足尾銅山での安全運動は社内運動に留まり。社会運動へ発展するに至らなかった。それを、たんに事業所内での活動に留めず全国的な社会運動へと発展させ、これが三村などによって広がりを見せていったのであり、その意味、蒲生の功績は非常に大きいのだが、他の安全運動の先覚者などと比して、蒲生の生い立ちやどのような考えで安全運動をしたのかについてもう少し詳しく記録が残っていても良いと思うのだがあまり出てこないかった。・・・一体どうしてなのだろうか?
戦時下の最中におこなわれた安全運動であったせいだろうか。蒲生は、敗戦直後の公職追放対象者の一人にも数えられていたというからそのせいだろうか。いろいろ調べていたら、以下のページを見つけた。詳しく書くと長くなるので省略する。知りたい人は以下を参照されるとよい。
蒲生俊文の「神国」観と戦時下安全運動
どうも、上掲に書かれているところを読む限り、戦時下において、産業犠牲者の絶滅を期するこそ生産増強の第一に着手すべき課題であり、安全運動は国防の第一線である・・・といった「生産増強・安全報国」と言った思想のもとでなされていたもののようである。そうだとすれば、今となっても、日本ではILOの条項の批准条項がなかなか批准されない理由の一つには労働者の思惑とは違った意味での労働災害防止が考えられているからだろうか・・・などと勘繰りたくもなるのだが・・・。
(冒頭の画像は全国安全週間のシンボル(2014年)。
参考:
※1:住吉祭(夏祭り) | 住吉大社
http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/natu.html
※2:国民安全の日について - 内閣府
http://www.cao.go.jp/others/soumu/kokuminanzen/kokuminanzen.html
※3:新産業災害防止5カ年計画について | 政治・法律・行政 | 国立国会図書館
https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib01470.php
※4:製糸場支えた豊富な水 繰糸や動力源に利用 : 地域 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/feature/CO004089/20131107-OYT8T00122.html
※5:『女工哀史』 細井 和喜蔵 | 考えるための書評集
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-880.html
※6:夏目漱石 坑夫 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/774_14943.html
※7:代戯館
http://daigikan.daa.jp/
※8:小田川全之、足尾鉱業所でわが国最初の産業安全運動 ... - 防災情報新聞
http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_6497.html
※9:事業者の責任と義務 of 労働安全衛生法のポイント
http://aneihou-point.com/pg87.html
※10:全国一斉に愈よ明日から工場安全週間に入る - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070028&TYPE=HTML_FILE&POS=1
※11:労働災害発生状況|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/anzeneisei11/rousai-hassei/
※12:独立行政法人 労働安全衛生総合研究所
http://www.jniosh.go.jp/
※13:建設業労働災害防止協会
http://www.kensaibou.or.jp/
※14:第12次労働災害防止計画について |厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/anzen/anzeneisei21/index.html
※15:人事ネットワーク/「日本の人事部」
http://jinjibu.jp/
※16:なぜ日本政府はILO第1号条約(8時間労働制)を批准できないのか
http://www.jitan-after5.jp/essay/es020511.htm
:※17:2015年労働安全衛生世界デー - ILO
