今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

広辞苑記念日

2010-05-25 | 記念日
今日(5月25日)の記念日に「広辞苑記念日 」がある。
『広辞苑』(こうじえん)とは、岩波書店が発行している中型の国語辞典である。
戦前から定評のあった『辞苑』を大幅に改訂した『広辞苑』(岩波書店)が発売されたのは、1955(昭和30)年5月25日のことであった。冒頭掲載の画像は、その時の朝日新聞の広告である(朝日クロニクル週間20世紀)。
新聞広告の内容を見てみよう。
編者は京都大学の言語学者・新村出(しんむら・いずる)博士。
広告文には「戦前に百貨的語彙の豊富と説明の明快ともって定評のあった『辞苑』の改訂増補に着手して以来十余年、その間史上未曾有の転変を経て、新しい時代の要求に応ずる新しい辞書の必要は切実となった。いまここに国語学的内容と百的事項とを一層整備し、旧『辞苑』の特色をいかしつつ、しかも全く面目を一新にして世に現れる『広辞苑』は正にこの切実な社会的要望にこたえんとするものである。現代に最も適応した生きた辞書こそ本書である」・・・とある。そして、最新の国語―百貨辞典 収載語彙(ごい)20万語。と大書してある。価格は、定価2000円がこの時は期間限定特価1800円となっている。
この当時、公務員の初任給8700円、喫茶店で飲むコーヒー1杯が50円であった。今の価格に換算すれすれば、4~5万円にはなるであろう高額な辞書が、大ベストセラーになったというのだから凄い。しかし、何故、このように分厚く、難解そうな辞書がベストセラーとなるほど売れたのであろうか?
唐突な話だが、年輩の人なら、日本人モデルの草分け的存在である8頭身美人の伊藤絹子を知っているだろう。
世界を代表するミス・コンテストの1つミス・ユニバースは、1952(昭和27)年にアメリカ合衆国カリフォルニア州ロングビーチで初めて行われたが、日本もこの第1回大会から、参加している。そして、翌・1953(昭和28)年第2回大会で、伊東絹子(写真の真ん中)が、日本人初となる入賞(第3位)を果たし、「8頭身美人」が当時の流行語にもなった。伊東は当時、1932(昭和7)年生まれというからこの時は20才と言うことだろう。彼女のこの時の体型は、身長164cm、体重52kg、スリーサイズは各86、58、97cmであったそうだ(Wikipedia)。彼女は、19歳の時からモデルをしていたようだが、今の時代のブランドのコレクションショーなどに出演するモデルなら、通常175cm以上の高身長で、8頭身どころか9頭身であり、体格の向上した現代の普通の日本人女性と比較しても決して優れているわけではないが、当時の20歳代の日本人女性の平均身長が153.9cm、平均体重が49.6kg、バストの平均が80.7cm位なので、伊東の体型は当時としてはかなりの長身で西洋人女性を彷彿させる抜群の体型であったといえるだろう。頭が身長の8分の1という均整の取れた体型の彼女は、それまでの小柄で胴長・短足、着物姿は美しくても洋服を着れば野暮ったい日本人のイメージを吹き飛ばした。「8頭身」と言う言葉は誰かはわからないがデザイナーあたりが使ったらしいが、伊藤はこの年「8頭身美人」として脚光を浴びた。
さっそく、1955(昭和30)年5月の今日発行された『広辞苑』(初版)には、今までの『辞苑』にはなかった「8頭身」の言葉が収録され、「身長が頭部の長さの8倍あること。女性のもっとも美しいスタイルとされる」と記載されている。
『広辞苑』は、昭和44年に第2版、昭和58年に第3版、平成3年に第4版、平成10年に第5版、平成20年に第6版が刊行され、この最新版である第6版では第5版収録の全23万項目を徹底的に再検討した上で、現代生活に必須の1万語を厳選して新収録し、総項目数は約24万語、(3074ページ)となっている。岩波書店の第6版『広辞苑』のPR文には、“21世紀の言語生活にいっそうかなった辞典にすべく、一般語については、新しい意味や用法の広がりを的確に捉えることに重点をおきました。百科項目については、現代の急速な社会の変動やさまざまな分野での研究の進展、科学技術の進歩に伴って生じた新しい動きを反映させています。」と書かれている(以下参考の※1参照)ように、初版での「8頭身」の収録は、初版当時から、その収録にその時代の語彙を反映していたことを示していた一つの例といえるだろう。
現在、中型国語辞典((10~20万語規模の辞典)としては三省堂の『大辞林』と並ぶ両雄である。最近では携帯機器に電子辞書の形で収録される事も多い。冒頭右の画像は、私が利用しているCASIOの電子辞書である。
