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1932年の今日・7月30日は、ウォルト・ディズニーの短編アニメーション『花と木』が公開された日です。
『花と木』(原題:Flowers and Trees)は,ウォルト・ディズニー・プロダクション(現:ウォルト・ディズニー・カンパニー)製作によるアニメーション短編映画、シリー・シンフォニーシリーズ(※1:「ディズニー データベース」短編映画参照)の一作品で、1929年 8月22日公開の第1作『骸骨の踊り』( The Skeleton Dance)から数えて、29本目の作品である。また、本作品は、3色式テクニカラー(Technicolor)方式による世界初のカラー映画であり、第1回アカデミー短編アニメ賞(Academy Award for Animated Short Film)を受賞している。
アカデミー短編アニメ賞はアカデミー賞の部門の一つで、その年アメリカで上映されたもっとも優れた短編アニメーション映画に与えられるものであり、1932年の第5回アカデミー賞から始まリ、1931年から1932年の作品を対象として選ばれた。
森の中にボーイツリー とガールツリー の若い木のカップルがいた。年老いた嫌われ者の木は火を起こしてボーイツリーを焼こうとするが、・・・・(『花と木』)。
『骸骨の踊り』に始まったディズニーの”シリー・シンフォニーシリーズ”は、ミュージカルの取り込みを基本に、新しい脚本の方向性や製作技術など斬新的な試みが積極的に導入されていた。
1932年7月30日公開されたバート・ジレット監督の『花と木』は、当初はコストがかかりすぎるとの理由で、モノクロで製作されていたが、ディズニーがカラーアニメーションに踏み切れば世界のアニメーションが向上するという主張が通り、カラーとなったものだという。
世界最初の実写部分を含まない純粋な短編アニメーション映画は、フランスの風刺画家エミール・コールによる『ファンタスマゴリ(英語版)』(1908年、原題:Fantasmagorie)だそうである。
ファンタスマゴリー - YouTube
以後、数年間でアメリカおよび映画発明国フランスで線画アニメ映画の製作が盛んになった。そして、アメリカン・アニメーションの黄金時代は、1928年の音声付きカートゥーン(cartoon)映画の登場に始まり、劇場用短編アニメーションがテレビ用アニメーションに緩やかに敗退を始めた1960年代まで続いた。
1927年のトーキー導入は映画産業を震撼させ、アニメーション産業もまた2年後に同様の改革期を迎えた。
ミズーリ―州カンザスシティーで、アニメ制作会社(Laugh O'Gram Studio社)を設立し、漫画家からアニメーターとして活躍していたウォルト・ディズニーはアニメでは成功していたものの制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になりスタジオを倒産させてしまった。
彼は、経営面のサポート役を立てる事の必要性を痛感し、倒産後の整理を終え再起を図って、1923年7月映画産業の本場ハリウッドへと移住した。ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共に同年10月、カンザス時代に一本だけ制作した「アリスの不思議の国」シリーズの続編商品を販売する会社ディズニー・ブラザーズ・スタジオ(現・ウォルト・ディズニー・カンパニー)を設立し、少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた「アリスコメディ(Alice Comedy)シリーズ」(これらの物語はキャロルのアリスとはほとんど関係ない。不思議の国のアリスの映像作品参照。)で人気を博し、その後1927年に、興行師チャールズ・B・ミンツ(Charles・ B・ Mintz)の紹介でユニバーサル・ピクチャーズ(Universal Pictures)と繋がりを得たウォルトは自社キャラクター「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を考案、うさぎのオズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作し子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切掛けを作った。.
