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今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(Ⅰ)

2010-03-22 | 歴史
人力車とは、人をのせ、車夫がひいて走る一人乗りもしくは、二人乗りの二輪車であり、俥(くるま)。腕車(わんしゃ)。人車(じんしゃ。くるま)。力車(りきしゃ)とも呼ばれ、これを曳く車夫は俥夫とも書き、また車力(しゃりき)とも言った。
明治から大正昭和初期にかけての重要な乗り物の1つであった人力車も都市圏では昭和元年頃、地方でも昭和10年頃をピークに減少し、戦後、車両の払底(ふってい)・燃料難という事情から僅かに復活したこともあるが、現在では、主に観光地での遊覧目的に営業が行われている。
その人力車の日本での発明は諸説あり、本当のところはよくわからないが、広辞苑にも、和泉要助鈴木徳次郎、高山幸助らの発明と書かれており、又、私の蔵書週間朝日朝日百貨 「日本の歴史」106号近代1-⑦博覧会の“明治の発明品“の中にもこの3人により明治3年(1870年)に発明されたと書かれているので、どうもこの3人による共同事業であったらしい。冒頭掲載の画像は同書に掲載されていた絵(国立資料館蔵)を部分カットしたものであるが、その絵には”神田の俥屋らしい”との添え書きがあった。今観光地などで見られるものとは大分様子が違い大八車に四柱を立て屋根を付けたようなものだ。
Wikipedia によれば、和泉要助は筑前国鞍手郡平泉村生まれで、姓は「長谷川」とも表したそうだが、筑前福岡藩の藩士出水要の養子となり、のち和泉要助と名を改めたという。和泉要助は1869(明治2)年東京で西洋から入ってきた馬車を見て、それを人間が引いたらどうなるかと考え人力車を発想し、鈴木徳次郎、高山幸助らと製作。翌・1870(明治3)年4月22日(旧暦3月22日)、東京府に人力車の製造と営業の許可を得て、東京日本橋を拠点に人力車業を開業したという。
この時の条件として“人力車は華美にしないこと、事故を起こした場合には処罰する旨」”あり、この許可をもって彼らを「人力車総行司」とした。つまり、東京府は、人力車を新たに購入し営業をする場合には、この3人の人力車総行司のいずれかから許可をもらうこととしたのだ。同年、人力車の運転免許証の発行が開始されている。許可された業者の看板には「御免人力車処」と掲げられていたという。「御免」とは、旗本退屈男の「天下御免の向こう傷!」ではないが、「免許の尊敬語」であり、「お上のお許し」を言っている。
江戸時代には、荷物を運ぶだけに利用されていた車輌が、明治に入り、人が乗るための車輌としての「乗り物」が生み出されたのだが、日本では、それまで一般市民が乗る車がなかっただけに、歩きや駕籠(かご)よりも圧倒的に便利な移動手段であり、人力車の登場は爆発的人気で迎えられ、翌1871(明治4) 年には、人力車は駕籠に変わって、東京府下だけでも1万台を越え、数年後には全国的に普及した。しかし、和泉要助らは、人力車総行司となったものの、人力車普及につれ特許制度の不備も重なり専売としての権利を維持することはできず特権を失ったとようだ。
又、この年、太政官布告第265号によって、
「今般東京府下道路修繕ニ付商売所用大小ノ車取入賃銀百分ノ三ヲ以テ右入費ヘ為差出候間在府ノ諸官員及華士族卒タリ共馬車人力車所持致候者右定額ニ準ジ入費可差出事」
・・として、東京府下において、主として人力車を対象にして車税を徴収し、道路修繕費に当てることを定めている。
明治は、新政府が、欧米列強の植民地化を免れる為に強引に近代化を推進した時代であり、世界史的に見れば、日本の産業革命時代でもあった。新政府は殖産政策に力を入れ、それ故に新技術の開発の促進や役に立ちそうな事業には国なり府県なりが率先して援助を与えていた。
明治開国後、日本にはじめて欧米の特許制度を紹介したのは、福沢諭吉の「西洋事情外編」(1867年)である。しかし、専売特許条例が施行されたのは1885(明治18)年7月1日からのことである。ただし、それ以前の1871(明治4)年には、「専売略規則」(明治4年太政官布告第175号)を制定したものの、1件の出願もなく、1年で廃止されている。理由は、専売権を与えるには、発明の内容があまりにも劣悪だったことと、対応する政府組織も確りしたものが確立していなかった(申請された発明の審査する人材不足など)ためのようだ。
日本での特許制度の誕生をうながしたものとして和泉要助の人力車の発明があげられるが、人力車は明治になってから出来たものではなく、江戸末期には既に東海道を往来していたようであり、人力車の構造は、大八車のようなものであったらしいという。冒頭掲載の人力車と何処がどう違っていたのだろう? 
