
今日(2月25日)は「夕刊紙の日」
1969(昭和44)年の今日(2月25日)、日本初の駅売り専門の夕刊紙『夕刊フジ』が創刊した。
夕刊紙とは、夕刊を専門に発行する新聞のこと。夕刊専売紙とも言う。現代では、一般に店頭販売を原則とし、勤務終了後に帰宅するサラリーマンを主な想定読者とした小型サイズ(タブロイド判)のものが多い。
タブロイド(tabloid)判は、普通の新聞紙(「ブランケット=blanket、スタンダード判」)1ページの半分のサイズで、語義としては「要約し、圧縮した」という意味があり、歴史的には、19世紀に、アメリカで大衆向けに発行された小型廉価の新聞がこのサイズで、これがタブロイド新聞とよばれるようになったそうだ。このタブロイド新聞の特色は、大衆向けであることから記事は短くわかりやすい表現で、写真やイラストが多用され、かつ、街売りという点にあったが、アメリカの『デーリー・ニューズ(The Daily News)』、イギリスの『デーリー・ミラー(The Daily Mirror )』がタブロイド判新聞として有名である。
日本では、日露戦争を開戦しようとする動きに対して非戦論を主張していた『萬朝報』が、社論を開戦論へと転換したときに、非戦論を訴えつづけていた同紙記者の幸徳秋水(こうとくしゅすい)や堺利彦(さかいとしひこ)らが、非戦論の主張を貫くために朝報社(『萬朝報』の発行社)を退社し、1903(明治36)年10月、平民社を結成、翌11 月、社会主義運動の最初の機関紙的役割を果たした週刊『平民新聞』が発行されたが、これがタブロイド判であった。商業紙としてのタブロイド新聞は、第2次世界大戦後の1946(昭和21)年に創刊された『サン写真新聞』がこのサイズであった。当時の新聞は太平洋戦争発生以後、規制されていた夕刊が再開したものの、当時は政府当局の指導もあり製紙事情から新聞の増ページが認められなかったので実質上夕刊の発行ができなかった。その為全国紙の系列という形で夕刊専売紙を発行したが、サン写真新聞も毎日新聞の系列夕刊紙として発行されたものである。新聞のタイトルが示すとおり、一般全国紙と違うのは写真記事を中心にした構成で、戦後復興を目指そうとする日本の表情を写し出す紙面づくりを目指した。1960(昭和35)年に廃刊されたが、その後創刊された夕刊フジや日刊ゲンダイなどの夕刊タブロイド専売紙に大きな影響力を与えた。
夕刊フジは、1969(昭和44)年の今日(2月25日)、日本初の駅売りタブロイド判夕刊紙として創刊した。創刊当初は同社の子会社であるフジ新聞社からの発行だったが1987(昭和62)年にサンケイスポーツ新聞社と共に、産経新聞社と合併。
創刊当初から見出しにオレンジ(橙)色を採用したことから「オレンジ色のニクい奴」というキャッチコピーが付いた。創刊号の1面を飾ったのは、「慎太郎新党躍り出る」の見出しと、石原慎太郎参議院議員(現・東京都知事)の若々しい姿であった。以下で当時の若々しい石原慎太郎氏の姿が見れるよ。
夕刊フジ10000号!→http://www.zakzak.co.jp/info/10000-fuji.html
2002(平成14)年3月30日、産経新聞が東京本社管内で夕刊の発行を廃止したのに伴い、東日本ではフジサンケイグループで唯一の夕刊紙となった。同日、産経系列の大阪新聞が廃刊となり、関西版では大阪新聞に代わる形の新聞として、阪神タイガース関連の報道など関西のニュースに力を入れているそうだ。
現在,代表的な夕刊紙には、この夕刊フジのほか日刊ゲンダイや、東京スポーツなどがある。これらの新聞の紙面構成としてはスポーツ新聞に近いが、記事のウェイトはスポーツよりも娯楽が中心で、性風俗関連記事も多い。ニュース解説は、時として硬派の新聞と比較して鋭い切り込みをしていることもあるが、ほとんど誇張や煽情的な表現である。
さて、少し、日本の新聞の歴史を振り返ってみると、1862 (文久2)年に日本初の新聞として官板バタビア新聞(以下参考のふたつの「バタビア新聞」参照)、英字新聞としてナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザーが刊行され、明治には、1868(慶応4)年、国内のオリジナルな情報を掲載する中外新聞、江湖新聞が、1870(明治3)年には日刊紙である横浜毎日新聞が創刊された。1872(明治5)年には東京日日新聞(ここ参照)、郵便報知新聞などが創刊。1874(明治7)年に讀賣新聞、1879(明治12)年に朝日新聞が創刊。
