天保4年5月15日(1833年7月2日)は、江戸時代後期の京都の陶工・青木木米(あおき もくべい) の忌日である。
識字陶工として知られており永樂保全、仁阿弥道八とともに京焼の幕末三大名工のひとりとされる。・・・と言っても、私自身木米の詳しいことを知っているわけでもないので、私の蔵書『やきもの辞典』(光芸出版)やネットのWikipedia、Yahoo!百科事典その他以下参考に記載の木米に関するものなどによれば、木米は、江戸時代後期の明和4年(1767年) 、京都祇園縄手の料理茶屋「木屋」に青木佐兵衛の子として生まれた。幼名は八十八(やそはち)、のち、家督を継いで代々の名佐兵衛と改名した。通称木屋佐兵衛。木米は号で、茶屋の名から1字をとり、八十八を米として付けられたもの。晩年、耳が不自由になり聾米(ろうべい)と称した。号はこの他にも、青来・九九鱗・百六散(山)人・古器観・亭雲楼など多くあるようだ。幼い頃、書画・篆刻(てんこく)に優れ、学者でもある高芙蓉に学び絵画や書の手ほどきを受けた。木米は古銅器や古銭の鑑賞が高じて鋳金技術も習得していたといわれている。元来、大変器用な人物で何でもこなしたようだが、後に木米が陶工の道を選んだ動機は、大坂の文人木村蒹葭堂(けんかどう)宅で中国清朝の朱笠亭(しゅりゅうてい)の著『陶説』を読んだことによるという。実技に入ったのは30歳頃のようだ。江戸後期に流行した中国趣味に存分に浸って成長した木米は、書画、工芸諸般の技術を体得したが、結果としては南画と煎茶(せんちゃ)道具を主体とする陶磁器に彼の才能は絞られていった。
陶工としての木米は、建仁寺に住んでいた奥田穎川(えいせん)に師事したと伝わるが、粟田の雲林院文造(うじいぶんぞう。宝山ともいう。以下参考の※1参照)の教えも受けたようだという。その才能は数年で表れ、その名が広まり、紀州徳川治寶(とくがわ はるとみ)に招かれたり、文化2年(1805年)には、青蓮院宮の御用釜を粟田に築いたりした。翌年には加賀窯業復興のため前田家の招聘を受け金沢へ行き、卯辰山山麓に春日山窯を翌年に起した。文化5年(1808年)帰京(春日山窯のことは以下参考の※5を参照)。以後は、京都にて製陶に励んだ。
作品は、穎川の始めた磁器製法を煎茶道具に応用し、中国の染付(そめつけ)、赤絵、青磁、交趾(こうち)焼の技術と様式を受け止めつつ、南蛮焼(東南アジアの焼締陶。以下参考の※3:参照)、朝鮮李朝(りちょう)時代の陶磁の作風も加味して、江戸後期らしい多種多彩な焼物を残した。彼の作画や作陶がもっとも円熟した時期(文政7年=1824年、58歳のころといわれる)に聾米の号を使い始めたようだ。この件について、“木米は釜の温度を釜の中の燃える火から発せられるパチパチという音で判断していた。 そのため木米の耳はいつも赤く腫上がったがその手法を変えることはせず完治する間もないほど作陶を続けたため晩年、音を失くしたことから。以後、木米ではなく聾米(ろうべい)と号した。”・・・というエピソードがあるようだ(Wikipedia )。
又、頼 山陽や田能村竹田らとの親交も深く、その影響をうけて書画詩文にも巧みであった。南画家としても独自の画境を開き、「兎道朝暾図」(うじちょうとんず)が著名であ(以下参考の※2参照)。
冒頭の画像・茶道具の「振り出し」は、近くのお寺の弘法市で飼ったものだが、一応、底面には「木米」と書かれている。こんな名工の作品が、手頃な値段で私などの手に入るわけがないが、見たときには一瞬どきりとした。売っている人は、プロではなく家の不用品を処分に来ているだけで、これが何かもわからずに、安い値段で処分していた。安いから買ったのだが、これが、本物の木米の作品などとは思っていない。再興九谷は、金沢に春日山窯の開窯をきっかけに、次々と多くの窯が開窯し、古九谷の技法を受継ぎながらも、それぞれの窯の指導者によって新しい作風(画風)がうち立てられいったが、青木木米は、人物を主に九谷の五彩を用いて描き、全面に赤をほどこした中国風の画風を確立、それが冒頭掲載の茶道具の1つである「振り出し」(口細の小形の容器。小粒の菓子や香煎【こうせん】を入れる)に見られるような図柄のものである(以下参考の※4参照)。紛らわしいが、底面に書かれている「木米」は、この作品が木米という作家が作ったものを表しているというのではなく、木米の指導によって確立された画風である木米風の九谷焼であることを意味しているという点においては、これは本物とも言えるのである。我楽多好きの私が、たまたま、この様なものを持っていたので、今日、木米について書いてみた。
