今日のことあれこれと・・・

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「中国革命の父」孫文の忌日

2008-03-12 | 人物
今日(3月12日)は、「中国革命の父」・孫文(そん ぶん)の1925(大正14)年 の忌日 <58歳>
孫文:中山 )は、広東省中山県(中山市客家の農家に生まれたという。
孫文は、13歳のとき兄をたよってハワイにわたり、キリスト教系学校に学び西洋思想に目覚めたが、兄や母が西洋思想に傾倒する孫文を心配し、中国に戻され、17歳で帰国してから香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学び、清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894(中国:清・光緒19年=明治27年)同志とハワイで興中会を組織し、その後広州での革命蜂起に失敗し、陳少白、鄭士良らとともに香港経由で日本へ。11月には神戸に着き、それから横浜へ着いた。再起を図った孫文は、ハワイからアメリカ合衆国内を経てイギリス・ロンドンに渡り、現地の華僑と連絡を計ったが結果は思惑通り行かず、一時清国公使館に拘留され、その体験を『倫敦被難記』(1897年)として発表し、世界的に革命家として有名になる。 孫文はこのロンドンでの亡命時代に大英博物館南方熊楠と出会い、南方は孫文の革命運動の支援者となった。同年孫文は、日本に来て横浜に在住。南方も1900(明治33)年に帰国したため、1901(明治34)年2月孫文が、が和歌山の南方邸を尋ね再会を果たした。冒頭の画像は、その時の写真(2月15日)で、同中央が孫文、膝にいるのは熊楠の弟常楠の長男常太郎、後列左が熊楠、同右は通訳の温炳臣。
この後、革命資金を集める為、世界中を巡り、1905(明治38)年7月に日本に来て、8月20日東京の赤坂区霊南坂の坂本金弥宅(現・ホテルオークラ内)に14省100余人が集まり孫文を総理として中国同盟会を結成(興中会、光復会、華興会を糾合)するがこの時は熊楠も尽力した。この時孫文38歳であった。彼は自伝に「1905年の秋合同の俊秀を集め、東京に革命同盟会が設立した日、私は革命の大業が命あるうちに成功することを信じ始めた」と記しているという(アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)。当時、日露戦争で日本が勝利すると、東京には清国から我が国へ来る留学生が急増していた。東京にはそんな留学生が8000人もいたという。中国同盟会への参加は、興中会、光復会、華興会などの団体のほか、そんな団体未加入の留学生たちが参加していたという。又、前年の1904年秋に湖南省長沙で清朝打倒を掲げた華興会の長沙起義(蜂起)に失敗して日本に亡命してしてきていた黄興宋教仁(後に袁世凱に暗殺される)がいた。これらの革命のリーダーをヨーロッパをまわって1905年7月に日本に着いた孫文に引き合わせたのは宮崎滔天であった。彼が、孫文の日本での拠点造りや資金援助をおこなった中心人物である。同盟会は、1905年11月東京で、機関紙「民報」を発行、創刊号に、孫文の三大主義(民族・民権・民生)を掲載した。
それから、6年後、孫文は、1911年10月10日、武昌で蜂起(武昌蜂起参照)し、清朝を打倒して、2200年にわたる専制君主制を終わらせることに成功する。翌1912年1月1日中華民国南京に成立し、初代臨時大総統に就任。アジア初の共和国指導者となった。しかし、孫文は革命政府を維持するため、宣統帝(愛新覚羅溥儀)の退位と引き換えに清朝の実力者・袁世凱に総統の座を譲るが、袁世凱による独裁が始まると、反袁を唱えて活動するが、袁の軍事力の前に敗れて日本へ亡命。日本に亡命した孫文は、1914年7月、頭山満犬養毅の助力を得て、あらたな秘密結社中華革命党を結成し、孫文は総理に就任する。この参加者の中には蒋介石らもおり、総勢300人とも600人ともいわれている。孫文は、中国同盟会成立後、中国同盟会および国民党における反対勢力の動きにより、自己の主導権が必ずしも貫徹できなかったという経緯から、中華革命党は彼に忠誠を誓う党員によって組織されたが、孫文の武装蜂起方針に反対した黄興は参加しなかった。
1915年12月の第三革命にも参加し、1916年6月袁の死後は、広西省(現広西チワン族自治区)、雲南省といった西南の軍閥の力を利用し、広州で政権を樹立して軍閥が割拠する中国の統一を図り、1917年から1918年の護法戦争も戦った。しかし、第一次世界大戦勃発後の1915年1月に日本からの対華21ヶ条要求に対する明確な反対運動を起こすこともなく、さらに、1919年の五四運動でも大きな役割を演じられなかった。結局、北京政府打倒という意味では、目立った成果をあげることなく、1925年、有名な「革命未だならず」」の遺言(孫文の遺言要約)を残して、北京に客死した。
辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれている孫文。 中華民国では国父(国家の父)と呼ばれ、また、中華人民共和国でも近年は「近代革命の先人」として「国父」と呼ばれよばれているようだ。
孫文と日本のつながりは非常に深く、孫文の革命運動の時期は1895年から30年間、日本と大陸、欧米を往来し、この間12回来日し、延べ10年近く我が国に滞在し革命の拠点としていた。神戸には18回も訪問。彼が中国の中央権力と敵対した時期には、東京の日本政府も冷淡になったが、神戸は独自のつながりを保ったという。
孫文の最後の訪日となった1924(大正13)年11月28日、孫文は神戸高等女学校で、「大亜細亜主義」と題して講演。 