AC1 アリスコメディー Alice's Wonderland (1923) ディズニー - YouTube
.オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット 紹介映像 - YouTube
しかし,配給業者チャールズ・ミンツとユニバーサル・ピクチャーズの謀略(法外な配給手数料の要求)により、ディズニー社は配給元と自社キャラクター、そして若いころからの無二の親友アブ・アイワークス(Ub lwerks)を除く殆どのスタッフを失って倒産寸前に追い込まれたが、進取の精神に富んだ彼はアイワークス, 兄ロイ、妻(Lillian)らに支えられ、社運を賭けた博打に打って出て“ミッキー・マウスシリーズ”を誕生させた。
当シリーズの第3作(ミッキーマウスを登場させた短編映画シリーズとして最初に公開された作品)『蒸気船ウィリー』(原題:『Steamboat Willie』)は、音声と映像を完全に一致させた世界最初のアニメーション映画であり,1928年11月にニューヨークのコロニー・シアター(現:ブロードウェイ・シアター)で上演されたとき、このカートゥーン映画は記録的な売り上げを達成し、大衆を魅惑し、批評家と観客の絶賛を浴びた。
これらミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写はアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮。彼の経歴の中で成し遂げた幾つもの偉業の口火を切ることにもなった。
1930年代前半を通して、アニメーション業界は、二つの派閥に分割されているように見えた。つまり、ウォルト・ディズニーと「それ以外」である。
ロサンゼルスの一零細スタジオで創造したミッキーマウスはその驚異的な人気により、アニメーションのスターというより、チャーリー・チャップリンと並ぶ世界で最も有名な銀幕のスター達の一人として迎え入れられるようになり、ディズニー作品に基づく関連商品は、多くの企業を世界大恐慌による財政的な窮地から救い出した。
また、当時、アメリカ経済が不況のどん底にあったため、優れた才能を持つアニメイターをスタジオに集めることができたディズニーは、この人気に乗じ、アニメーションに更なる改革を加えた。映画においてテクニカラー社の三色処理方式の開発でディズニーの果たした役割は大きい。
「像に色をつける」という試みはサイレント映画時代の初期から試みられており、当時は1コマ1コマ手作業で着色されていた。その後カラーフィルム自体はイギリスで開発されたキネマカラーに次ぐカラー映画彩色技術として、アメリカで1916年に2原色式テクニカラーが開発されるが、青や黄色が表現できないなど、色彩再現力が不完全であった。
その後改良も進み、二本のフォルム画像を新しいフィルムに転写する「ダイ・トランスファー方式」(染料転写方式)が採用されたことで上映技術も向上し多くの映画が制作されたが、1930年以降大恐慌の影響や、カラー作品が興業成績の向上につながらず、テクニカラー社は財政面で苦戦していた。
しかしフルカラー映画技術の開発も進み、テクニカラー社は三色法による技術を開発した。特別なカメラを使用し被写体をプリズムで分解し、赤青緑それぞれのフィルターを通した画像を三本のモノクロフィルムに別々に同時に記録し、その後「ダイ・トランスファー方式」で一本の映写用フィルムを作成すると言う方式(3原色式の改良版テクニカラー)であった。
この方式を使った総天然色で上映された最初のアニメーション作品が、1932年公開のディズニーの短編映画『花と木』(原題:Flowers and Trees)であった。
この映画で、第1回アカデミー短編アニメ賞を受賞したディズニーは、興行的成功を収め、その後、1935年まで三色式テクニカラーの独占使用契約をテクニカラー社と結んだため、その間他の映画スタジオは2原色テクニカラーか、あるいは、シネカラーなどの不完全なカラー・システムの使用を余儀なくされた。
ところで、第5回アカデミー賞における、第1回アカデミー短編アニメ賞には、1931年12月9日公開のデイヴィッド・ハンド)監督作品『ミッキーの子沢山』 (原題:Mickey's Orphans。※1参照)もノミネートされていた。
同作品の内容は、吹雪の晩。クリスマスを過ごすミッキーマウス、ミニーマウス、プルートの家にマントを身につけた謎の人物が訪れる。その人は玄関の呼び鈴を鳴らすと、バスケットを玄関に置き、一目散に逃げ出してしまう。 そのバスケットの中には子猫が入っていた。そして、その子猫が起こすてんやわんや・・・。といったもので、先にも書いた“ミッキーマウスの短編映画シリーズ『蒸気船ウィリー』から数えて36作目の作品である。