(画像は、九谷焼・木米「振り出し」)
※1:茶の湯の楽しみ>茶道用語>雲林院寶山
http://www17.ocn.ne.jp/~verdure/yogo/yogo_u.html
※2:東京国立博物館・文化遺産オンライン・兎道朝暾図(うじちょうとんず)
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=66412
※3:沖縄の魅力と歴史>琉球の焼物の歴史>南蛮焼について
http://www.zyyms.net/yakimononanban.htm
※4:いいねっと金沢九谷焼とは(金沢市公式HP)
http://www4.city.kanazawa.lg.jp/17003/dentou/kougei/tougei/kutani_what.jsp
※5:春日山窯
http://www.yamazakiart.com/kasugayama.html
青木木米 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%9C%A8%E7%B1%B3
Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/
陶磁器- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E7%A3%81%E5%99%A8
美と技の都京都
http://www.kougei.or.jp/crafts/kyoto/index.html
各陶家歴代詳細/青木 木米
http://www.awatayaki.com/awatayaki-kakuierekidai.htm
陶工伝・青木木米
http://www.ne.jp/asahi/kotouji/suenokomichi/urahp/toukouden/aokimokubei.htm
国際日本文化研究センター|平安人物志データベース
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/heian_jinbutsu.html
識字陶工として知られており永樂保全、仁阿弥道八とともに京焼の幕末三大名工のひとりとされる。・・・と言っても、私自身木米の詳しいことを知っているわけでもないので、私の蔵書『やきもの辞典』(光芸出版)やネットのWikipedia、Yahoo!百科事典その他以下参考に記載の木米に関するものなどによれば、木米は、江戸時代後期の明和4年(1767年) 、京都祇園縄手の料理茶屋「木屋」に青木佐兵衛の子として生まれた。幼名は八十八(やそはち)、のち、家督を継いで代々の名佐兵衛と改名した。通称木屋佐兵衛。木米は号で、茶屋の名から1字をとり、八十八を米として付けられたもの。晩年、耳が不自由になり聾米(ろうべい)と称した。号はこの他にも、青来・九九鱗・百六散(山)人・古器観・亭雲楼など多くあるようだ。幼い頃、書画・篆刻(てんこく)に優れ、学者でもある高芙蓉に学び絵画や書の手ほどきを受けた。木米は古銅器や古銭の鑑賞が高じて鋳金技術も習得していたといわれている。元来、大変器用な人物で何でもこなしたようだが、後に木米が陶工の道を選んだ動機は、大坂の文人木村蒹葭堂(けんかどう)宅で中国清朝の朱笠亭(しゅりゅうてい)の著『陶説』を読んだことによるという。実技に入ったのは30歳頃のようだ。江戸後期に流行した中国趣味に存分に浸って成長した木米は、書画、工芸諸般の技術を体得したが、結果としては南画と煎茶(せんちゃ)道具を主体とする陶磁器に彼の才能は絞られていった。
陶工としての木米は、建仁寺に住んでいた奥田穎川(えいせん)に師事したと伝わるが、粟田の雲林院文造(うじいぶんぞう。宝山ともいう。以下参考の※1参照)の教えも受けたようだという。その才能は数年で表れ、その名が広まり、紀州徳川治寶(とくがわ はるとみ)に招かれたり、文化2年(1805年)には、青蓮院宮の御用釜を粟田に築いたりした。翌年には加賀窯業復興のため前田家の招聘を受け金沢へ行き、卯辰山山麓に春日山窯を翌年に起した。文化5年(1808年)帰京(春日山窯のことは以下参考の※5を参照)。以後は、京都にて製陶に励んだ。