この『広辞苑』の前身である『辞苑』は、1930(昭和5)年末、当時、東京で民俗学や考古学の専門書店兼学術出版社「岡書院」を経営していた岡茂雄が、岩波茂雄と逢って話していた時に出た、当時のような不況下では、辞書や教科書、そして講座などのシリーズが良いという話から、中・高生から家庭向き国語辞典刊行の企画を思いつき、旧知の間柄だった新村出に依頼したのが発端であったそうだ。しかし、新村は当初、そのような辞典を作ることに興味がなく断ったようだが、作るなら本格的な大辞典を作りたいという思いがあったらしい。岡の重ねての依頼に、「昔、高等師範で教え子であった溝江八男太が手伝ってくれるなら、やつてみてもよい」と渋々承諾したという。そして、その溝江の進言により、百科的内容の事典を目指す事となったようだ。書名は、岡が新村の考案した数案の中から決めたが、「辞苑」とは、東晋の葛洪の『字苑』に因んだものだという。しかし編集が進むに連れ、膨大なヴォリュームになることから、零細な岡書院の手に余ると判断した岡は、大手出版社へ引継ぎを打診。岩波には断られるも、岡の友人渋沢敬三を通して事情を知った博文館社長大橋新太郎よりの申し入れがあり、『辞苑』は博文館へ移譲されたようだ。『辞苑』移譲後も、編集助手の人事や編集業務上の庶務、博文館との交渉等の一切は岡が担当し、新村出を中心とする編集スタッフを補佐した。1935(昭和10)年に『辞苑』は完成。刊行されると同時に増刷という、好調な売れ行きを見せた。
しかし、収録した内容には不十分な部分もあり、すぐに岡より改訂版の話が持ち上がったようだが、『辞苑』編集時に版元(博文館)との間で行き違いがあった新村は改訂には難色を示していたようだが、再び岡と溝江に説得され、改訂に取り組むこととなった。改定作業半ばに外来語を考慮していない事に気付き、フランス文学者であり、新村の次男である新村猛を1940(昭和15)年より編集スタッフに加えるが、初めは外来語担当であった猛が、編者の息子であることに乗じて国語項目の書直しや百科項目の拡大を父より叱責を受けるほど行ったため、1941(昭和16)年に予定されていた改訂版刊行は頓挫し、改訂作業が遅れ、完成の目途が立たない内に、第二次世界大戦が勃発。空襲開始と共に編集部は場所を転々とし、最後は博文館社長邸の一室で猛と2名程の婦人スタッフで実務に当たっていたが編集作業は中断する。
戦後、疎開先から帰京した岡は新村家など数ヶ所に残しておいたために空襲の戦火から免れた『辞苑』改訂作業時の版下になる清刷り(校正刷り)を基に、博文館に『辞苑』改訂版刊行の意思を尋ねるが拒絶される。その旨は新村出には伝えられたが、その後、猛の交渉により、改訂版は、発行元を代え、岩波書店から刊行されることとなった。改訂作業は、猛を中心に編集スタッフを揃え取り組むが、そこには、予想外の難問がひかえていた。それは、戦後の日本の社会情勢が一変しており、使用される言葉そのものも大きく変化し、旧仮名遣いは新仮名遣いに改められ、多くの外来語が生活の中にも入り込んでいた。又、新語(以下参考の※5参照)も次々と誕生しており、それらの語も採り上げなければならなかった。結局、戦後10年を経過した1955(昭和30)年の今日・5月25日に『広辞苑』の書名で発行されたのだが、この発行に際して、博文館との軋轢(あつれき)を懸念した岡は、書名の『辞苑』の引継ぎに異を唱えたが、結局書名は『広辞苑』と決めらたようだが、その後岡の予想通り、“岩波書店と博文館の間で裁判沙汰が起こる事となった”・・・とWikipediaには、書かれている。その裁判沙汰がどんなものであったかのかは私は良く知らないし、検索をしてもどのような裁判があったのか、どのような結末になったのかは判らないままであった。
戦前から大手の出版社である岩波書店が『辞苑』の改訂版を刊行する以上は、当然、博文館から版権を譲り受けた上で刊行されているはずであり、『辞苑』と『広辞苑』では名前がよく似ていて商標上の問題があるのかは知らないが、もともと『辞苑』というものが、新村等によって編集され、その書名も新村出の考えたものから命名されたものであれば、その『辞苑』よりももっと広範囲な辞典として『広辞苑』として版権を譲り受けたところが発刊したからと言って、たいした問題ではないと思うのだが、博文館としては、自分のところが出していた『辞苑』の改訂版の発刊を断ったものを、他の発行元からよく似た名前で発行したものが大ベストセラーとなり、少々悔しくて、注文をつけたくなったのでないだろうかと想像しているのだが・・・。それとも、博文館から岩波書店への版権の移譲がスムーズに行なわれていなかったのだろうか?