http://www.ilo.org/tokyo/events-and-meetings/WCMS_361936/lang--ja/index.htm
国民安全の日 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%AE%89%E5%85%A8%E3%81%AE%E6%97%A5
日本の民間行事としての大祓の一つである。
もっとも、「夏越の祓」は夏越節供,水無月(みなづき)祓とも呼ばれ、旧暦6月晦日(みそか)をいい、この日は一年の前半の最後の日、一年の折り返しとなる日であり、「なごし」という言葉は神意を和らげる、「和す(なごす)」が由来だと考えられており、大晦日の「年越の祓」とともに新しい季節に入る物忌(ものいみ)の日とされていた。『拾遺和歌集』に「題しらず」「よみ人知らず」として、「水無月のなごしの祓する人はちとせの命のぶというふなり」という歌にも見える。
夏に挙行される意味として、衣服を毎日洗濯する習慣や自由に使える水が少なかった時代、半年に一度、雑菌の繁殖し易い夏を前に新しい物に替える事で、残りの半年を疫病を予防して健康に過ごすようにする意味があったのではと考えられている。またこの時期は多くの地域で梅雨の時期にあたり、祭礼が終わると梅雨明けから猛暑と旱(ひでり)を迎えることになるが、この過酷な時期を乗り越えるための戒めでもあった。
6月の晦日は、大阪市住吉大社の夏越祭(※1参照)が有名で、今は7月31日に行われている。「夏越の祓」のことは以前このブログでも書いたのでここを見てください。
前口上が長くなったが、旧暦ではなく新暦の7月1日は「国民安全の日」である。
産業災害(労働災害)、交通事故、火災等に対する国民の安全意識の高揚等の国民運動展開のために、1960(昭和35)年5月の閣議で制定され、総理府(現在の内閣府)が実施している(※2参照)。実施日は毎年7月1日。これは産業災害防止対策審議会(1959年(昭和34年)設置 - 1967年(昭和42年)廃止)の答申が概ね毎年7月1日となる ことから設定された模様(※3参照)。
制定の趣旨は、国民の一人一人がその生活のあらゆる面において、施設や行動の安全について反省を加え、その安全確保に留意し、これを習慣化する気運を高め、産業災害、交通事故、火災等国民の日常生活の安全をおびやかす災害の発生の防止をはかるために創設されたものである。
内閣府では、産業安全、交通安全、火災予防、学校安全等の安全運動の総合的見地から一段と推進し、国民の安全に関する認識の向上と各種安全運動の連けいの強化をはかるものとして、次に掲げる事項を実施するものとしている。
1) 関係行政機関及び関係団体においては、相互に連絡協調し、職域、学校、家庭及び地域社会を中心に、その環境に即した安全思想の普及徹底に有効な広報活動を行うこと。
2) 安全思想の普及徹底、安全水準の向上に顕著な功績のあった個人又は団体を内閣総理大臣又は関係各大臣が表彰すること。
3) 国民のすべてが安全な生活環境の醸成のため、生活環境の自主的な安全点検その他「国民安全の日」にふさわしい活動をするよう勧奨すること。
なお、地方公共団体においても、「国民安全の日」の趣旨にかんがみて、適切な措置が行われるようその協力を求めるものとする。
さて創設など過去の歴史を探ってみよう。
日本が今日直面している産業安全問題は、18世紀半ばから19世紀にかけて英国で始まった産業革命によってもたらされた。
当時の産業活動に伴う危険に対峙したのは、綿紡績(綿糸紡績,綿紡ともいう)工場で機械を操作する女工や機械のエネルギー源である石炭・鉄鋼石を採掘する鉱山での坑夫たちであった。つまり、工場や鉱山などの産業革命を担う生産現場での危険源に直接係わった人々が災害の対象であり、今日でも続いている労働災害の皮切りとなったものである。その後、産業の拡大とともに大規模爆発災害や水質汚濁,大気汚染など、産業活動に付随する影響がたんに工場などの生産現場内に留まらず、工場外での住民や環境にも影響を及ぼすいわゆる「公害」が出現し、その対応に追われてきたところであるが、今日では、地球温暖化による地球規模での環境問題や各種の環境ホルモン(内分泌攪乱物質)による次々世代の生物への影響問題などが出現し、産業活動に伴う影響は空間的拡大と時間的深化をみせている。
我が国で本格的な産業革命(日本の産業革命)が導入されたのは、明治開国(明治2年=1869年)後に富国強兵、殖産興業が国家政策として採用されて以降のことであるが、欧米に比べ100 年近く遅れて始まったこの日本の産業革命は、産業部門ごとの発展が不均等であり、部門の間のつながりも不十分であった。