ひょとしたら、支柱と屋根がなかったぐらいの違いだろうか。しかし、貴族が牛車に乗る以外一切の人の乗車が禁じられていた位であるから、普通の人が乗車するという事は画期的な事であったろう。以下参考に記載の※:「専売特許条例制定の周辺」によれば、【1865(慶応元)年(丑)10月の伺書に次のようなものがあるという。
「本郷五丁目 良七店松兵衛
 右の者儀 近来御用につき道中筋通行の者多く宿々の人足引き足り兼ね 渾賃銭格別価に相成り旅人共の難儀不少候につき 駕篭の代りに小車を造り旅人を乗せ往来致し候宿々も有之候間 右に傲ひ御当地にても小車を造り旅人並諸荷物を乗せ 品川 板橋 四谷 千住 四宿往来其外等にも相用ひ候はば弁利の儀ト存奉候間……(以下略)」・・と。
そしてこれに対し町奉行は、
Γ書面伺の通り相心得 先づ車数五輛を限り製造差免し弥々便利にて差障り候筋も無之候はば其節猶ほ委細取調べ相伺ひ可巾右被仰渡奉承知候」と答えたという。
しかし江戸府内全部で5台の小車では無いに等しく、従って維新になり株(株仲間参照)も何もない状態で人力車が登場した時は、その流行は爆発的なものであった・・と。
ここでは、“和泉要助等が人力車を発明したのは明治8年8月であるが・・“・・としており、発明の年月にちがいがあるのは気になるがそれは、横に置いておいて、東京府役所は発明者等にその製造を許可し、人力車発起人並加入人にその使用を許可し、利益の一部を発明者に渡せとしたが、人力車夫が増えるに従いこの発起人会も統率する能力を失い無意味となってしまったようだ。又、この当時(明治4年)、先にも書いた「専売略規則」が布告されたが、人力車の発明はこの布告以前だったのでその対象とはならかった。以降、東京府は発明者を人力車夫の総行事にしてみたり、又金員を授けたりしたが、度重なる金員の請求と支給に手を焼いたらしく、又、当局も運用ができなかったため1873(明治6)年に和泉要助等に、金2000円の下賜金を付与して打止めとしたという。要するに人力車総行司の権限を失うかわりにその穴埋めの金を支払ったというところか・・。
「専売略規則」を廃止した1873(明治6)年には、「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」が告布され、総行司の仕事でもあった車税の取り集め(徴収)や検印などは戸長の手に移ることとなった。尚、この1875(明治8 )年2月20日 「車税規則ヲ定ム」(大政官布告第27号)を発布の上、国税を実施(税率1円)し、「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」は廃止されている。
人力車も最初の発明より、その後改良が積み重ねられ、衝撃を和らげる工夫として、座席と車輪の間にバネを入れたり、鉄輪であった車輪はゴムタイヤとなり、質的にも向上してゆくが、1870年代半ばには、東京銀座に秋葉商店を構えた秋葉大助は、幌(ほろ)や梶棒、座席の形状、車輪の泥除けなども改良し、性能を高め贅を凝らした現在見るよう人力車を考案し、1877(明治10)年上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会に人力車を出品し鳳紋章を受賞し、その多くを中国等に輸出して大きな富を得たそうだ。
しかし、同第一回内国勧業博覧会で、最優秀賞を受賞したのが、信州の臥雲辰致(がうんたつむね)がつくった紡績機械(木綿糸機械)であったが、1873(明治6)年に専売略規則が廃止されて以降、専売免許制度整備について論議はされてきたものの、当時はまだ特許制度が出来ていなかったため、同業者に模造機械をたくさん製造されてしまった。この発明は当時の他の発明品とは異なり、大変優れものであったため、地域産業の振興発展に貢献したものの、発明者にはロイヤリティーも入らず、生活は困窮を極めたそうである(以下参考の※:「第一回内国勧業博覧会出品・臥雲辰致の綿紡機復元機の設計」参照)。このように、折角立派な発明をした発明者になんの特典もなく、模倣をされ損になってしまうのをなくすために、これ以降特許制度の必要性が強く論じられるようになり、日本の本格的な特許制度の誕生をうながした。そして、1884(明治17)年に商標条例が公布されたのに続いて、翌1885(明治18)年4月18日に本格的な特許法である専売特許条例(明治18年太政官布告第7号)が公布・施行された。
明治、大正のころ、重宝された人力車であるが、「半七捕物帳」などで有名な明治の小説家、劇作家である岡本綺堂の随筆にいろいろ登場する。
「御堀端三題」の三 三宅坂には、遭難談として、“明治35年5月1日岡本綺堂が26歳の初夏の出来事として、半蔵門外の堀端を通った京橋に住む知人の家に男の児(こ)が生まれ、この五月が初節句と言うので人力車に乗って、祝物の人形をとどけに行った。その時、三宅坂上の陸軍衛戍(えいじゅ)病院の前に来かかった時、前を走っていた軍医を乗せた車夫が急転回をしたためその車と衝突し顛覆(てんぷく)。前の車の軍医殿も綺堂も地上に投げ出された。そこへその後方から外国人を乗せた二頭立の馬車が来て轢かれたと思った”・・・といったことが書かれている。又「 有喜世新聞の話」には、明治15年頃の話のなかに“ 電車や自動車はなし、自転車も極めて少ないこの時代における交通事故は、馬車と人力車にきまっていた。馬車もさのみ多くはなかったが、人力車が衝突したとか人力車に轢かれたとかいう事故は、毎日ほとんど絶えなかった。”とも書いている(以下参考の※:「青空文庫:作家別作品リスト:No.82作家名: 岡本 綺堂」参照)。
まだ、今の時代のように車道が整備されていない中、人力車や馬車が数多く走り回ればそりゃ~人力車の事故も多かったことだろう。
一世を風靡した人力車も、明治中期から自転車が普及していき、又、1882(明治15)年に「東京馬車鉄道」が最初の馬車鉄道として新橋と日本橋の間を結んで営業を開始したのを機に馬車が普及し、日本各地で広まり、自動車やバスが普及されるまで存続した。1903年(明治36年)8月22日には、東京馬車鉄道が動力を馬から電気に改めることで東京市内に初めて路面電車(東京電車鉄道【東電】)を誕生させ、品川 - 新橋間を開業した。
東京市内の人力車夫は、この電車鉄道の延長と共に自分等の営業の範囲を狭められ、廃業に追い込まれる者も出てきた。彼らは10月4日、各区の組合で集会を開き、車税の減税を府会議員らに歎願する運動を始めたことが1903(明治36年)年10月16日付万朝報で報じられている。
又、「7月1日から水戸市内に民営乗合自動車が開通したが、これは死活問題だと水戸駅構内の人力車夫が騒ぎ出し、4日には朝から120台の車を休んで一杯機嫌の協議会を開き、書き入れ時の夏だけでも乗合の運転を休止せよとバス経営者に交渉をしたが折り合わず、百余人が店に押しかけて厳談に及んだ。水戸署長の調停で一応納まったが、夜になってますます気勢が上り、水戸署への陳情の帰り、空車を引いてきた男と口論になり、袋叩きにして瀕死の重傷を負わせる事件まで起こしたことが7月6日東京朝日新聞によって報じられているという(朝日クロニクル「週間20世紀」)。随分、荒っぽい話だが、先に、1873(明治6)年に、「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」が告布され、車税の徴収などが戸長の手に移ることとなった旨書いたが、この規則に書かれている「僕碑」(ぼくひ)は、「下男」などをさしていうが、「碑」という用語は、身分の低いことや卑しいことを指しており、今で言う差別用語の1つである。何故、人力車の車夫などを「僕碑」などと呼んでいるのだろう。