36 ミッキーの子沢山 Mickey's Orphans 19311209 - YouTube
この時、ディズニープロの2作品以外に、もう1作、第1回アカデミー短編アニメ賞にノミネートされていた作品がある。ワーナー・ブラザーズ・ピクチャーズで、レオン・シュレジンジャー・プロダクションズ(Leon Schlesinger Productions)により製作されたメリー・メロディーズ(Merrie Melodies) シリーズの『It's Got Me Again!』(1932年3月公開)、 監督はルドルフ・アイジングの白黒作品である。
It's Got Me Again! (1932) A Merrie Melodies Cartoon - YouTube
同作品の内容は、深夜、とある空き家にて、時計の鐘を合図にネズミたちが穴からぞろぞろ出てきて、歌え踊れやの大騒ぎを始める。そこへ凶悪な顔の猫が現れ、ネズミを食べようとするが、ネズミたちは団結して猫に立ち向かうというもの。ネズミの撃つ豆鉄砲を食らって猫が「It's Got Me Again」.(また俺かよ)というのがタイトル名となっている.。何か、この映画に登場する白黒のネズミたちは、ミッキーとよく似た感じだが・・・。
メリー・メロディーズ(Merrie Melodies)は、ワーナー・ブラザーズ・ピクチャーズが1931年 ~ 1969年 の間製作していたアニメーション作品である。同社には、主に1930年から1969年まで製作された「ルーニー・テューンズ」(英語:Looney Tunes)というアニメシリーズがあり、「メリー・メロディーズ」(Merrie Melodies)はその派生作品であるが、便宜上合わせてルーニー・テューンズと呼ばれる事が多いようだ。
バッグス・バニーやダフィー・ダック、トゥイーティーなど世界的に有名なキャラクターを多数有する本作は、1947年から1969年までの間、ディズニーなどのライバルを抜き、最も人気のあるアニメーション短編映画シリーズであったと言われている。
最も輝かしかった1940年代から1950年代の作品の中にはアカデミー短編アニメ賞の受賞(ここ参照)やアメリカ国立フィルム登録簿へ登録されたもの(『カモにされたカモ』[英題:『Duck Amuck 』1953公開。バッグス・バニーがカメオ出演)なども多数存在する。
1923年に設立されたワーナー・ブラザース・ピクチャーズは、1927年10月6日、『ジャズ・シンガー』(アラン・クロスランド監督)を公開している。この映画はヴァイタフォン方式を採用した世界初のトーキー映画と言われている。
なんでも、「You ain't heard nothin' yet! (「お楽しみはこれからだ!」 直訳では「君はまだ何も聴いてないんだぜ」)」というセリフが、映画史上初めてのセリフとして有名だそうである。映画全編を通してのトーキーではなく、部分的なトーキーだったが、驚異的な興行収入を記録し、トーキー時代の幕開きとなった映画で、第1回アカデミー賞で脚色賞部門でノミネートされている。
1928年、ワーナー・ブラザースは初の全編音声付きトーキー『Lights of New York』を製作し成功を収めた。これ以後、映画業界はトーキー製作になだれ込む事になる。
At Dawning (Lights of New York) - YouTube
さらに1929年6月13日にはテクニカラーの「On with the Show」(邦題:『エロ大行進曲』※2参照)を世に問うている。それまで二色式カラー映画や無声テクニカラー映画は発表されていたが、全編音声付・全編カラー映画はこれが最初だった。ただ、テクニカラーというが、まだ、2原色式テクニカラー時代のものだっただろう。
同年、同様のカラー映画『ブロードウェイの黄金時代(Gold Diggers of Broadway)』(※3参照)を製作しこの年一番の人気を博し、1939年まで各地の劇場で続映され続けるほどのヒットになった。
これ以後、ワーナーは1931年までの間に数多くのカラー映画を製作する。これらの映画はいずれもミュージカルであったが、1931年に各地の観客がミュージカル映画に飽きてしまい、ワーナーは多くのミュージカルの製作を中止し、すでに製作した映画をコメディとして宣伝するはめとなった。
観客はカラー映画をミュージカルと同一視してしまったため、ワーナーほか各社はカラー映画の製作を行わないようになった。しかし、ワーナーはテクニカラー社とあと2本カラー映画を製作する契約が残ってしまっていたため、ミステリー映画初のカラー作品『ドクターX(Doctor X)』(1932年)と『肉の蝋人形(Mystery of the Wax Museum)』(1933年)が製作されたという。