農業部門では大規模農場へ発展するものがまったくなく、商品貨幣経済に巻き込まれて競争に敗れ土地を失った農民たちは、高い現物小作料を払って地主から土地を借り、小規模生産を続けた。小作農家の生活は苦しかったため、娘たちの多くは繊維工場へ出かけて安い賃金で働かなければならなかった。小作農からさらに転落した者は、近くの都市などで仕事にありつけない限り、炭鉱や金属鉱山へ流れ込んで地底での重労働に従事した。
産業革命が終了したころの資本主義的生産の状態は、繊維工業と鉱山業に500人以上の大規模作業場が数多くみられ、賃金労働者(職工・鉱夫)も両分野に集中していた(表1)。
日本産業革命を代表する繊維工業部門は綿糸紡績業であった。渋沢栄一らが設立した大阪紡績(後の東洋紡績の前身。現:東洋紡)が、最新式の輸入機械と安い輸入綿花(綿の種子についた実綿 [みわた],または,それから生産された繊維 [ リント])を使い、女工を昼夜二交替で働かせて高利益をあげたのに刺激されて、1880年代後半に大阪、東京、名古屋などの大都市商人が出資する大規模紡績が続々と設立された。
1897(明治30)年に国産の機械制綿糸の輸出量が輸入量を上回り、輸入インド綿糸を国内市場から駆逐しただけではなく、中国・朝鮮へと輸出され、1913(大正2)年には中国市場においてインド糸輸入量を超えるまでになる。しかし、昼夜二交替制労働は女工の体重を減少させ結核患者を多発させたため、1911(明治44)年制定の工場法(施行は、1916年)において、女工の夜業禁止が定められた(ただし同法施行から15年間の適用猶予付き)。
また、養蚕農家がつくった繭を原料として生糸(絹)を製造する製糸業は、最大の輸出産業として多額の外貨を稼いだ。昨・2014(平成26)年世界遺産に登録された富岡製糸場のフランス式鉄製繰糸機(※4参照)などをモデルに軽便かつ安価な木製繰糸機がつくられ、1870年代後半から長野・山梨・岐阜などの農村にたくさんの器械製糸場が設立された。
製糸家は輸出港横浜の生糸売込問屋や地方銀行から借金して原料繭を仕入れ、出稼ぎ女工を長時間働かせて生糸を生産した。女工の賃金は、工場内の全女工の賃金総額を固定したまま彼女らの繰糸成績によって分配されるという等級賃金制であったため、女工は長時間にわたって緊張した仕事を続けねばならず、しかも能率上昇の成果は全体として製糸家のものとなったようだ。製糸業の中心地長野県諏訪では、製糸家が同盟して女工の登録制度をつくり工場間の移動を禁止したので、彼女らは厳しい労働条件を耐えなければならなかった。
一方鉱山業の石炭と銅は当時の重要な輸出品であった。1890年代から諸鉱山の主要坑道に巻揚機械が導入されたが、切羽(きりは)での採掘と主要坑道までの運搬は手労働であり、地底での労働はたいへん厳しかった。筑豊の炭鉱では夫婦が仕事の単位となり、夫が狭い切羽で掘り出した石炭を妻が竹籠に入れて炭車まで引きずってゆく姿がみられた(労働基準法 第64条の2の女子坑内労働禁止は1933年)ようだ。こうした危険な重労働に従事する労働者を集め、彼らの生活を会社にかわって管理したのが、納屋頭(なやがしら。納屋制度参照)とか飯場頭(はんばがしら。飯場制度参照)とよばれる人々である。金属鉱山では鉱毒水や亜硫酸ガス(二酸化硫黄)による鉱害がかならずといってよいほど発生し、周辺住民との間にトラブルを生んだ。
鉱夫の酷使に支えられ、周辺住民へ鉱害を及ぼしながら、鉱山経営は大きな利益をもたらしたため、三井、三菱、住友、古河(ふるかわ)などの大財閥の最大の蓄積基盤となった。
このように、明治初期に産業の近代化を担った繊維産業や石炭・鉄鋼石などを採掘する鉱業は、やがて日清 (1904年=明治37年2月8日 - 1905年=明治38年9月5日)・日露戦争(1904年=明治37年2月8日 - 1905年=明治38年9月5日)を経て重工業化が進むが、急速な近代化の下で、産業安全運動が展開されるまでにはかなりの時間を要した。
細井和喜蔵著『女工哀史』(※5参照)は、当時の紡績工場で働く女性労働者の生活を克明に記録したルポルタージュであり、自身の機械工としての経験と、妻としをの紡績工場での労働経験をもとに書かれたものである。また、『虞美人草』についで夏目漱石が職業作家として書いた二作目の作品(長編小説)『坑夫』(※6:「青空文庫」参照)があるが、これは、ある日突然、漱石のもとにあらわれた一人の青年(工夫)の悲惨な経験を素材とした、やはりルポルタージュ的な作品である。当時の女工や工夫の過酷な労働環境を窺い知ることができる。