※参考は、東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(Ⅱ)に記載しています。

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東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(Ⅱ)

2010-03-22 | 歴史
明治20年代初頭、鉄道、紡績、鉱山、重工業などの殖産企業が勃興するが、飛躍的な日本の資本主義化の礎になったのが、過酷な労働ときびしい階層制的低賃金体系による労働者の酷使にあったことは忘れてはならない。当時の日本の主力輸出産業である紡績産業に農村から大量に狩り出した婦女子労働者の酷使があったことついては「女工哀史」でよく知られているところであるが、三井や三池それ以前の、元自民党総裁であり第92代総理大臣であった麻生太郎の曽祖父・麻生 太吉の創業した麻生炭鉱などの炭鉱労働の過酷さも言語を絶するものであったことが知られている。
江戸後期からの農村構造の変質・崩壊を背景に、没落小農・貧農・小作人農の口減らしとして、喰わんが為のやむにやまれぬ手段としてそのような劣悪な労働条件で働かされていたのであった。当時の農民労働者の悲惨な就労の状態は何も彼らだけの特殊なものではなかった。明治の日本の産業革命に伴なって、資本主義化が進み、都市、特に東京・大阪などの大都市に労働人口が集中していった。そうした農村部からの流入人口が直ぐに工場労働者として処遇されたわけではない。彼らは、いわば生きるために無理矢理流出してきたので都市の下層社会に集住せざるを得なかった。
当時の民権新聞として鳴らした『朝野新聞』(ちょうやしんぶん。Yahoo!百科事典参照)の1886(明治19)年3月25日から同年4月8日まで8回にわたって連載された記事に「東京府下貧民の真況」があり、冒頭で「東京府下にては細民..の飢凍を嘆くもの、日々に増すとこそ聞け減ると云ふことの嘗て耳に入らず」と述べたあとすぐに、「貧民..の最も多く巣居を構へたるは、四ツ谷鮫ヶ橋(さめがばし)町若しくは麻布谷町(現:東京都港区にあった谷町)及び箪笥町(たんすまち。新宿区)等なり」と記している。この記事では下層の貧しい人々「細民」を「貧民」として把握しており、その「「貧民」の職業は人力車挽(ひき)がもっとも多く、それに次いで左官や土方などの手伝..がおり、最底辺に紙屑拾い、乞食が存在するとされているようだ。そして、ここでは、工場労働者はまったく存在しないことはもちろん、左官(職人)や土方が「貧民」とは区別されているという(以下参考の※:「【PDF)】産業革命期日本における重工業大経営労働者の「都市下層民」的性格について(下)」参照)。
松原五郎の『最暗黒の東京』(明治30年刊)や、横山源之助『日本の下層社会』(明治32年刊)もそうした地域を貧民窟(スラム(slum))と名付けた。横山は、当時の大貧民窟といわれた四谷鮫ヶ橋・下谷万年町(上野駅のそば)・芝新網町(港区JR浜松町駅近く)の様子をルポルタージュし、貧民としかいいようのない彼らの労働・生活状態を明らかにしている。その基本的な性格は日露戦争(1904=明治37年2月6日 ~1905年=明治38年9月5日)後も引き続いていたことは、1911(明治44)年、以降に内務省地方局が調査・発表した『細民調査統計表』(明治44年の主要調査対象は東京・下谷・浅草地域)を見れば、判別し、それによると、都市下層民(細民=貧民)の住居は平屋建て普通長屋の4畳半1室または3畳1室で、夫婦及び家族1~2人で居住していた。そして、都市雑業層と呼ばれる彼らの収入は女房の稼ぎを含めても日清戦争(1894=明治27年7月~1895=明治28年4月)後期と同水準のその日暮らしで松原や、横山が観察したように『残飯』を相変わらず必要としたという。冒頭の画像は、東京四谷の南側低地にあったという鮫ケ橋の貧民窟で、風俗画報明治36年10月25日号からのもの(週間朝日百科「日本の歴史」108号より)。
また、以下参考の※:「最暗黒の東京・下層社会を行く」には、「朝野新聞」に掲載された記事の中で、人力車夫の生活ぶりについて次のように書かれていることが紹介されている。
「50過ぎの人力車の車夫。不景気と駅への立ち入り制限で、朝から夜の12時まで働くも、収入は1日2銭のみ。1日5銭の借車代も払えない。妻は刷毛(はけ)作りを内職にしていて、1日5~6銭の手間賃収入。これではお粥もすすれない。」・・・・・・と。
馬車を引く馬の代わりに人が車を引く。この単純で原初的な都市内交通機関である人力車は、技術も不要であり、貧民街に住む下層民には手頃な職業であり、その大部分は車を借りての営業形態であったため、東京では日清戦争期に約4万人余りにまで増加したという。今のアジアでも最も貧しい人達の代表的な職業であるが、当時の日本も同じ状況で、車夫こそ当時の女工と並んで明治の低賃金労働の代表だったらしい。そのうえ、貧乏人に対する差別意識は、現在よりはるかに強く、乞食や細民は人間でないかのごとくに扱われていた。だから、僕碑」(ぼくひ)などと言われていたのだ。
先にあげた地域については、明治初期から中期にかけてスラムといわれた多くの地域から、代表として抜き出したものにすぎず、横山は、東京の下層社会25年の変化を、「貧街十五年間の移動」(明治45年)で 『…十数年前までは、東京の貧民窟といえば、「万年町」「鮫ヶ橋」「新網」の三ヶ処にトドメを指したものだが今はそうでない、比較的市の中央を離れて、本所、深川の場末に移った。豊島、葛飾、荏原等のに襤褸(ぼろ)の世界は形作られている』と書いている。
市街地の区画整理も行なわれ、同時に種々の取締も行なわれていくが、それで貧民窟=都市下層集住地がなくなったわけではなく、“あらたな貧民窟=都市下層集住地が、長屋と共に、下谷、浅草、本所、深川や、その周辺の入谷、日暮里、巣鴨、千住、大塚、はてまた新宿、豊島、葛飾などの郊外にも瞬く間に増殖して行った”という(以下参考の※:「笠井和明著作選」底辺下層に組み込まれた労働者がたどる最下層の還流点参照)。下層社会の女性の救済を訴える立場から、横山は、晩年の樋口一葉のもとを何度か訪ね、親交を結んだというが、樋口一葉の住んでいたことのある下谷龍泉寺町のような小規模な細民街まであげると、その合計はじつに70数カ所。下町から山手まで万遍なくスラムが見うけられたというのが明治中期の東京の実相だったようだ。
明治になっての居留地の外国人住宅や銀座煉瓦街の景観は,住民にとって、幕末開港より20余年後に出現した日本のなかの“異国”であり、文明開化の象徴でもあったがそれは当時の日本の表の顔であった。