ワーナー・ブラザーズは自社音楽を促進するためのアニメーション短編映画に興味を持っていた。
ワーナーのアニメーション(カートゥーン)映画製作は1930年より、レオン・シュレジンガー(Leon Schlesinger。ワーナー兄弟とは遠縁の親戚だったらしい)所有の独立スタジオの下で開始された。
シュレジンガーのパシフィック・アート・アンド・タイトル社はワーナーの映画のタイトルやサイレント映画の字幕などを製作していたが、ヒュー・ハーマン(Hugh Harman)とルドルフ・アイジング(Rudolf Ising)というディズニー出身の有能なアニメーターを社外から招き、カートゥーン製作に乗り出した。そして、かれらによってルーニー・テューンズは製作される事となった。
ルドルフ・アイジングは、初期はヒュー・ハーマンとともにウォルト・ディズニーの元で『アリス・コメディーズ』や『オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット』の制作に参加し、ディズニーやアブ・アイワークスにミッキーマウス誕生のきっかけとなるネズミのスケッチを提供していたという(ミッキーマウスの映画としては最初に制作された作品、『プレーン・クレイジー』原題:Plane Crazy。邦題:『飛行機狂』の、作画を担当)。
そのようなこともあって、この頃の作品はディズニーの短編アニメーション映画の模倣にすぎなかったようだ。道理で、前にも紹介したワーナー・ブラザーズが1932年に公開した『It's Got Me Again!』のネズミがミッキーと似ているのも頷けるよ。
彼らはジャズを使って過激なギャグ(この後のヘイズ・コード適用後は不可能になった)を交え、ミッキーに良く似たキャラクター、黒人少年ボスコ(Bosko)を主役にした『Sinkin' in the Bathtub』(1930年)を皮切りにルーニー・テューンズは一躍ヒットシリーズとなり、より音楽を重視した派生作品『メリー・メロディーズ』なども製作されるようになった。
3 プレーンクレイジー Plane Crazy 19290317 19280515 - YouTube
LT001 Sinkin' In The Bathtub (May,1930)-YouTube
しかし、ワーナーと彼らの蜜月期間も長くは続かなかった。1933年にハーマンと、アイジングは作品の質を上げるためにより大きな設備を要求し、これが原因でシュレジンガーと衝突。おりしもMGMが二人にもっと有利な契約を持ちかけていた(※4の第8章参照)ようで、二人はボスコを引き連れて去っていったため、ワーナーはボスコなど過去の作品の権利も失う事となった。
スターを失ったルーニー・テューンズはその後、ジャック・キングやフリッツ・フリーレング(Friz Freleng)らにより新たなキャラクター白人少年バディ( Buddy (黒人のボスコの白人版に過ぎないもの)などを主役とした作品が製作されることになるが、どれも短命に終わった。
ボスコの権利を失って以降、スターの不在が続いたルーニー・テューンズだが、フリッツ・フレリングが監督したメリー・メロディーズ作品『楽しい母親参観』(1935年、原題:I Haven't Got a Hat)に吃音の豚ポーキー・ピッグが初登場し、『Gold Diggers of '49』(1936年)を経て、一躍ルーニー・テューンズの花形スターとなり、作品的にも、後にアメリカ国立フィルム登録簿に登録された、『Porky in Wackyland』(1938年公開 [後に『幻のドードーを探せ』(1949年、原題:Dough for the Do-Do)としてカラーリメイク化] ※5の2000年登録参照)などの傑作が生まれた。
しかし彼(これらキャラクター)の栄光も長くは続かなかった。新たなスターダフィー・ダックが登場した。『Porky's Duck Hunt』(1937年)にて初登場した彼は、今までにない狂ったキャラクターで観客を虜にした。以後、ポーキーが主役を張る事は少なくなったものの、ダフィーのパートナーとしてキャラクターを発展させていく事になる。
Beans the Cat Porky Pig - Gold Diggers of '49 -1935- Looney Tunes - Tex Avery
Porky in Wackyland X Dough for the DoDo-YouTube