作品は、穎川の始めた磁器製法を煎茶道具に応用し、中国の染付(そめつけ)、赤絵、青磁、交趾(こうち)焼の技術と様式を受け止めつつ、南蛮焼(東南アジアの焼締陶。以下参考の※3:参照)、朝鮮李朝(りちょう)時代の陶磁の作風も加味して、江戸後期らしい多種多彩な焼物を残した。彼の作画や作陶がもっとも円熟した時期(文政7年=1824年、58歳のころといわれる)に聾米の号を使い始めたようだ。この件について、“木米は釜の温度を釜の中の燃える火から発せられるパチパチという音で判断していた。 そのため木米の耳はいつも赤く腫上がったがその手法を変えることはせず完治する間もないほど作陶を続けたため晩年、音を失くしたことから。以後、木米ではなく聾米(ろうべい)と号した。”・・・というエピソードがあるようだ(Wikipedia )。
又、頼 山陽や田能村竹田らとの親交も深く、その影響をうけて書画詩文にも巧みであった。南画家としても独自の画境を開き、「兎道朝暾図」(うじちょうとんず)が著名であ(以下参考の※2参照)。
冒頭の画像・茶道具の「振り出し」は、近くのお寺の弘法市で飼ったものだが、一応、底面には「木米」と書かれている。こんな名工の作品が、手頃な値段で私などの手に入るわけがないが、見たときには一瞬どきりとした。売っている人は、プロではなく家の不用品を処分に来ているだけで、これが何かもわからずに、安い値段で処分していた。安いから買ったのだが、これが、本物の木米の作品などとは思っていない。再興九谷は、金沢に春日山窯の開窯をきっかけに、次々と多くの窯が開窯し、古九谷の技法を受継ぎながらも、それぞれの窯の指導者によって新しい作風(画風)がうち立てられいったが、青木木米は、人物を主に九谷の五彩を用いて描き、全面に赤をほどこした中国風の画風を確立、それが冒頭掲載の茶道具の1つである「振り出し」(口細の小形の容器。小粒の菓子や香煎【こうせん】を入れる)に見られるような図柄のものである(以下参考の※4参照)。紛らわしいが、底面に書かれている「木米」は、この作品が木米という作家が作ったものを表しているというのではなく、木米の指導によって確立された画風である木米風の九谷焼であることを意味しているという点においては、これは本物とも言えるのである。我楽多好きの私が、たまたま、この様なものを持っていたので、今日、木米について書いてみた。
(画像は、九谷焼・木米「振り出し」)
※1:茶の湯の楽しみ>茶道用語>雲林院寶山
http://www17.ocn.ne.jp/~verdure/yogo/yogo_u.html
※2:東京国立博物館・文化遺産オンライン・兎道朝暾図(うじちょうとんず)
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=66412
※3:沖縄の魅力と歴史>琉球の焼物の歴史>南蛮焼について
http://www.zyyms.net/yakimononanban.htm
※4:いいねっと金沢九谷焼とは(金沢市公式HP)
http://www4.city.kanazawa.lg.jp/17003/dentou/kougei/tougei/kutani_what.jsp
※5:春日山窯
http://www.yamazakiart.com/kasugayama.html
青木木米 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%9C%A8%E7%B1%B3
Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/
陶磁器- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E7%A3%81%E5%99%A8
美と技の都京都
http://www.kougei.or.jp/crafts/kyoto/index.html
各陶家歴代詳細/青木 木米
http://www.awatayaki.com/awatayaki-kakuierekidai.htm
陶工伝・青木木米
http://www.ne.jp/asahi/kotouji/suenokomichi/urahp/toukouden/aokimokubei.htm
国際日本文化研究センター|平安人物志データベース
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/heian_jinbutsu.html