はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

三島由紀夫というヴァーチャル・キャラクター

2020年10月30日 | 三島由紀夫

2020/10/30

 

東京バレエ団の「M 三島由紀夫」の公式パンフを会場で買ったのですが、なかに内田樹氏の寄稿がありました。

「三島由紀夫という〈起源〉」。

これが興味深くて、またひとつ三島理解が開けたような気がしたのです。

(一部を引用)

【三島由紀夫はその作品が書かれる前には存在しなかった。平岡公威は三島由紀夫に命を吹き込み、三島由紀夫という作家に「作品の起源」の座を譲るという仕方で姿を消した。後に残されたのは三島由紀夫という「あたかも全作品の創造主であるかのように仮構された被造物」である。】

つまり、三島由紀夫というのは平岡公威が創造した人物=虚像だということ。

マリオネットのように、あるいは人形浄瑠璃の人形のように、背後で平岡公威に操られていたということかな。内田氏は、今ふうに「ヴァーチャル・キャラクター」と表現しています。

これを読んだときに、なるほどなあ~と思ったのです。

平岡公威は小説を書くときは三島由紀夫という小説家になって小説や戯曲を書く、三島由紀夫で映画に出る、ボディビルをする、筋肉写真を撮らせる、剣道をする・・・etc.

平岡公威本人ではできないことでも、三島由紀夫にさせればできるというものだったのでしょうか。

それが「仮面」と言うものだったのかもしれない。

『仮面の告白』を書き上げた直後、三島は『近代文学』に載せる予告広告の文面に、「この告白を書くことによって私の死が完成する・その瞬間に生が恢復しだした」と述べている箇所があります。「私の死が完成する」とは、どういうことでしょう?私は、平岡公威は抹消して、三島由紀夫として生きていこう、ということかと解釈したのですが。

しかし、どうしてたって三島と平岡は不可分な存在なので、あまりにも平岡公威とは乖離していくことによって、三島として動くことが苦しくなってしまったのかもしれない。

あの不可解な自決事件も、平岡公威として死んだのではなく、虚像・三島由紀夫として死んだとなれば、わかる気がするのです。最後まで演技をしていたのでしょう。

それにしても、なぜそんなふうな虚像を作り上げて生きてきたのでしょうか。それもまた探ってみたいところです。

 

 

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