今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

初代中村鴈治郎

2005-02-01 | 人物
今日(2月1日)は歌舞伎役者「初代中村鴈治郎」の忌日。[1860(安政)7年3月6日]大阪に生まれる。<74歳>
1935(昭和10)年、の今日、初代中村鴈治郎(なかむら・がんじろう)が死去。明治から昭和初期にかけて、関西歌舞伎を代表する名優だった。
歌舞伎の歴史は、徳川家康が江戸幕府を開いた1603年にまで遡り、出雲の阿国が、京都に上り四条河原で舞った「かぶき踊」がその始まりとされている。阿国登場後、2人の役者が出現し、江戸で活躍した初代市川團十郎は正義のヒーローが敵役をやっつける、といったわかりやすく華やかな舞台を作り上げ、江戸歌舞伎の基礎を築いた。
一方、しっとりと艶やかな「和事」と呼ばれる上方歌舞伎を完成させた坂田藤十郎は、近松門左衛門と組み、「曽根崎心中」などの上方歌舞伎で人気を得た。この東西2人の天才の役者の登場で歌舞伎人気を不動のものとした。
歌舞伎役者の名前と身分は世襲によって受け継がれているが、歌舞伎では「中村」の苗字がもっとも多く、中村姓を持つ役者の、すべての祖先とも言える人物が、初代中村勘三郎である。この勘三郎の名を継ぎ、襲名することになっているのが、「平成中村座」を復興した5代目中村勘九郎である。
また、この勘三郎家の親戚筋として生まれたのが、名門・中村歌右衛門家であり、大阪で活躍した初代中村歌右衛門(1714~1791)から4代(1798~1852)までは立役を得意としたが、5代以降は女形を得意としている。4代を境に、江戸に出た中村歌右衛門家と大阪に残った中村鴈治郎家に分かれる。
つまり、4代目歌右衛門の養子の子が、初代中村鴈治郎なのである。容姿に恵まれ、和事(わごと、男女の色模様を描く芝居)が得意で、当たり役には紙屋治兵衛、定兵衛などがある。
1887(明治20)年、若手役者として急激に人気が高まった頃、先輩役者の内縁の妻に水銀を飲まされ突然声がしわがれ始めた。鴈治郎の名声を妬み、声を潰して失脚を図ろうとしたのだが、当時は声を使う芸人を落としいれようと、水銀を用いた犯罪が、しばしばあったのだとか。医者の手当てで、声を潰さずにすんだものの、以前の美声は戻らなかったそうだ。
今の3代目中村雁治郎は、1953年、2代目鴈治郎と「曽根崎心中」を復活上演し、お初役が評判に。1990年、3代目鴈治郎を襲名、同年紫綬褒章。1994年重要無形文化財保持者(人間国宝)となり、今年、市川團十郎と並び称された西の天才・坂田籐十郎の名を継ぐことが決まっている。
歌右衛門の家系は、2001年に亡くなった6代目中村歌右衛門以降、名を継ぐものがなく、中村歌右衛門の名は空席となっている。
今人気絶頂の中村獅童(2代目)は、歌右衛門一家の門弟から生まれた、中村歌六家の3代目歌六の次男・中村時蔵の三男で、初代中村獅童の息子である。屋号は「萬屋」・・・今は亡き、映画などで活躍していた萬屋錦之助の甥にあたる。・・・なんとなく雰囲気がよく似てるでしょう。
あ~、でも、歌舞伎の家のことは書いていても、ややこしくて、わからなくなりそう・・・。後は、下の参考・歌舞伎家系でも見てください。
予断だが、この初代鴈治郎は弟子などが、色事をおこすたびに、こう注意したという。
「おなごほどかわいいものはない。けど、おなごほどこわいものもないで。身を滅さんよう、気ィつけや」・・・・ほんと、そのとおりだよ・・・きいつけや~。
それに、今年、勘三郎を継ぐことになっている中村勘九郎の息子七之助が、つまらぬことで、刑事沙汰になっているけど、歌舞伎などの著名人は、日ごろの言葉や行動に注意しないといけないよ。お父さんお大事な襲名披露公演が危ぶまれている。残念なことだ・・・。
(三代目雁次郎襲名前の中村扇雀主宰の近松歌舞伎のチラシ)
参考:
歌舞伎家系
http://www2.rosenet.ne.jp/~spa/kabuki/html/fam/fam.html

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。