1940年にはルーニー・テューンズの顔であるバッグス・バニーが『野生のバニー』(原題:A Wild Hare)にて初登場(これが、バッグス・バニーの第一作とされるが、原型となったキャラクターを含めると『Porky's Hare Hunt』(1938年)まで遡れる)し、レオン・シュレジンジャー・スタジオ制作のこの作品(監督 テックス・アヴェリー)が久しぶりにアカデミー短編アニメ賞にノミネーとされ、以後も記憶に残るルーニー・テューンズスターのデビューが続いた。
なお、この時同時にノミネートされたのはMGMの『上には上がある』(原題:Puss Gets the Boot)、つまりトムとジェリー第一作であり、オスカーを手にしたのは、同じくMGMの『あこがれの銀河』(原題:The Milky Way)、つまり、初めてディズニー以外の社がオスカーを受賞した。この年ディズニーは短編部門にノミネートされていない。但し『ピノキオ』で劇中歌『星に願いを』(原題: When You Wish Upon a Star)が歌曲賞を獲得している。
そして、1940年代には、ワーナーのアニメーション短編映画に初のアカデミー賞をもたらす事となるカナリアのトゥイーティーが登場した。ボブ・クランペット(Bob Clampett)による作品『A Tale of Two Kitties』(1942年)にて誕生したのだが、真価を発揮したのはフリッツ・フレリング(Friz Freleng)の『『ピーチク小鳥』(原題:Tweetie Pie。1947年)以降の事である。本作は同年のアカデミー・短編アニメ賞を受賞した他、以後定番となるシルベスター・キャットとの黄金タッグを確立した記念碑的作品となった。
この新キャラは基本的にMGMが作ったトムとジェリーのネコ対ネズミの繰り返しだが、素材の新鮮さとしては新しいシリーズに十分だった。トウィーティと猫のシルヴェスター(シルベスター・キャット)はハンナ&バーバラの二匹より豊かな性格を見せた。トウィーティは赤ちゃんカナリアで子供らしい外見と大きな青い瞳をしている。しかしその天使のような風貌の下にはずる賢く、しばしば残忍な性格を隠している。当然、幸運と巧みに呼び込んだ味方によって彼はシルヴェスターから自分の身を守る。シルヴェスターの方はといえば、彼は無垢な存在どころではなく、裏切り者で限りなく卑劣に振る舞う存在である。だが、運命は彼に冷たい。彼は弱者(に見える者)が有利になる判官びいきの犠牲になる。
以後トゥイーティーはフレリング専用のキャラクターとなった。
【旧吹替】ルーニー・テューンズ/楽しい母親参観 - HOC0
Porky in Wackyland X Dough for the DoDo-YouTube
Porky's Duck Hunt(1937年) - Video Dailymotion
バッグス・バニー 「野性のバニー」 (THE WILD HARE) - nicozon
A Tale of Two Kitties - YouTube
Tweetie Pie - 1947 - with original recreated tirles
この頃になるとチャック・ジョーンズも頭角を現す様になってくる。チャックの初期の作品は子鼠のスニッフルズ(Sniffles)など、ワーナーの作品にしては可愛く、毒の無いものが大半だったが、1940年代には笑いのセンスを徐々に洗練していき、1950年代には後年にも評価される作品を多数製作した。
特に有名なものとしては現在のダフィーのキャラクター性を決定づけた狩人3部作[『標的は誰だ』(1951年、原題:Rabbit Fire)、『ちゃっかりウサギ狩り』(1952年、原題:Rabbit Seasoning)、『何のシーズン?』(1953年、原題:Duck! Rabbit, Duck!)]やアカデミー賞を受賞したペペ・ル・ピュー(Pepe_Le_Pew_ )作品『For Scent-imental Reasons』(1949年)、アメリカ国立フィルム登録簿により永久保存が決まった『オペラ座の狩人』(1957年、原題:What's Opera, Doc?)や、先にも挙げた第四の壁を巧みに利用した『カモにされたカモ』(1952年、原題:Duck Amuck)他、一定のルールを作りカートゥーンの法則を突き詰めていったロード・ランナー&ワイリー・コヨーテの作品群(※6参照)などである。
バッグス・バニー&ダフィー・ダック/標的は誰だ ‐ ニコニコ動画:GINZA
バッグス・バニー「いたずらなうさぎ」.- nicozon
バッグス・バニー&ダフィー・ダック/『何のシーズン?』( Duck! Rabbit, Duck!)
