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白秋忌、北原白秋 (詩人,歌人,童謡作家) の忌日

2005-11-02 | 人物
11月2日は、「白秋忌」
1942(昭和17)年11月2日は、 北原白秋 (詩人,歌人,童謡作家) <57歳> の忌日[1885年1月25日生]
北原 白秋(きたはら はくしゅう。本名、北原隆吉)は、近代日本の文学・文芸に大きな足跡をのこした歌人、文学者。福岡県山門郡沖端村(現・柳川市)に生まれた。家は、代々柳川藩御用達の海産物問屋と酒の醸造・精米をも営む地方有数の商家だったが、16才の時に家が大火にあい、傷心の白秋は詩歌の創作に熱中したといわれている。1904(明治37)年 19歳のとき、早大文学部英文科予科に入学。上京後、同郷の好によって若山牧水と親しく交わるようになる。翌年、「早稲田学報」の懸賞で『全都覚醒賦』が一等となり、詩壇の注目を浴び、早くも「韻文界の泉鏡花」とまでいわれるようになった。その後、1907(明治40)年の第一詩集「邪宗門」、1911(明治44)年の第二詩集「思ひ出」などの作品により、まだ20代前半にもかかわらず詩壇の逸材として大きな評価を獲得した。1913(大正2)年歌集『桐の花』を刊行している。作詞者としては、鈴木三重吉が1918年に創刊した雑誌『赤い鳥』(1918~)の中心的作家の一人として活躍し、「童謡」という新しいジャンルの確立にもその才能を発揮した。作詞家としては「城ケ島の雨」「砂山」「あめふり」などがある。その他、「松島音頭」や「ちゃっきり節」等の民謡も書き、あらゆるジャンルで傑作を産んだ。
北原白秋は本当に沢山の“童謡を作っている。因みにどんなものがあるかはd-score 楽譜 - 北原白秋を見てみるとよい。どれもこれも、子供の頃によく歌った歌ばかりなので、よく覚えている。しかし私は、白秋の歌の中でも一番印象に残っているのは、「城ヶ島の雨」である。
作詞:北原白秋、作曲:梁田 貞 
雨はふるふる 城ケ島の磯に
利久鼠の 雨がふる
雨は真珠か 夜明けの霧か
それとも私の 忍び泣き

舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆あげた ぬしの舟

ええ 舟は櫓でやる
櫓は唄でやる
唄は船頭さんの 心意気

雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ
『城ヶ島の雨』は白秋の詩で、島村抱月の依頼によって作曲され、当時芸術座の舞台で唄われたものである。この曲をテレビで美空ひばりが歌っていたことがある。歌詞、曲とも絶品であるが、それを、見事に、歌っているひばりの歌唱力がすばらしかった。ただ、白秋の詩は「この道」「からたちの花」その他、どれもやさしい言葉で書かれているがこの、『城ヶ島の雨』には、"利休鼠の雨がふる""舟はゆくゆく通り矢のはなを"という一般には理解し難い言葉がある。それに、なぜ、こんなにも悲しい歌をつくったのだろう?。
"利休鼠"とは利休色(緑色をおびた灰色)のねずみ色を帯びたものでどちらかと言えば陰鬱な色を言う。"通り矢"とは陸地とすぐ前の離れ岩との幅が狭く海の流れの早い所で、一説によると頼朝がここで通し矢をしたことが由来してるらしい。梁田貞作曲の「城ヶ島の雨」は、途中で声調が変わるように、「利休ねずみ」色に閉ざされた、自らには絶対に救いようのない三崎の空の下の世界を歌っている。実は、このとき、白秋は人生において最も苦難に満ちた時代にあったのである。
1909(明治42)年、詩集『思い出』で一躍明治詩壇の逸材として大きな評価を獲得した白秋であるが、1910(明治43)年、詩『おかる勘平』が風俗紊乱にあたるとされ、「屋上庭園」二号が発禁処分を受ける。そして、原宿に転居(隣に松下俊子在住)。その翌年、隣家の夫より虐待を受けていた人妻俊子への同情から、次第にその人妻松下俊子と恋におち、ついには姦通罪で告訴され決監として2週間拘置されるという事件が起こり、白秋のイメージに打撃を与え、このことは、その後の彼の詩風に影響を与えたという(「桐の花」事件)。1913(大正2)年、自殺を思いつめ三崎に渡るが、死に切れず東京に戻る。そして、処女歌集『桐の花』を刊行出版。この『桐の花』によって白秋は歌壇でも独特の位置を占めるようになる。
『桐の花』の巻末の「哀傷篇」で以下のように歌っている。
「わが世は凡て汚されたり、わが夢は凡て滅びむとす。わがわかき日も哀楽も遂には皐月の薄紫の桐の花の如くにや消えはつべき。わがかなしみを知る人にわれただ温情のかぎりを投げかけむかな。囚人は既に傷つきたる心の旅びととなり。この集世に出づる日ありとも何にかせむ。慰めがたき巡礼のそのゆく道のはるけきよ」
白秋は桐の花の薄い咲き方、はかない散り方を三十一文字の歌に託していたのである。
「城ヶ島の雨」はこの間に作られた歌なのである。"利休鼠"は死を思うほどの白秋の心の痛みの暗さを、"通り矢"は早くこの辛い時が過ぎ去ってほしいという願望を、"唄は船頭さんの心意気"はいつの日か必ず詩歌の道で立ち上がってみせるぞとの決意を、しかし、現実に目を向けると"日はうす曇る、帆がかすむ"となって、このときの白秋のおかれた状況、心情がそのままこの詩となったのではないかという。正に、北原白秋が、「言葉の魔術師」と言われるゆえんである。
では、「城ヶ島の雨」を聞いてみませんか?ここ、城ヶ島の雨では、オカリナとピアノで演奏したなんとも言えない哀愁に満ちた心に残る曲が聴けるよ。
(画像は白秋生家)
参考:
北原白秋記念館
http://www.hakushu.or.jp/
北原白秋 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E7%99%BD%E7%A7%8B
作家別作品リスト:北原 白秋
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person106.html
d-score 楽譜 - 北原白秋
http://www.d-score.com/ar/A02020403.html
北原白秋の『桐の花』を読む
http://www.designroomrune.com/magome/h/hakusyuu/hakusyuu.html
桐の花事件
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kirinohanajikenn.htm


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3 コメント

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白秋 (Linda)
2005-11-02 17:46:22
よーさん、こんにちは。

僕は白秋の歌は好きです。ペチカは歌うときには「楽しいペチカ」じゃなく「楽しいペーチカ」と歌うように教わりました。待ちぼうけの間奏は皆で「チャンチャカ チャンチャカチャカ チャカチャカチャン」とかしより元気に歌ったり・・、小学校の音楽室を思い出しました。
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沢山は知りませんが (ちゃり)
2005-11-05 23:20:53
今晩は~白秋の詩は沢山は知りませんが、やさしい言葉の童謡が印象的です。

最近は子供も童謡を知らないので、幼稚園の頃は「ドライブには童謡」な~んて無理矢理(?)聞かせてました。珍しがって聞いてましたねぇ。今はもう覚えてないかも?
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童謡 (よーさん)
2005-11-06 06:51:01
Lindaさん、ちゃりさん、

この頃の子供は、学校で、どんな歌を習っているのでしょうね。童謡にはいい歌が沢山あります。詩の意味も奥が深い。このような同様をたくさん、教えてあげたいですね。もう、今では、親の方が知らないのでは・・・?
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