「日本民族は西方覇道の手先となるのか、東方王道の守り手となるのか、慎重に選ぶべき」と、アジア諸民族の平等な立場での侵攻を訴えたと言われている。神戸から北京に向かった孫文は、翌1924年3月、病没した。神戸市垂水区明石海峡大橋を一望できる海辺に、3 階建ての楼閣がある。中国の革命家・孫文を支援した華僑が1915(大正4)年に別荘の東側に建てた八角三層の「移情閣(いじょうかく)」である。 八方に窓が開いていて、それぞれの窓から異なった景色が眺められ、それにともなって心が移って行くことから「移情閣」と名づけられた。1982(昭和57)年日中国交正常化10周年を機に管理していた神戸華僑総会より兵庫県に寄贈され、「孫中山記念館」として一般に公開されていたものを、明石海峡大橋の建設にともない一旦解体し、2000(平成12)年4月21日、元の場所から南西に約200m移動、移設(復元)したものである。今は、中国革命の父・孫文の遺品などを展示した、日本唯一の「孫文記念館」になっており、2001(平成13)年、国の重要文化財に指定されている (以下参考に記載の「孫文記念館(移情閣)-日本」参照)。
なお神戸高女での孫文の「大亜細亜主義」講演は、当時は録音設備も無いため速記などによって記録されたためか大阪毎日新聞、神戸新聞、民国日報(上海)などによって多少の違いが有るようである。「孫文記念館〔移情閣〕-日本」の記念資料室・孫文記念館所蔵展示資料検索の、”資料名で検索”に”大アジア主義”と入力し検索すると、大阪毎日新聞の資料が見れる。→ここ。但し、重いので、以下で見るほうが便利。
孫文の大アジア主義(萬晩報)
http://www.yorozubp.com/asiaism/asiasunwen.htm
先に孫文は「大亜細亜主義」と題して講演「日本民族は西方覇道の手先となるのか、東方王道の守り手となるのか、慎重に選ぶべき」と、アジア諸民族の平等な立場での侵攻を訴えた。・・・と書いたが、上記「孫文の大アジア主義」(萬晩報)を見ても最後を以下の文面でしめくくっている。
「我々の主張する不平等廃除の文化は、覇道に背叛する文化であり、又民衆の平等と解放とを求める文化であると言い得るのであります。貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の”鷹犬”となるか、或は東洋王道の”干城”となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。」(『孫文選集』1966年)と締めくくっている。文中の”鷹犬”は”手先”といった意味らしい、また、干城は、〔「干」は楯(たて)の意〕楯となり城となって、国家を守護する武人の事である。
この最後の文章について、以下参考に記載の「孫文の「大アジア主義」の「遺言」」で小田実は、「民国日報」(1924・12・8)の同様の例文をあげ、この最後の締めくくりの部分は「実際には孫文は講演でこのことばを話さず、もとから原稿にはあったのか、それともあと書き加えて中国の新聞に発表されたと言われているからだ。事実は今となっては判らないが、孫文は日本人の反発をおそれて口にしなかったとうがったことを言う人もいる。私がこうした憶測に組みしないのは、孫文は何も日本人をよろこばすために、この「大アジア主義」の講演をしたのではないからだ。なるほど、この講演には日露戦争の勝利をはじめとして日本人をよろばせる個所はいくつも出て来て、当時の新聞報道は「拍手」と聴衆の反応を各所で示している。しかし、講演で彼が言ったことは、日本よ、この覇道の文化の勝利でよろこんでいいのか――その問いかけは全体にみなぎっている。」・・と言っている。確かに、孫文の中国革命の後の日本は西欧覇道の文化の道をとり、ついに自滅してしまった。
この時の講演は、孫文が公的に話した最後のものであったことから、、これは孫文の遺言的な講演であったといえるが、内容は非常に重いものがある。何か、今の日本の政治や世の中の出来事を見ていると、東洋の良き文化を忘れ、西洋かぶれした日本人の姿は、明治以降の戦前の姿と何も変っていないような気がするのであるが・・・。
(画像は、1901(明治34)年2月孫文が、が和歌山の南方邸を尋ね再会を果たしたときの写真(2月15日)で、前列左は熊楠の弟常楠、同中央が孫文、膝にいるのは常楠の長男常太郎、後列左が熊楠、同右は通訳の温炳臣。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
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2 コメント

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昨日の友は今日の敵 (古井戸)
2008-03-15 15:11:09
>西洋覇道の”鷹犬”となるか、或は東洋王道の”干城”となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。

先週だったか中国軍人が米国の高官に、
 太平洋のハワイ以西は中国が、それより東は米国が管理するようにしたらドゥ?
 。。と提案したらしい。

冗談だろうが。

孫文はいま、中国でも日本でも見向かれない思想家になったのか。
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かっての・・ (よーさん)
2008-03-16 07:37:22
古井戸さん、今は中国もアメリカもそしてロシアもどこの国もが自国中心の考え方になってきている。これまでの後進国の経済成長が見られると同時に先進国経済が停滞をし、世界的には人口増、そして、資源不足、エネルギー不足、食糧不足が深刻になっている。貧富の格差もますます拡大してきており、かって、共産主義が崩壊したように、これからは、自由主義経済が行き詰まるかもしれない。サブプライム問題はその前触れかもしれない。どこの国もが他国のことより自国の利害中心の内向きな考え方に変ってきている。これはかっての第一次、第二次大戦に突入した時の状況に似てきたともいえ、恐い話です。
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