For Scent-imental Reasons (Commentary by Michael Barrier)
24.For.Scent-imental.Reasons.1949.LATiNO
バッグス・バニー/『標的は誰だ』 - nicolife (落書き多いが)
バッグス・バニー/オペラ座の狩人-nicozon
Looney Tunes 1(ロードランナーvsワイリーコヨーテ - YouTube
1960年代に入るとスタッフの引退、死去などによって作品の質が徐々に低下していった。1963年にはアニメーションスタジオが閉鎖されたが、新スタジオDePatie-Freleng Enterprises(後にピンク・パンサーを製作。)への交代によりアニメーションの製作自体は続行された。この頃の作品の特徴としては、ワーナーロゴの変更。リミテッド・アニメーション化。新しいキャラクター「クールキャット」(Cool Cat)の登場。バッグス、トゥイーティーの欠如などがあげられる。オリジナルのアニメーション短編映画はメリー・メロディーズ作品『Injun Trouble』(1969年)にて製作が終了したが、その後ファミリー向け映画の同時上映作品として再開し、今日まで散発的に製作され続けている。
Injun Trouble (1969) - Video Dailymotion
今日は、世界初の3色式テクニカラー映画であるディズニーの短編アニメ『花と木』に絡めて、1940年代にはディズニーの短編アニメにとって代わる短編アニメを育て上げたワーナー・ブラザーズのレオン・シュレジンジャー・プロダクションズの“ルーニー・テューンズ”のスターたちのことを書いてみた。
難しいことを云うより、その作品を見て楽しんでもらった方が良いと思うのでネット上で見れるものをできるだけ多くリンクしておいた。
暑い夏、熱中症には気を付けて元気でお過ごしください。
私も、暑さで集中力もなくなっているので、明日から8月一杯は夏休みといたします。又,涼しくなったら、来てください。
◎冒頭に掲載の画像は、マイコレクション旧三菱銀行貯金箱より(Corection Room参照)。英語:「Wishing you healthy summer」は、日本語では「あなたのために健全な夏を祈る」となります。
参考:
※1: ディズニー データベース
http://www29.atwiki.jp/wrtb/
※2:エロ大行進 | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv1187/
※3:ブロードウェイ黄金時代 | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv7979/
※4::カートゥーン:アニメーション100年史
http://homepage1.nifty.com/gon2/cartoon/index.html#chap8
※5:アメリカ国立フィルム登録簿 2000年 - allcinema
http://www.allcinema.net/prog/awardmain.php?num_a=1313
※6:ルーニー・テューンズ・全キャラクター/ワーナー・ブラザース
https://warnerbros.co.jp/characters/looneytunes/character.html
WaltDisneyと大恐慌(Adobe PDF)
http://www.i-repository.net/contents/asia-u/0000000003434.pdf#search='%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%81%90%E6%85%8C+%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC%E4%BD%9C%E5%93%81'