1894(明治27)年からの日清戦争、1904(明治37)年からの日露戦争の戦時報道など論説中心の報道であったがその後、論説中心から報道取材が行われるようになる。「郵便報知新聞」は1894(明治27)年、大衆紙に転向するとともに「報知新聞」と改題。1906(明治39)年には夕刊の発行を開始する。これが、日本初の定期夕刊新聞 の発行である。
「報知新聞」は、明治末から大正にかけて東京で最も売れた新聞で、東京五大新聞(東京日日・時事新報・國民新聞・東京朝日・報知)の一角であった。
誰が書いたか分からないらしいが、明治末年の東京の朝から夜更けまで夏の1日の庶民の生活ぶりを41枚に描いた絵巻が残されており、その中に、夕涼み客を当て込んだ新聞の夕刊うりの姿が描かれており、脇に、報知新聞夕刊一銭と書かれている。(此処に掲載の画像を参照)
以下参考の「松本六郎翁自伝「私の苦闘時代」」のエッセー「2.生誕から小学校時代[夕刊売りの少年]」の中に書かれているが、当時の流行歌に「なんだかんだの神田橋、朝の五時頃見渡たせば、破れた洋服に弁当箱下げて、てくてく歩くは月給九円、自動車とばせる紳士を眺め、ほろりほろりと泣きいだす、神よ仏よ聞き給へ、天保時代の侍も今じゃ哀れなこの姿、うちでは山の神がボタンかがりの手内職、十四の娘はたばこの工場、にほいはすれどもきざみをすえぬ、いつもお金の内務省、かくこそあるなれ生存競争の活舞台」・・・というのがあったそうで、当時の不景気さ加減が分かる。そして、又、貧乏ななかで、同翁は、”義務教育だけは受けたいと、夕刊を売りに出かけることを決意。大阪・高麗橋三丁目にあった大阪時事新報社迄通い。四時頃行き、夕刊を五厘で買って一銭に売った”と書いている。先に紹介した絵と同じだよね。このころ、僅かな収入を得るために街頭で新聞の夕刊売りをしてるいる人が大勢いたのだよ。
尚、当ブログの字数制限の都合上、この続きは下記の続・夕刊紙の日をクリックしてみてください。※クリックすると、この続きはこのページの下に追加表示されます。↓
続・夕刊紙の日
1969(昭和44)年の今日(2月25日)、日本初の駅売り専門の夕刊紙『夕刊フジ』が創刊した。
夕刊紙とは、夕刊を専門に発行する新聞のこと。夕刊専売紙とも言う。現代では、一般に店頭販売を原則とし、勤務終了後に帰宅するサラリーマンを主な想定読者とした小型サイズ(タブロイド判)のものが多い。
タブロイド(tabloid)判は、普通の新聞紙(「ブランケット=blanket、スタンダード判」)1ページの半分のサイズで、語義としては「要約し、圧縮した」という意味があり、歴史的には、19世紀に、アメリカで大衆向けに発行された小型廉価の新聞がこのサイズで、これがタブロイド新聞とよばれるようになったそうだ。このタブロイド新聞の特色は、大衆向けであることから記事は短くわかりやすい表現で、写真やイラストが多用され、かつ、街売りという点にあったが、アメリカの『デーリー・ニューズ(The Daily News)』、イギリスの『デーリー・ミラー(The Daily Mirror )』がタブロイド判新聞として有名である。
日本では、日露戦争を開戦しようとする動きに対して非戦論を主張していた『萬朝報』が、社論を開戦論へと転換したときに、非戦論を訴えつづけていた同紙記者の幸徳秋水(こうとくしゅすい)や堺利彦(さかいとしひこ)らが、非戦論の主張を貫くために朝報社(『萬朝報』の発行社)を退社し、1903(明治36)年10月、平民社を結成、翌11 月、社会主義運動の最初の機関紙的役割を果たした週刊『平民新聞』が発行されたが、これがタブロイド判であった。商業紙としてのタブロイド新聞は、第2次世界大戦後の1946(昭和21)年に創刊された『サン写真新聞』がこのサイズであった。当時の新聞は太平洋戦争発生以後、規制されていた夕刊が再開したものの、当時は政府当局の指導もあり製紙事情から新聞の増ページが認められなかったので実質上夕刊の発行ができなかった。その為全国紙の系列という形で夕刊専売紙を発行したが、サン写真新聞も毎日新聞の系列夕刊紙として発行されたものである。新聞のタイトルが示すとおり、一般全国紙と違うのは写真記事を中心にした構成で、戦後復興を目指そうとする日本の表情を写し出す紙面づくりを目指した。1960(昭和35)年に廃刊されたが、その後創刊された夕刊フジや日刊ゲンダイなどの夕刊タブロイド専売紙に大きな影響力を与えた。