ただ、このことと派別のようだが、以下参考に記載の※3:「ケペル先生のブログ: 岩波「広辞苑」と三省堂「広辞林」」によれば、“「広辞苑」は当初「新辞苑」という書名で出す予定だったが、直前に『広辞苑』という書名になり、三省堂『広辞林』(以下参考の※4参照)とあまりに似ているというので、三省堂が岩波書店を訴えた。しかし裁判所からは和解が勧告された。事実上、三省堂の敗北だった。”・・・とある。そして、“岩波書店の『広辞苑』の原型である『辞苑』(博文館)には、『広辞林』によく似た記述が多い。日本の国語辞典の原型は明治40年に刊行された『辞林』なのである。”・・と書かれている。
確かに、『広辞苑』の原型『辞苑』(昭和10年刊行)よりも、『広辞林』の原型である『辞林』の方がずっと古くから刊行されていたし、それ以前から、日本初の近代的国語辞典と言われる『言海』なども刊行されており、『辞苑』編集時に、それらも含め古くからあった辞書的なものも参考にしていないことはないだろうとは思うので、私のような素人には、似たような解説があってもよいのではないかと思うのだが・・。国語などもっとも苦手としている私など、『広辞苑』と、『広辞林』又、その他の辞典などと一つ一つ言葉を比較して解説にどのように違いがあるかなど、調べたこともないし、そんな難しいことはわからない。ただ、私が若い頃から、職場などでは『広辞苑』を常備していたので、私自身も、古くから『広辞苑』を愛用してきたが、今回、このブログを書くに当たって、いろいろネットを検索していると、専門家の間では『広辞苑』のことを余りよく言わない人も多いようで、『広辞苑の嘘』 (谷沢永一 渡部昇一 / 光文社)なんて本まで出ているらしい。しかし、私などのレベルの者が、普通に使うにはこれくらいの中型の国語辞書で十分間に合っている。
民俗学、国文学、国学の研究者である折口信夫の随筆に「辞書」についてかいているものがあり(以下参考の※6:青空文庫:作家別作品リスト:折口 信夫「辞書」参照)、その中で“われわれが知っているのは皆、漢字のものだが、ごくわずかに国語の辞書が古くからあって、なかなか手にはいらなかった。それで考えてみると、辞書は考えられないような目的をもっている。漢字の辞書は、書物を読むためのものというより、字の一個一個の日本的意義を知るもの、あるいは字の音を探るだけのもので、死んだ利用しかできなかった。本を読むためのものでなくて、あらゆる日本の事柄が出ていることが大事になる。中学生の辞書は、完全な目的を遂げているものではない。『辞林』『辞苑』は百科全書の小さいもので、ほんとうの意味での語彙ではない。啓蒙的な字引きにすぎない。けれども、常にわれわれの使う辞書といわれているもののなかにはいってくるものは、字引きと語彙だ。字引きのほうは栄えて、語彙は利用の範囲が少ない。むしろ利用せられているかいないかわからない。厳格にいうと、日本にはまだほんとうの語彙はない。完全に一冊もないといってもよいくらいである。”・・と書いている。
冒頭掲載の『広辞苑』初版の新聞広告には、「現代に最も適応した生きた辞書こそ本書である。最新の国語―百貨辞典 収載語彙20万語」と大書しているが、「語彙」とは何だろう?