我が国で産業安全運動が導入されたのは,明治末に古河鉱業会社(現:古河機械金属)足尾鉱業所、通称足尾銅山(現:栃木県日光市)と呼ばれる事業所で展開された「安全専一」運動が始まりだそうである。
足尾銅山は、当時の明治政府の>富国強兵政策を背景に20世紀初頭には日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した。しかしこの鉱山開発と製錬事業の発展は、足尾山地の樹木が、坑木・燃料のために伐採され、掘り出した鉱石を製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染を引き起こした。荒廃した山地を水源とする渡良瀬川は洪水を頻発し、製錬による廃棄物を流し、足尾山地を流れくだった流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、広範囲な環境汚染を引き起こした。いわゆる、足尾鉱毒事件である。田中正造による国会(帝国議会)での発言で大きな政治問題となったのはよく知られている。1890年代より鉱毒予防工事や渡良瀬川の改修工事は行われたものの、鉱害よりも銅の生産を優先し、技術的に未熟なこともあって、鉱毒被害は収まらなかった。
●上掲は1895年頃の足尾鉱山
そんな足尾鉱毒事件が問題になったころ、「安全専一」運動を導入するに当たって指導的な役割を果たしたのが、当時足尾銅山所長であった小田川全之(おだがわ・まさゆき。)であったという。
小田川は、1883(明治16)年工部大学校土木工学科(現東京大学工学部)を卒業後、群馬県,東京府の土木工事や民間鉄道工事等に従事したのち、1890(明治23)年に古河家に入っている。当時の古河家は後年古賀財閥を創設する古河市兵衛が、東京に古河本店を開設し、渋沢栄一らの資金援助で、足尾銅山を中心とする多くの鉱山経営に取り組んでいた。
小田川が古河家に入社した1890(明治23)年は、先に書いた栃木県の名主の家に生まれたという田中正造(当時栃木県会議長)が、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選した年であり、この年には栃木県の渡良瀬川で大洪水を起しし同家の主力鉱山である、足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され騒ぎとなっていた年である。
そして、田中は、翌・1891(明治24)年には、鉱毒の害を視察し、第2回衆議院議会で鉱毒問題に関する質問を行っている。その後彼は、10年間、帝国議会に質問書を出し続けるが明治政府はこれを無視し続けた。
そのような中、古河家に入社した小田川は、足尾銅山での土木工事や鉱毒対策に取り組む。鉱毒対策では最新技術の導入を図るとともに,1897(明治30)年には農商務省から同銅山への第三回鉱毒予防工事命令に対して、180 日間の期限内に排水濾過池・沈殿池や採鉱堆積場の築造、煙突への脱硫(有害作用を持つ硫黄分を除去する)装置の設置等の難工事を成し遂げ、鉱毒の河川流入や拡散防止対策の中心的役割を担ったという。いわば、現在では常識的で、創業前には当然完備させている公害防止設備を足尾銅山では、小田川によって初めてなされたということである。
翌1898(明治31)年、その功績が認められ、銅鉱山の工作課長に就任。1903(明治36)年には古河本店理事に就任。
そして、翌1904(明治37)年には古河家3代目当主となる寅之助のアメリカ留学に随行し、1907(明治40) 年まで米国に滞在し、その間に、採鉱・精錬技術の調査を進め、これら最新技術とともに持ち帰ったのが当時米国で「Safety First」と呼ばれ広がりをみせていた安全の理念とその実践思想であった。
「Safety First」とは、米国最大の鉄鋼会社であったUS スティール社が1906(明治39)年にゲーリ工場を建設し操業を開始する際に「安全第一、品質第二、生産第三」をスローガンとして掲げ、工場設計,建設施工、設備搬入、レイアウト、据え付け・運転に至るまでの過程を安全第一主義の下に実施したところ、災害が激減するとともに生産効率も大幅に改善されたことが評判となり多方面に影響を与えた実践運動であった。