今は京都の町などの観光用の人力車を、若い人達が観光客相手に引いており、その姿がカッコイイ・・・と見られる。明治時代とは雲泥の差、本当に今は良い時代になったものだ。
人力車夫と言えば、私など、福岡県小倉(現在の北九州市)で、荒くれ者で評判だった人力車夫・「富島松五郎(通称無法松)」と、そのよき友人となった矢先、急病死した陸軍軍人・吉岡の遺族(未亡人・良子と幼い息子・敏雄)との交流をえがいた映画「無法松の一生」を思い浮かべる。1942 (昭和17)年、文学座が舞台化したあと、翌年には、映画「無法松の一生」が主演:阪東妻三郎【富島松五郎】で公開され人気を博した。映画は4回作成されているが、特に有名なのは脚本伊丹万作、監督:稲垣浩によるこの作品とこの戦前の作品が内務省による検閲により松五郎が未亡人に想いを打ち明けるシーンが10分カットされたためそのリメイク版として、同コンビで、戦後の1958(昭和33)年に作られた三船敏郎主演によるものであろう。
映画は、1897(明治30)年、九州小倉の古船場に博奕で故郷を追われていた人力車夫の富島松五郎が、昔ながらの“無法松"で舞戻ってきて、芝居小屋へ同僚の熊吉と行き、桝席の中で酒のつまみに炭でニンニクを焼いていて人に迷惑をけ大混乱となるが、そこに現れた地元を取り仕切る侠客の結城重蔵に仲裁され侘びを入れるところから始まる。その後、友人となった矢先、急病死した陸軍軍人・吉岡の遺族であるか弱い(未亡人・良子と幼い息子・敏雄)の将来を思い、身分差による己の分を弁(わきま)えながらも、無私の献身を行う無法松と、幼少時は無法松を慕うも長じて(自身と松五郎の社会的関係を外部の視点で認識するようになったことで)齟齬(そご)が生じ無法松と距離を置いてしまう敏雄、それでも無法松を見守り感謝の意を表し続けてきた良子との交流と運命的別離・悲しい最後の場面などが描かれている。
この映画のラスト近くで、無法松が夢うつつの中で過去を振り返るシーンが出てくる。映像としては、無法松の顔や、人力車の走行シーンや、祭りの情景などが、走馬灯のように現れては消える。時の流れを人力車の車輪の大写しで効果的に見せた。
侠客の結城が死んだ松五郎の柳行李の中を調べると、吉岡家からもらった数々のご祝儀の品々が手をつけられずに保管されていた。その奥底にあった敏雄と夫人宛の貯金通帳には500円も残されていた。「なんと言う奴だあの男は・・・あの暮らしのなかで・・・」 熊吉は言った。「あいつはそういう男だったんです」
当時の貧民の代表とまでされる人力車の俥夫の悲しいまでに美しい愛。愛・愛と騒いでいる昨今の人達にこのような愛・・・は存在するのだろうか・・・。今の人達の愛とはどういうものをいっているのだろうか?・・とふと考えてしまう。
以下で、夏休みに小倉の祇園太鼓を聞きたいという大学の先生を連れて帰ってきた敏雄と久しぶりに会い、敏雄とその先生を案内しながら祇園太鼓の解説をしていた松五郎が、2人の為に太鼓を打つラストシーン。この映画の名場面が以下で見れる。ちょっと、名画を思い出してみますか・・・。
無法松の一生
http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/muhoumatu.htm
(画像左:東京・鮫ケ橋の貧民窟。風俗画報明治36年10月25日号から。国立国会図書館蔵。、週間朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
※:専売特許条例制定の周辺
http://t4tomita.lolipop.jp/ip/izen.html
※:第一回内国勧業博覧会出品・臥雲辰致の綿紡機復元機の設計
http://www.tcp-ip.or.jp/~ishida96/ih-aichi/report/menboki_fukugen.html
※:青空文庫:作家別作品リスト:No.82作家名: 岡本 綺堂
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person82.html#sakuhin_list_1
※:ジェトロ - 日本貿易振興機構 アジア経済研究所
http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_x1_d02.html
【PDF)】産業革命期日本における重工業大経営労働者の「都市下層民」的性格について(下)
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/569/569-09.pdf
※:笠井和明著作選
http://www.d9.dion.ne.jp/~rojuku/kasaiFolder/kasai.html
※:東 京 街 歩 き:鮫河橋
http://homepage2.nifty.com/aquarian/Tokyo/Samegabashi/Tky030122.htm
※:最暗黒の東京・下層社会を行く
http://www.tanken.com/hinminkutu.html
※:最暗黒の東京【本紹介】
http://www.rin-5.net/001-250/065-saiankoku-tokyo.htm
日本の自転車税の歴史
http://www.cycle-info.bpaj.or.jp/japanese/history/topix01.htm
自転車の歴史探訪
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/rekishi/rekishi17.html
成島柳北と朝野新聞:近代ジャーナリズムの草分け (壺齋閑話)
http://blog.hix05.com/blog/2008/10/post_792.html
自動車-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A
特許 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E8%A8%B1
西洋事情 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E4%BA%8B%E6%83%85
旗本退屈男- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E6%9C%AC%E9%80%80%E5%B1%88%E7%94%B7
株仲間 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%AA%E4%BB%B2%E9%96%93
戸長- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E9%95%B7
女工哀史 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%B7%A5%E5%93%80%E5%8F%B2
麻生鉱業 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E9%89%B1%E6%A5%AD
横山源之助 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E6%BA%90%E4%B9%8B%E5%8A%A9