夕刊フジは、1969(昭和44)年の今日(2月25日)、日本初の駅売りタブロイド判夕刊紙として創刊した。創刊当初は同社の子会社であるフジ新聞社からの発行だったが1987(昭和62)年にサンケイスポーツ新聞社と共に、産経新聞社と合併。
創刊当初から見出しにオレンジ(橙)色を採用したことから「オレンジ色のニクい奴」というキャッチコピーが付いた。創刊号の1面を飾ったのは、「慎太郎新党躍り出る」の見出しと、石原慎太郎参議院議員(現・東京都知事)の若々しい姿であった。以下で当時の若々しい石原慎太郎氏の姿が見れるよ。
夕刊フジ10000号!→http://www.zakzak.co.jp/info/10000-fuji.html
2002(平成14)年3月30日、産経新聞が東京本社管内で夕刊の発行を廃止したのに伴い、東日本ではフジサンケイグループで唯一の夕刊紙となった。同日、産経系列の大阪新聞が廃刊となり、関西版では大阪新聞に代わる形の新聞として、阪神タイガース関連の報道など関西のニュースに力を入れているそうだ。
現在,代表的な夕刊紙には、この夕刊フジのほか日刊ゲンダイや、東京スポーツなどがある。これらの新聞の紙面構成としてはスポーツ新聞に近いが、記事のウェイトはスポーツよりも娯楽が中心で、性風俗関連記事も多い。ニュース解説は、時として硬派の新聞と比較して鋭い切り込みをしていることもあるが、ほとんど誇張や煽情的な表現である。
さて、少し、日本の新聞の歴史を振り返ってみると、1862 (文久2)年に日本初の新聞として官板バタビア新聞(以下参考のふたつの「バタビア新聞」参照)、英字新聞としてナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザーが刊行され、明治には、1868(慶応4)年、国内のオリジナルな情報を掲載する中外新聞、江湖新聞が、1870(明治3)年には日刊紙である横浜毎日新聞が創刊された。1872(明治5)年には東京日日新聞(ここ参照)、郵便報知新聞などが創刊。1874(明治7)年に讀賣新聞、1879(明治12)年に朝日新聞が創刊。
1894(明治27)年からの日清戦争、1904(明治37)年からの日露戦争の戦時報道など論説中心の報道であったがその後、論説中心から報道取材が行われるようになる。「郵便報知新聞」は1894(明治27)年、大衆紙に転向するとともに「報知新聞」と改題。1906(明治39)年には夕刊の発行を開始する。これが、日本初の定期夕刊新聞 の発行である。
「報知新聞」は、明治末から大正にかけて東京で最も売れた新聞で、東京五大新聞(東京日日・時事新報・國民新聞・東京朝日・報知)の一角であった。
誰が書いたか分からないらしいが、明治末年の東京の朝から夜更けまで夏の1日の庶民の生活ぶりを41枚に描いた絵巻が残されており、その中に、夕涼み客を当て込んだ新聞の夕刊うりの姿が描かれており、脇に、報知新聞夕刊一銭と書かれている。(此処に掲載の画像を参照)
以下参考の「松本六郎翁自伝「私の苦闘時代」」のエッセー「2.生誕から小学校時代[夕刊売りの少年]」の中に書かれているが、当時の流行歌に「なんだかんだの神田橋、朝の五時頃見渡たせば、破れた洋服に弁当箱下げて、てくてく歩くは月給九円、自動車とばせる紳士を眺め、ほろりほろりと泣きいだす、神よ仏よ聞き給へ、天保時代の侍も今じゃ哀れなこの姿、うちでは山の神がボタンかがりの手内職、十四の娘はたばこの工場、にほいはすれどもきざみをすえぬ、いつもお金の内務省、かくこそあるなれ生存競争の活舞台」・・・というのがあったそうで、当時の不景気さ加減が分かる。そして、又、貧乏ななかで、同翁は、”義務教育だけは受けたいと、夕刊を売りに出かけることを決意。大阪・高麗橋三丁目にあった大阪時事新報社迄通い。四時頃行き、夕刊を五厘で買って一銭に売った”と書いている。先に紹介した絵と同じだよね。このころ、僅かな収入を得るために街頭で新聞の夕刊売りをしてるいる人が大勢いたのだよ。
尚、当ブログの字数制限の都合上、この続きは下記の続・夕刊紙の日をクリックしてみてください。※クリックすると、この続きはこのページの下に追加表示されます。↓
続・夕刊紙の日