小田川は1911(明治44) 年に足尾銅山所長を兼務し、翌年から「Safety First」を「安全専一」と翻訳し、同文の琺瑯(ほうろう)製の標識を坑内作業所に掲げ、1913(大正2)年から同事業所所内報である『鑛夫之友』を刊行し,同誌に作業安全を喚起するための講話を掲載するとともに、1915(大正4) 年には安全心得読本を作成し作業員全員に持たせるなど、文字通り事業場での安全確保のための先駆的活動を展開したという。
ただ、「安全専一」活動は、鉱山の外部に普及したり、この運動に社会運動として取り組んだわけではなく、足尾銅山内に限定されたものであったが、”産業安全”という普遍的な価値を実現するための先駆けとなった運動ではあった。
足尾銅山は、日本の公害問題の原点と呼ばれ、産業近代化技術によってもたらされた負の遺産の象徴的な場所となっているが、同時に産業安全運動の出発点ともなった地でもあったようだ(※8参照)。
小田川によって掲げられた産業安全運動の灯火は大正時代に入り次の世代に引き継がれた。産業安全運動に関する次世代の代表格の一人が蒲生俊文(がもう・としぶみ。1883=明治16年生まれ)であった。
蒲生は、二高、東京帝国大学で学んだのち東京電気(現:東芝前身)の工場内に我が国で初めての事業所内安全委員会を組織し活動を展開するとともに「Safety First」を安全第一と訳し、広く同思想の啓蒙普及を図るために、逓信官僚の内田嘉吉らとともに「安全第一協会」を1917(大正6)年に設立(内田を会長、蒲生を理事として)。同協会の事業として、機関誌「安全第一」を通して広範な安全情報を提供するかたわら、2年後の1919(大正8)年には当時の、東京市で開催された安全週間の輪が年々広がり、1927(昭和2)年10月2日から一週間1道3府21県連合工場安全週間が開催されるようになった(※10参照)。
この連合安全週間は、この種の運動を広域的実施しようとする機運を盛り上げ11月には九州一円と山口県の連合安全デー、福島鉱山監督局管内での鉱山安全デー、12月には、海軍所属の全鉱山、専売局所属の全事業所での安全週間などが開催された。そして、翌年には、全国的に足並みを揃え実施されることになり。ここに、全国統一の「全国安全週間」が昭和3年10月2日~7日(昭和6年の第4回からは7月1日から7日)の間「一致協力して、けがや病気を追い拂ひませう」の標語(労働衛生を含めた運動であった様である)のもとに繰り広げられ、今日に至っているようだ。その際、産業安全のシンボルマーク・緑十字を定めるなど、産業安全運動を、足尾銅山の小田川のように、たんに事業所内での活動に留めず社会運動へと発展させた功績は大きい。
●上掲画像説明:1919(大正8)年、6月15日から1週間、東京市で初の「安全週間」が催され、運動本部や警視庁などが災害予防を呼びかけた。1928(昭和3)年からは、「全国安全週間」となり、全国的な活動になった。上段の写真は安全徽章の製作に追われる運動本部の夫人たち。下段は当時の安全週間のマーク。写真は雑誌『歴史写真』からのもの。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1918-19年号23P掲載写真を借用した。
それまでの事業所における安全問題では、工場で災害が発生した場合など、被災者が一方的に解雇されたり、見舞金による示談で済まされたりするなど、事業所での安全責任は事業者と労働者との片務的な私的関係によって処理されていた。「安全第一協会」による活動の意義は、そのような状況下にあった安全責任の枠組みを、同協会の安全第一思想に基づく運動を通して、事業所での安全対策の必要性や災害補償制度の有用性を社会的に認知させることによって工場法により法制化された労働災害に対する予防措置や災害補償を、事業者責任(※9参照)として履行させることを促進したことにあるという。すなわち,生産活動に伴う安全の確保が国家・社会的管理の枠組みの下に取り組まれるための産業界の基盤整備を行った訳であるというのだが・・・。
又、東の足尾銅山の小田川全之、東京電気の蒲生俊文に対して、西で活躍したのが住友伸銅所(現:住友金属工業)の三村起一(1887=明治20年生まれ)である。一高,東京帝国大学で学んだのちに住友総本店に入社し,住友伸銅所にて安全運動を開始した。我が国での最初の労働立法である工場法が1916(大正5)年に施行された折から、工場内での安全活動を周囲の無理解と闘いながら率先垂範して展開していたという。1919(大正8)年には米国へ労務管理研修のために出かけ,帰国後は住友各社の重役を務めたのち、1941 (昭和16)年住友鉱業(現:住友金属鉱山)社長、同年住友本社理事を歴任し、戦後は経団連理事や産業災害防止対策審議会会長,さらに初代中央労働災害防止協会会長など枢要(物事の最も大切な所)なポストを務めたという。