小倉祇園太鼓 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%A4%AA%E9%BC%93

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日本住宅公団が、大阪・堺市金岡団地等で初のアパート入居者公募を開始(1)

2010-03-19 | 歴史
03月19日日本住宅公団が、大阪・堺市金岡団地等で初のアパート入居者公募を開始した。
日本住宅公団というのは、かつて存在した特殊法人で、現在の都市再生機構の前身の一つである。
1955(昭和30)年、7月8日に日本住宅公団法が公布され、25日に、日本住宅公団が設立登記された。その後、同公団は、住宅に困窮する勤労者のために住宅及び宅地の供給をおこなってきた。
日本住宅公団が設立された、1955(昭和30)年と言えば、先ず政治的には、1951(昭和26)年に、サンフランシスコ講和条約を巡って、賛成派(右派)と反対派(左派)に分裂していた社会党が、この年(1955年)の10月、1951(昭和26)年以来、4年ぶりに分裂状態を解消 した(社会党再統一)。
一方、戦後直後から社会主義勢力の台頭を危惧していた保守勢力は、戦前の政治潮流のしがらみや、吉田(吉田茂)対鳩山(鳩山 一郎)に見られるように、戦後発生した対立によって、乱れに乱れていたが、この社会党再統一に刺激され、当時の二大保守政党である吉田率いる自由党と、それに対抗するために出来た鳩山率いる日本民主党が11月15日、合併し、今日ある自由民主党を結成(保守合同)。唯一の保守政党による単独政権が誕生した。いわゆる「55年体制」の発足した年であり、日本の戦後政治にとっては画期的な年であった。このことにより、戦後日本が、曲がりなりにも二大政党制に転換したのであるが、その後、社会党は自民党に変わる政権政党には育たなかった。結局、自民党が、以後、殆どの総選挙で安定多数を確保し長期政権を維持し、財界や官僚との一体化を進め、支配体制を強化した。そのため、本来ニ大政党制に転換したことを意味するはずであった、55年体制と言う言葉も、自民党の長期支配や政・財・官・業の一体化を意味する言葉となってしまったのは残念なことである。ただ、この体制下で、その後、日本の経済の高度成長が効率的に推進され、国民生活が向上してきたことは否定できない。
一方、戦後10年を迎えた日本の経済は、この年の後半から、高度経済成長の始まりとなった神武景気の幕開けの年でもあった。
1956(昭和31)年に、経済企画庁が「日本経済の成長と近代化」を副題とする『経済白書』を発表。その結語の「もはや戦後ではない」という言葉が流行語ともなった。
それは、第二次世界大戦における敗北による荒廃や混乱も、1950年代の朝鮮戦争特需により、1955年(昭和30)には、最も経済水準をよく示す指標であるといわれる1人当りの実質国民総生産(GNP)が戦前を越えた。つまり、日本の経済にとって、戦後の復興期は終わったという判断が示されたのである。
戦後の日本は、疲弊した国内産業の建て直しの為に、国策として石炭の増産を実施し、鉄鋼業や石炭鉱業などに重点的に資金を配分する(傾斜生産方式)等を採用し、経済の再建に努めたが、日米安全保障条約の締結により、日本は国土の防衛をアメリカに一任出来るようになり、高コストの軍事費(防衛費)を抑え経済政策に優先的に配分できるようになったことも、経済成長の大きな要因ではあった。そんな経済の体質も近代化によって変わっていく。経済の近代化は何よりも旺盛な設備投資とともに推進されるイノベーションによって推進された。『経済白書』はそれを「技術革新」と呼んだ。
日本は戦争により、欧米諸国との技術水準のギャップが拡大していたことから、導入可能な技術革新の種が豊富に存在していたことから、欧米からの生産技術の導入し、また、それだけでなくその技術を利用した新製品の開発・普及と共に生活スタイルの革新(欧米化)も勧めた。
1950年代の生産技術の革新は目覚しく鉄鋼、電力、造船、電気、精密機器、自動車石油化学など各産業で新製品の開発が進んだ。中でも日本人に計り知れない影響を与えたのはテレビのだろう。テレビは急速に変化してゆく社会に向かって開かれた「情報の窓」となり、一家団欒の中心に位置することで、当時は、高度経済成長の家族の連帯を支えるという一面もあった。この日本の経済成長を支えたのが、良質で安い労働力、余剰農業労働力といった人的資源が蓄積されていたことであった。
又、都市の環境整備も進められていたので、当時どこへ行っても工事場だらけであったが、工場の建設だけでなく消費の順調な拡大に支えられ新しいビルや商店も増え、東京の銀座も戦後10年を経過して完全に甦っていた。
しかし、そのような目覚しい経済の発展の中、当時は都市への人口流入が急速に進み、都市部の住宅が極端に不足していたなか、誕生間もない日本住宅公団は、高層団地の建設に全力をあげていた。そして、日本住宅公団が初の入居者募集を開始したのが、1956(昭和31)年3月19日のことであった。千葉の稲下団地(普通分譲住宅)と大阪の金剛・東長居両団地(賃貸住宅)である。
入居第1号の賃貸住宅である金岡団地(大阪・堺市)の家賃は2DK(6畳と4畳半に台所)で、月4,600円、入居資格は月収2万5000円以上。当時の課長クラスの収入が必要だった。シリンダー錠、ステンレス流し台、洋式トイレ、ガス風呂など近代的な設備を備えていた。当時はまだ、食べる部屋と寝る部屋を分けたDKに加え、シリンダー錠でプライバシーも守られたニュースタイルの「団地」が輝いて見えた時代だった。入居第1号の金岡団地の今と昔の変貌は以下で見れる。
YOMIURI ONLIN: いまむかし写真物語No.08 金岡団地(堺市)
http://osaka.yomiuri.co.jp/55/20070728ka0a.htm
5月1日には千葉稲毛団地で入居が開始される。又、東京・葛飾区青戸でも4階建て38棟の建設が急ピッチで、夜間の突貫工事になっていた。青戸団地の入居者を募集したのは同年7月であり、11月には完成し、直ちに入居が開始された(冒頭掲載の写真は青戸団地建設の様子。4月のもの。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)。その後、ほとんど人家の無い地域が団地建設による人口増加に伴い、住環境が整備されていった。
日本住宅公団により、1960年代には、首都圏や京阪神圏の郊外で多数の集合住宅を集積した団地が建設されるとともに、広域の大規模な都市基盤開発を伴うニュータウンの計画・建設などに主体的役割を担った。ニュータウン開発の手法には大きく分けて国の機関や地方自治体が法的根拠(新住宅市街地開発法や土地区画整理事業法)に基づいてマスタープランを起案し自らがデベロッパーとなって建設するものと、民間デベロッパーが任意に建設するものがある。そして、1970年代には都市再開発事業も手がけるようになった。