「語彙」(ごい)の「彙」は非常に難しい字が使われているが、広辞苑で引くと、「彙」は、“たぐい。同類のもの。その集まり。それをあつめること。「彙報・語彙」”とある。この「彙」という字のもともとの意味は、「ハリネズミ」であったそうだ(以下参考の※7参照)。「ハリネズミ」の絵の出てくる江戸初期に編まれた、絵入り百科辞典『訓蒙図彙』(きんもうずい。以下参考の※8参照)は、日本には棲息しない動物も、可能な限り網羅されているようだが、「彙」は、「ハリネズミの背中に針が沢山集まっている様子」を指しているようである。
再度、広辞苑で、“「語彙」を引くと、(vocabulary)、一つの言語、あるいはその中の特定の範囲についての単語の総体、また、ある範囲の単語を集めて、一定の順序に並べた書物。“と記している。折口が『辞林』『辞苑』は百科全書の小さいもので、ほんとうの意味での語彙ではないというのは、後段の「ある範囲の単語を集めて、一定の順序に並べた書物」つまり、独立行政法人国立国語研究所 が刊行している『分類語彙表』(語を意味によって分類・整理したシソーラス【類義語集】)のようなものではないということではないか・・・などと解釈しているのだが・・。
2004年の『分類語彙表―増補改訂版―』 の収録総数は、101,070件という。だいたい普通の『岩波国語辞典』、それから『新明解国語辞典』など小型国語辞典と言われているもので、6万から7万ぐらい語彙が入っている。『広辞苑』は20 万、日本で最大の『日本国語大辞典』というのが、40万は入っていると言われているそうだが、特別な言語その他の専門家ではない我々が普通使う語彙は、小型の国語辞典レベルで、だいたい入っていると考えていいという。
普通の字引は、単語が並んでいて、その単語の形から意味を知るためのものだが、シソーラスというのは、逆に意味から形の方へいく、つまりこういうことを言いたいのに、どういう言葉があるのか、それを探すものであるが、説明すると長くなるので、そのシソーラスとはどんなものかについてはここを参照されるとよい。
「語彙」は、簡単に言えば、語の集まりであるが、日本語の語彙の数は、他国とくらべて非常に多いと言われているようだ。日本語は、例えば、美人でも、「8頭身美人」のほか、「色白美人」「見返り美人」「秋田美人」「八方美人」などというように、「美人」と言う言葉に他の言葉をつけて新しい言葉を作りやすいからだろう。そんな語彙の多さがが日本語の豊かな表現力をつくり上げているのだろうが、よく最近の日本人には、日本語の語彙力が不足しているなどと言われているのを耳にする。
以下参考の※9:国立国語研究所第19回「ことば」フォーラム“ことばを探す-語彙”の中でも、作家の神津カンナ(本名津十月。こうづかんな)さんも、「言葉に遊ぶ」と題して、話されている中で、世代による語彙の違いを挙げ、若年層の語彙が貧弱になっているのではないかということを指摘し”例えば、子供が親に「怒られる」「しかられる」という場面では、かつては,「お目玉を食らう」「雷を落とされる」「お小言(こごと)を食らう」「説教される」「諭される」など、状況に応じた使い分けがあり、その言葉を聞いただけで、どの程度のことでどのくらい怒られたのか、場面が想像できたが、若い世代は状況にかかわらず「怒られる」という一つの言葉だけで済ますようになって、もっと的確な言い方があるのにそれが使えなくなってきている”ことへの憂慮を示している。
そういえば、私なども、子供時代にはどれも使っていた言葉であるが、「お目玉を食らう」「雷を落とされる」「お小言を食らう」などといった言葉は、今では聞かなくなったね~。
私は、学生時代から国語は苦手であり、表現力も低く、このようなブログも、現役を退いた年寄りが、長い1日を退屈しないで過ごすために、人に読んでもらうと言うよりも、ボケ防止も兼ねて、興味を持ったことを、ただ勉強の積りでいろいろ調べたことを書いているだけであり、結構間違いなども多いのだろうと常々気にしながら書いている。
だから、こんな、語彙について、解説などするつもりはさらさらなく、ただ、もともと、余り、表現力など得意でない国語力が、年とともに、どんどん低下してきていることを反省しながら、書いているのだが、・・・もう、今からでは、国語の勉強も、ちょっとしんどいよな~。
1992年に『逆引き広辞苑』という辞典(見だし仮名の逆順読み配列の辞典)が出版された。私の持っている電子辞書の中にも入っているが、見出しを末尾から検索する。つまり、調べたい言葉の後ろの読みを入力するとその読みに関連するいろいろな言葉が出てくる。以下参考の※10:の逆引き広辞苑の使い方にもあるように、例えばあめと入力すると、「雨」の他「大雨」「小糠雨」「しのつく雨」などが登場、参照にしたがって「雨(さめ)」「時雨(しぐれ)」に飛べばそれぞれ「秋雨」「霧雨」「村雨」「樹雨」、「春時雨」「夕時雨」などが一覧でき、日本人の雨についての多彩な感性が一目瞭然・・・。慣れれば、結構いろいろなことに使えそうだ。
(画像左:1955年5月25日『広辞苑』初版新聞広告、右:CASIOの電子辞書)

参考は別紙となっています。⇒ 広辞苑記念日:参考 へ

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