三村と蒲生とが出会ったのは1917(大正6)年に三村が蒲生の工場を訪れたときだそうだが、その出会いは三村の一高以来の恩師新渡戸稲造の勧め、紹介によるものであったという。また小田川と蒲生との接触については,蒲生が「安全第一協会」を設立し安全第一運動を展開した折、小田川は同協会の賛助会員として参画するとともに、同協会設立総会での記念講演や機関誌へ投稿を行うなど、その活動に対して積極的な支援をしているという。
このように産業安全運動は、小田川や新渡戸らの明治期の近代化を担った世代と、蒲生や三村らの次の世代とが密接な関係を有しながら引き継がれていったようだ。
昭和に入り、1929(昭和4)年には工場法に基づく「工場危害予防及び衛生規則」(※11参照)が定められ,作業安全のための環境整備は進展するが、やがて戦時統制が強化される中で、産業安全運動も停滞を余儀なくされていった。そのような状況下にあった産業安全運動の中で忘れてはならない人物に。伊藤一郎(1888年=明治21年生まれ。※12の伊藤一郎先生のことl参照)がいると言う。
1911(明治44)年東京高等工業学校卒業後に同校助教授、東京工業大学講師を経て伊藤染工場の経営に参画し、1939(昭和14)年同工場を東洋紡績(現:東洋紡)に譲渡し、翌年その売却金50 万円を国に寄付し、「安全第一協会」を設立以来、多くの産業安全関係者の宿願であった産業安全研究所(※12)と産業安全参考館開設(1943=昭和18年。1954 =昭和29年には「産業安全博物館」と改称)の設立を願い出た人物だそうである(※12のここ参照)。
戦後、1947(昭和22)年に労働省(現:厚生労働省)が設立され、安全衛生行政が同省所管の下に執行されるとともに、労働基準法(昭和22年4月7日法律第49号)や労働者災害補償保険法(昭和22年4月7日法律第50号)、労働組合法(昭和24年6月1日法律第174号)などが成立し、労働条件を取り巻く環境と執行体制は大きく変わった。
そして戦後の復興を経て、1958(昭和33)年には、国としての「産業災害防止総合五カ年計画」が策定され。以降5年ごとに改訂され実施されている。また1972(昭和47) 年には労働安全衛生に関する基本法とも言うべき「労働安全衛生法」も成立している。この間産業安全運動もさまざまな変遷を経て、現在は中央労働災害防止協会、建設業労働災害防止協会(※13)を始め多くの団体・組織による活動に引き継がれている。尚、2013 (平成25)年4月から始まっている、第12次労働災害防止計画の計画本文、概要などは参考の※14を参照されるとよい。
これからの産業安全は、経済のグローバル化(グローバル資本主義)が進行する中で、世界的枠組みの下に展開することが求められている。
ILO(国際労働機関)は1999(平成11)年の 総会において21世紀のILOの目標として「すべての人へのディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)の実現」を掲げた。そして、2003(平成15)年から4月28日を労働安全衛生世界デーと定め、労働災害と職業病における予防の重要性に注意を喚起する日としている。しかし、今でもなお毎年世界全体で230万人を超える人々が業務上の災害や疾病によって命を落としているという(※17参照)。
以前このブログ「世界社会正義の日 」で、ILの批准条項中、日本の未批准条約が多くあること、そして、連合調べによる『ディーセント・ワークに関する調査』(※15:「人事ネットワーク/日本の人事部」のここ)など見ると、ディーセント・ワークの認知度も非常に低く、ILPの批准条項中、特に、労働時間関連(※16参照)が批准できていないことを書いたが、事業場での安全衛生確保のためには、先ず、適正な労働時間管理が出来ていないといけないはずだなのだが、今はどうなっているのだろうか・・・。
それはさておき、日本の安全運動に取り組んだ人物のうち、小田川の足尾銅山での安全運動は社内運動に留まり。社会運動へ発展するに至らなかった。それを、たんに事業所内での活動に留めず全国的な社会運動へと発展させ、これが三村などによって広がりを見せていったのであり、その意味、蒲生の功績は非常に大きいのだが、他の安全運動の先覚者などと比して、蒲生の生い立ちやどのような考えで安全運動をしたのかについてもう少し詳しく記録が残っていても良いと思うのだがあまり出てこないかった。・・・一体どうしてなのだろうか?