公的機関が開発した大規模ニュータウンは長期に渡り広域広大な造成を伴ってインフラストラクチャー等の都市基盤整備工事を実施し、マスタープランに基づいて住宅を基軸に複合多機能都市として建設される場合が多い。三大都市圏での代表例としては、東京都市圏の「多摩ニュータウン(東京・多摩地域。国内最大規模)」「港北ニュータウン(横浜市都筑区茅ヶ崎を中心)」「千葉ニュータウン(千葉県内)」「竜ヶ崎ニュータウン(茨城県竜ヶ崎市)」「常総ニュータウン(茨城県守谷市、つくばみらい市、取手市、常総市)」、大阪都市圏の「千里ニュータウン(大阪府,日本国内初の大型ニュータウン)」「泉北ニュータウン>(大阪府堺市南区など)」、名古屋都市圏の「高蔵寺ニュータウン(愛知県春日井市東部)」等がある(詳細は「日本のニュータウン」を参照)。
しかし初期の公団は築年数の経過と共に老躯化の進行と共に、時代に適合しない建物も増えて行き、また、高度成長期の中核的労働力である比較的年齢層の近い核家族世帯が短期間に集中して入居したため、初期入居世帯の世帯主の高齢化も懸念されるようになった。1981(昭和56)年10月1日、日本住宅公団は、住宅・都市整備公団法により解散。宅地開発公団と統合され、業務は住宅・都市整備公団に承継された。経済も安定期に入って住宅の需要が減少したことに伴い、建設する住宅も量から質への転換を図ることが必要となり、良質な住宅の新規建設、既存住宅の改築などをしてより住み易い環境を提供するなど都市地域の居住環境が良好な公団住宅や宅地の大規模な供給をするほか、市街地開発事業を目的とするようになった。しかし、住宅事情を改善するために設立されたのにもかかわらず、以前は割安物件として人気のあった公団住宅もバブル景気崩壊後は、分譲価格や家賃を高値で維持したために、公団住宅(分譲マンション等)の平均価格が民間の平均価格を上回る状況となってしまった。そのため結局多数の売れ残り分譲物件を大幅に値下げすることになり、住宅都市整備公団の財政事情は一気に悪化し、分譲事業も賃貸事業も不振に陥り事業見直しの必要に迫られ、結局法律改正による廃止が決定し、1999(平成11)年10月、新法人である都市基盤整備公団に引き継がれた後、2004(平成16)年7月より都市再生機構(略称:都市機構またはUR)へ移管された。

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日本住宅公団が、大阪・堺市金岡団地等で初のアパート入居者公募を開始(2)

2010-03-19 | 歴史
1999(平成11)年の時点で政府からの莫大な財投資金(財政投融資)と政府補助金に支えられている住都公団が残した借入金は約14兆円あり、その年間の利払い額は、約7600億円にも上っていたようだ。この時点ですでに経営破綻した状態であり、1980年代には、家不足が解消され同公団などの役割は終えており、存続させる必要もなくなっていたはずの住宅・都市整備公団が、なぜ都市基盤整備公団として復活したのか・・・?
この都市再生機構は、野党になる前の自民党・渡辺喜美行革担当大臣から独立行政法人改革の一環として民営化を迫っていたところである。
都市再生機構はニュータウン開発の失敗などで、売れ残った土地の地価が下落し、評価減によって、2004年~2006年時点で、計3兆1393億円もの巨額の損失を計上していたという。そして、借金は増え続け、2006(平成16)年度末時点では、14兆7000億円の借金を抱え、毎年1500億円の税金が投入されているという。その税金も、機構から天下り会社に随意契約という形で安定的に分配されており、公団自体が巨額の赤字を出している一方で子会社の方は黒字なのだとか。何のことはない、公団総裁、ほか全役員16名中11名を天下り官僚が占め、公団の赤字にもかかわらず、特殊法人の中でもトップクラスの高給を受け取っているのだという。天下りは中央省庁から公団へのルートだけにとどまらず、その先の公団の子会社等の関連会社へと続いており、公団出資の23社では役員の4割を天下りが占め、売上高の半分は公団からという(毎日新聞平成9年1月10日)。以下参考の※:「日本敷金鑑定協会・住宅都市整備公団」や※2「インターネット新聞JANJAN> 政治 > 改正建築基準法の影響とその背景(その2)」等参照されるとよい。ま~、お役人にとっては、国民のための快適な住環境整備といった立派な名目のもとで、どうしても、このような機構を作っておかないと困るのだろう。公団住宅の組織自体はいろいろ変わっているものの実態は依然として変わっていないということだ。
かって戦後の日本の保守ニ大政党のリーダである吉田茂対鳩山一郎が対決していたとき、1955(昭和30)年に、鳩山 一郎が保守合同を成し遂げ、現在の自民党を誕生させ、その自民党はその府後、政・官・財・業癒着の元自民党一党独裁政治を築き上げてたが、その間、官僚は官僚で、政治家や世間の目を盗んで、こっそりと自分達の都合の良い勝手制度を作り上げてきたということだ。
政治の方では、そんな独裁的な自民党もいよいよ末期症状を示すようになり、小泉内閣以降の政権は、小さな政府路線を目指す構造改革の負の部分に苦しむことになる。そして、本来地盤であった地方は、小さな政府路線への反発から自民党離れが進み、年金記録問題や閣僚のスキャンダルもあって、第21回参議院議員通常選挙では民主党に惨敗、結党以来初めて参議院で第1党から転落。衆議院と参議院で多数派が異なる構図になった(ねじれ国会)ことでその後、与野党の対立が激化し、政策の決定、実行のスピードが遅くなった。
これにより首相の指導力も著しく低下し、総理総裁を世襲議員である安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と国民の審判も受けずにたらい回しのような形で引き継がれた。そんな形で総理になった吉田茂の孫こと麻生太郎氏は、総理総裁就任後の度重なる失言や漢字の読み違いなどで子供や外国のマスメディアからさえも馬鹿にされるくらいで、国民にはいたって人気がなく、又、その後の自民党の閣僚の失態やスキャンダルも相次ぎ、自民党の人気そのものも低下する一方。とうとう任期満了前の・昨・2009(平成21)年7月21日、麻生内閣は、追い込まれる形で渋々、衆議院解散をした。
そして、同年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙では、吉田茂の孫・麻生太郎自民党対鳩山 一郎の孫・鳩山由紀夫引き入る(蔭の実力者は小沢一郎だが)民主党といった形での戦いが繰り広げられたが、自民党は、首相経験者や派閥領袖を含む大物議員が次々と落選する大敗を喫し、獲得議席数は119議席に止まり、2度目の野党転落となった。自民党が衆議院で第一党を失ったのは、結党以来初めてである。一方の民主党は、当初の予想をはるかに超え絶対安定多数を超える308議席を確保した。
選挙に勝つための国民の人気取り政策(ばら撒き政策)的なことを、マニフェストに入れ、選挙に勝ち、野党から政権与党の党首、そして、総裁となった鳩山由紀夫氏は、自らのマニフェストでうたったばら撒き政策的な公約に自縄自縛となり、世界一の財政赤字を抱えながら、子供手当の支給だとか、高速道路の無料化などといった、甘い汁をばら撒き、国民の関心を得て次の参議院選挙で勝利しようと形振り構わずに必死になっている。
国民は皆が皆馬鹿ではない。まともな判断の出来る人達は、これ以上財政赤字を増やし、孫子の代に付けを先送りしてまで、目先の利益を考えているわけではない。今回の選挙でも多くの国民は、民主党のマニフェストに書かれているような人気取り的な公約の実現をしてもらいたくて、民主党に票を投じたのではない。自民党のような政・財・官・業癒着の構造を断ち切り、政治改革・行政改革を実施して、税金の無駄遣いを徹底的に排除し、年金や医療などの基礎的なことで心配をせずに老後を安心して暮らせるような社会の実現を目指してほしいから、政権を委ねたのである。だから、設立当時はそれなりの意義はあったとしても、既に、もう、用済みとなったつまらぬ団体や機構は、民間すべてなくすか、民間に任せるものは任せて、無駄な税金を投入しないようにすると共に、天下りの排除を即止めてほしいものだ。もし、国民の期待を裏切るようなことがあれば、政権は続かなくなるだろう。
(画像は、東京・葛飾区青戸の夜間の突貫工事がつ透けられている建設風景アサヒクロニクル「週間20世紀」1956年より)。

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参考:
※:YOMIURI ONLIN: いまむかし写真物語No.08 金岡団地(堺市)
http://osaka.yomiuri.co.jp/55/20070728ka0a.htm
※:日本敷金鑑定協会・住宅都市整備公団
http://www.j2t.jp/category/1185482.html
※:インターネット新聞JANJAN> 政治 > 改正建築基準法の影響とその背景(その2)
http://www.news.janjan.jp/government/0712/0712096907/1.php
※:MyNewsJapan第二の道路公団・UR 3兆円損失の責任とらず、税金無駄遣い続く
http://www.mynewsjapan.com/reports/719
民主党HPニュース:政府の「都市基盤整備公団法案」に対案 住都公団の業務を賃貸住宅分野に限定(1999/04/27)
http://www.dpj.or.jp/news/?num=7764
特殊法人監視機構
http://www.nomuralaw.com/newhtml/ikenteigen/ikenteigen2.html
UR都市機構
http://www.ur-net.go.jp/
日本住宅公団-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BD%8F%E5%AE%85%E5%85%AC%E5%9B%A3
金剛ニュータウン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3
長居 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%85
青戸- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%88%B8
バブル景気 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB%E6%99%AF%E6%B0%97
大卒初任給の推移【 WEB金融新聞 】
http://www.777money.com/torivia/daisotu_syoninkyu.htm

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JR宇高連絡船(宇野~高松)が廃止となった日

2010-03-16 | 歴史
1991(平成3)年の今日・3月16日、JR宇高連絡船(宇野~高松)が正式に廃止され、名実ともに81年の航路の歴史に幕を閉じた日である。
宇高連絡船とは、日本国有鉄道(国鉄)および、国鉄分割民営化によって1987(昭和62)年4月1日に発足した四国旅客鉄道(JR四国)により継承されていた鉄道連絡船のことであり、岡山県玉野市の宇野線宇野駅と香川県高松市の予讃線高徳線高松駅との間を運航していた。
鉄道連絡船とは、鉄道輸送において、本土・離島連絡など海洋、湖沼などの水面によって隔絶され鉄道軌道を設置することが困難である場合に、両端を連絡する目的で当該水面上に設けられた航路に就航する船、また、日本では、旧国鉄が運航した航路全般を指すことが多い。
四国島内での最初の鉄道は1888(明治21)年に伊予鉄道が松山(現松山市)-三津間で開業。続いて、翌・1889(明治22)年に、讃岐鉄道が丸亀-琴平間を開業した。これが現在のJR四国線の始まりとなる。その頃、現在の山陽本線となる路線を建設していた山陽鉄道(1887年設立)が、1888(明治21)年11月1日に兵庫 - 明石間を開通した後、12月23日には、明石 - 姫路間開通。翌・1889(明治22)年9月1日に神戸 - 兵庫間を開通させた後、神戸 から西へ西へと延伸し、1901(明治34)年5月27日には、山口県の馬関(現在の下関)までを開通し、神戸- 馬関間の路線が全通している。その間、1891(明治24)年3月18日には岡山駅が開業していた。
讃岐鉄道は1897(明治30)年に高松まで延長。1900(明治33)年、4月22日高松築港落成式が挙行されている。同4月、讃岐汽船株式会社が設立され、航路は苗羽村(香川県小豆郡にあった村)を起点に岡山市京橋・小豆島下村・池田・土庄・豊島・高松港・岡山県犬島・九幡・三幡・岡山市京橋を船玉丸(72トン)が就航(以下参考の※:地域の本棚参照)すると、のちの宇高連絡船から瀬戸大橋線(正式名称:本四備讃線)に繋がる本四間連絡の始まりとなる岡山-高松間の讃岐汽船航路との連絡運輸を開始した。ただし、当初は鉄道会社による船舶運航はない。
1903(明治36)年3月 、山陽鉄道は、山陽汽船株式会社を設立。讃岐鉄道株式会社と共同で岡山-高松間に船車連絡輸送営業を開始した。これが、岡山-高松間の連絡船の始まりである。 又、山陽鉄道は、1904(明治37)年12月には讃岐鉄道から事業譲渡を受け(併合)、営業範囲を拡大。この時点でこの航路の計画を立てていたが、実際に、実現したのは1906(明治39)年、鉄道国有法に基づき山陽鉄道が、国有化され、1910(明治43)年6月12日 、宇野線 (岡山 - 宇野間)が開業し、岡山~高松の航路と尾道~多度津の航路を統合して宇高連絡船の運航が開始されてからである。
以後、宇高連絡船は、本州と四国を結ぶ幹線交通路として重用されてきた。そして、1972年(昭和47年)3月15日に「ひかりは西へ」のキャッチフレーズのもと山陽新幹線が岡山駅まで開業したことにより、利用者も増え、同年11月8日からは急行便としてホーバークラフトが運航され、さらに1985(平成7)年末からは、多客期などの臨時急行便として高速艇も運航された。
そして、1921(大正10)年10月10日には、貨車の鉄道車両航送が始まり、1950(昭和25)年10月1日からは、大阪駅から松山駅・須崎駅(高知県須崎市にある土讃線の駅)間に準急列車を設定。宇高連絡船では客車を積み込んで航送(客車の車両航送)も開始され、本州と四国を結ぶ大動脈として日夜活躍を続けた。