戦時下の最中におこなわれた安全運動であったせいだろうか。蒲生は、敗戦直後の公職追放対象者の一人にも数えられていたというからそのせいだろうか。いろいろ調べていたら、以下のページを見つけた。詳しく書くと長くなるので省略する。知りたい人は以下を参照されるとよい。
蒲生俊文の「神国」観と戦時下安全運動
どうも、上掲に書かれているところを読む限り、戦時下において、産業犠牲者の絶滅を期するこそ生産増強の第一に着手すべき課題であり、安全運動は国防の第一線である・・・といった「生産増強・安全報国」と言った思想のもとでなされていたもののようである。そうだとすれば、今となっても、日本ではILOの条項の批准条項がなかなか批准されない理由の一つには労働者の思惑とは違った意味での労働災害防止が考えられているからだろうか・・・などと勘繰りたくもなるのだが・・・。
(冒頭の画像は全国安全週間のシンボル(2014年)。
参考:
※1:住吉祭(夏祭り) | 住吉大社
http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/natu.html
※2:国民安全の日について - 内閣府
http://www.cao.go.jp/others/soumu/kokuminanzen/kokuminanzen.html
※3:新産業災害防止5カ年計画について | 政治・法律・行政 | 国立国会図書館
https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib01470.php
※4:製糸場支えた豊富な水 繰糸や動力源に利用 : 地域 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/feature/CO004089/20131107-OYT8T00122.html
※5:『女工哀史』 細井 和喜蔵 | 考えるための書評集
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-880.html
※6:夏目漱石 坑夫 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/774_14943.html
※7:代戯館
http://daigikan.daa.jp/
※8:小田川全之、足尾鉱業所でわが国最初の産業安全運動 ... - 防災情報新聞
http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_6497.html
※9:事業者の責任と義務 of 労働安全衛生法のポイント
http://aneihou-point.com/pg87.html
※10:全国一斉に愈よ明日から工場安全週間に入る - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070028&TYPE=HTML_FILE&POS=1
※11:労働災害発生状況|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/anzeneisei11/rousai-hassei/
※12:独立行政法人 労働安全衛生総合研究所
http://www.jniosh.go.jp/
※13:建設業労働災害防止協会
http://www.kensaibou.or.jp/
※14:第12次労働災害防止計画について |厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/anzen/anzeneisei21/index.html
※15:人事ネットワーク/「日本の人事部」
http://jinjibu.jp/
※16:なぜ日本政府はILO第1号条約(8時間労働制)を批准できないのか
http://www.jitan-after5.jp/essay/es020511.htm
:※17:2015年労働安全衛生世界デー - ILO
http://www.ilo.org/tokyo/events-and-meetings/WCMS_361936/lang--ja/index.htm
国民安全の日 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%AE%89%E5%85%A8%E3%81%AE%E6%97%A5