しかし、1954(昭和29)年の台風15号の暴風雨をついて出向した青函連絡船・洞爺丸の座礁・転覆事故(洞爺丸事故参照)、その1年後の1955(昭和30)年5月11日の高松港を出向した国鉄宇高連絡線の紫雲丸が濃霧の中、貨物航送中の第三宇高丸と衝突し転覆、修学旅行中の中学生ら168人が犠牲(紫雲丸事故参照)になるという2つの海難事故(いずれも・国鉄戦後五大事故の1つに数えられる)
をきっかけに、本四架橋(本州四国連絡橋)の構想が具現化していった。また、この事故をきっかけに客車の航送が中止された。
1975(昭和50)年3月には、山陽新幹線が博多駅まで全線開業すると、旅客が四国から九州指向に変わってゆくとともに、三原や広島などから民間の高速船で松山方面へ渡る新たな四国連絡ルートを浮上させることとり、高速船以外の旅客数が激減した。そして、1978(昭和53)年に、本四連絡橋児島坂出ルート(通称:瀬戸大橋の建設が始まり、1987(昭和62)年4月には、国鉄は分割民営され、宇高航路は四国旅客鉄道(JR四国)に運営が引き継がれた。そして翌・1988(昭和63)年4月10日に瀬戸大橋が開業。これが宇高航路の運行に止(とど)めを刺した。瀬戸大橋は国鉄(JR四国 本四備讃線)と道路(瀬戸中央自動車道)の併用橋となっており、列車でも車でも本四間の移動が可能となり、前日限りで普通便とホーバー便の運行は廃止され、客載車両渡船「伊予丸」「土佐丸」「阿波丸」と、ホーバークラフト「とびうお」は売却された。「讃岐丸」は航路廃止後改装され、JR四国の瀬戸内海の周遊航路で観光船として利用されることになったが、1996年には観光船からも引退しインドネシアの船会社にカーフェリー用として売却されたようだ。ただ、宇野周辺の利用者のためもあり、共同汽船よりリースしていた高速艇「しおかぜ」1隻のみが運航されていたが、それも瀬戸大橋線の利便性の良さから、乗客は極端に減って、2年後の1990(平成2)年3月21日には運航を休止し、翌1991(平成3)年の今日・3月16日、JR四国より運輸省に、宇高航路自体を正式に廃止の旨届け出がされ、これにより、山陽鉄道が岡山-高松間に鉄道連絡船を運航してから88年、国鉄になって81年の長い航路の歴史に幕を閉じた。
なお、瀬戸大橋の通行料が高額であったことなどの事情から、宇高連絡船と並行して運航していた他の民間会社(四国フェリー宇高国道フェリー)の宇高航路は、瀬戸大橋の道路の通行料が高いことなどから今でもトラックドライバーなどから愛用され存続してきた。
その後、1998(平成10)年4月5日に、世界最長の吊り橋明石海峡大橋開通により、神戸・鳴門ルート( 神戸淡路鳴門自動車道)が全面開通。その翌・1999(平成11)年5月1日には、来島海峡大橋、多々羅大橋、新尾道大橋が開通し、尾道・今治ルート(通称:瀬戸内しまなみ海道。西瀬戸自動車道)が全面開通。これによって本州と四国間の全3ルートがすべて開通したが、どの橋でも自動車の交通量は当初の見込みを下回っており、また、期待された「架橋効果」を四国にもたらすまでにはいたらず、「世紀の大事業」も今はどの程度になっているか知らないが、当時は年間数十億もの維持費に泣かされるお荷物状態となっていた。特に、最後の2つ神戸・鳴門ルートや尾道・今治ルートなどは、予想を下回ったというよりも、ももともとの計画があるから造ったといった感じの工事であり、ここのところ民主党の自動仕分けなどで問題となっているものと同様の親方日の丸的な採算度外視に建設されたものであった。明石海峡大橋開通によって、本州と淡路島を結ぶフェリも次々と廃止されていったが、高松-宇野区間を運航するフェリー3社のうち、高松市の会社四国フェリーと共同運航していた岡山県の津国汽船が、昨・2009(平成21)年4月に利用客減少に歯止めが効かない中、瀬戸大橋の高速道路料金の大幅割引などによる収益悪化を理由に撤退していたが、2010(平成22)年2月12日、宇高航路の他の2社・国道フェリーと四国フェリーも同年3月26日限りで高松-宇野航路の廃止届を四国運輸局に提出した旨が発表されている。これで宇野・高松を直通で結ぶフェリー航路は全てなくなることになる予定だ。冒頭掲載の向かって左の画像は、私が現役時代、宇高連絡船「土佐丸」に乗った時の記念スタンプである。現役時代は、仕事柄出張が多く、高松にもよく行ったが、当時の、のんびりとした船でのひと時が懐かしく思い出される。スタンプは、国鉄が民営化される1987(昭和62)年の前年のものだと思う。このようなスタンプなどには、興味のなかった私だが、国鉄の名前が消えることへの郷愁から、記念にと手持ちのメモ用紙に押印したものである。国鉄の名前だけでなく、宇高連絡船そのものがなくなってしまう。時代の流れとは言え、寂しいものだ。
(画像左:宇高連絡船土佐丸の記念スタンプ。右:高速艇 しおかぜ。Wikipediaより)
参考:
※:地域の本棚
http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_2033-17.html
四国の鉄道
http://www2d.biglobe.ne.jp/~vic/rail/
なつかしい日本の汽船
http://homepage3.nifty.com/jpnships/
宇高連絡船歴史館
http://renrakusen.hp.infoseek.co.jp/
青函連絡船」が運航を開始した日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/26bc5cdd85914e4215a8eb96e8b15933
世界3大海難事故となった洞爺丸転覆の日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/fe9fe3da8d733435b66d07f5c82b612c
世界最長の橋吊り「明石海峡大橋」が開通した日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/f0da751295b42ad35d7697c6c96b37e7
SHIKOKU NEWS【宇高航路来月で廃止/フェリー2社撤退】
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/social/article.aspx?id=20100213000083
鉄道連絡船 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E9%80%A3%E7%B5%A1%E8%88%B9
四国の鉄道 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93
本州四国連絡橋 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B7%9E%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E9%80%A3%E7%B5%A1%E6%A9%8B
瀬戸大橋料金値下げできるか【四国新聞社】
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/323/index.htm