やんまの気まぐれ・一句拝借!

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人去れば人現るる花野原 下條春秋 

2016年09月30日 | 俳句
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下條春秋
人去れば人現るる花野原

広々とした野原に花が乱れ咲いている。透明に澄んだ空の下で人はそれぞれに散策し癒されてゆく。都会の雑踏から逃れ来た人々がぽつりぽつりと見え隠れする。私はある面影を見た気がして後を追った。どの草叢を分け入っても誰も居ない。やはり幻。葛の葉という戯曲は誰の手になったものだったか。『俳句』(2015年9月号)所載。:やんま記

白波の一里のかなた鴨の睦 平畑静塔

2016年09月29日 | 俳句
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平畑静塔
白波の一里のかなた鴨の睦

鴨はカルガモの様に留まって暮すものもあればマガモの様に冬鳥として渡来するものもある。バードウオッチ用の双眼鏡で見るとその美しさに驚かされる。小生もコガモの群れから一羽をクローズアップした時オシドリにも似た美しさに感動したものだ。いま静塔は水辺に佇んでいる。その大きな湖水か内湾だかに白波が立っている。遠く展望すると点々と鴨たちが身を寄せ合って群れている。人間の心眼には家族の睦まじさが見えてくる。一人っ子の小生には大家族の団欒がうらやましい。世は少子化の時代へ加速しつつも突入してゆく。『俳壇』(2010年9月号)所載。:やんま記

茸汁これほど飲めば僧になる 大牧広

2016年09月28日 | 俳句
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大牧 広
茸汁これほど飲めば僧になる

寺に山号あり、即ち山深く世俗を離れて寺がある。寺は菜食主義と聞くから山菜や茸は日常の食品として欠かせない。修行も長くなると茸採りの名人なんぞを輩出する。中には赤く毒々しいやつが顔を出したりするが毒見実験する気はさらさらない。昨日は何茸今日は何茸と膳を飾る。観光用の座禅合宿に参加すると朝昼晩と茸汁と言うはめになる。坊さんはこんな食生活をしているのかと感心する。でもなあこれほど茸汁を飲まないと僧侶には成れないのかなあ。『俳壇』誌(2010・09)より引く:やんま記

葛の花来るなと言つたではないか 飯島晴子

2016年09月27日 | 俳句
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飯島晴子
葛の花来るなと言つたではないか

人里を離れた小道に葛の花が咲いている。独り在りたい事情があってやって来た。何を心配してかその人は追って来た。街の煩はしさを逃げて来たのに付き纏う人間関係。ああ煩はしきは人間関係なり。放っといてよと言われれば尚更放っておけないのである。こんがらがった茂みの中に毒々しくも葛の花が顔を出している。『角川・俳句』誌(2015・09)より引く:やんま記

長き夜の物書く音に更けにける  村上鬼城

2016年09月26日 | 俳句
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村上鬼城
長き夜の物書く音に更けにける

邯鄲か何かが鳴いている。夜は長く物を思い物を書き綴る時間が更けてゆく。鉛筆をさらさらと書き進める音が虫の音と呼応して思いに弾みをつけてゆく。次第次第に自己陶酔の域へと入って行く。やがて集中して虫の音も耳には入らなくなった。さらさらと物書く音が耳朶に響くのみである。『名俳句1000』(2002)より引く:やんま記

秋の燈のいつものひとつともりたる 木下夕爾

2016年09月25日 | 俳句
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木下夕爾
秋の燈のいつものひとつともりたる

秋の黄昏。いつもの場所を歩いてくると何時もの家に燈が点った。そんな些細な事の確認が今は日々の楽しみとなっている。空には宵の明星がぴかりと浮かぶ。街の燈が一つ一つと点って夜が急速に襲ってくる。秋の夜は長い。『名俳句1000』(2002)より引く:やんま記

ふるさとの余白に鵙の高音かな 鈴木美奈子

2016年09月24日 | 俳句
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鈴木美奈子
ふるさとの余白に鵙の高音かな

人は誰でも心にふる里を持つ。例えば生まれた土地に今も暮していても幼馴染と遊び暮らした昔のその土地がふる里の記憶となる。雷親父が居て悪餓鬼が居て弱虫の妹が居てと言う記憶を呼び覚ませば、何故か枯枝の尖んがりに陣取る鵙が一緒に出て来る。立秋も過ぎて日一日と深まる秋。逍遥する私を高みから見物しながらツンと鵙が高鳴いた時、つとふる里の記憶が甦った。ふるさとの記憶の余白には鵙が棲んでいる。掲句は連句「ふるさとの余白」の巻の冒頭である発句からいただいた。連句は和の文芸「座の文芸」と言われ、日本人が古来から親しんできた五七五と七七のリズムを「座」の参加者全員が交互に連ねて一巻の作品にしあげるもの。その発句がやがて現在の俳句ジャンルとして独立をなした。『魚すいすい連句を泳ぐ』(2012)所収。:やんま記

月光にふるれば鳴らん小判草 津島俳車

2016年09月23日 | 俳句
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津島俳車
月光にふるれば鳴らん小判草

通勤の往復に通る道がある。今頃の季節には小判草が繁茂している。小判という名前ではあるが大きさから言って鈴なりの鈴といったところ。何時もの帰り路、残業に疲れた眼には月光が眩しい。裾が草に触れる。月下にそよぐ小判草だ。ふと触れたなら今にも鳴り出しそうな気配がした。『合本・俳句歳時記』(1974)やんま記

高きに登る卑弥呼色白なりと思う 櫻桃子

2016年09月22日 | 俳句
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成瀬櫻桃子
高きに登る卑弥呼色白なりと思う

卑弥呼は中国の史書『魏志倭人伝』に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。卑弥呼は終日鬼道で衆を惑わしていたという。一段と高い邪馬台国の丘陵に立ち農事その他の諸事の吉兆を占っていたのだろう。大和まほろばの原点を統べる女王はきっと美形で色白であったと夢想する。色白は七難隠すと教わった。天高き候秋が一段と深まった。『合本・俳句歳時記』(1974)やんま記

百方に借あるごとし秋の暮 石塚友二

2016年09月21日 | 俳句
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石塚友二
百方に借あるごとし秋の暮

あれこれと気の多い青春だったが何も物に出来なかった。もう半分もう半分と生きている内に時間はそんなに無くなってしまった。衝動買いのカメラや描き掛けの画布が書斎に散乱している。何も手が着かない事ばかりでなんだか借りが沢山ある気分のままである。老いとともに日暮れがぐっと早まる秋の一日。『名俳句一〇〇〇』(2002)所収。:やんま記

倒れたる案山子の顔の上に天 西東三鬼

2016年09月20日 | 俳句
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西東三鬼
倒れたる案山子の顔の上に天
住宅街を下って江戸川へ出る道筋に田んぼがあった。夏には蛍が飛び交い秋には黄金の実りを迎えていた。そこの案山子を例年楽しんでいた。のの字の案山子が青い空にぽっかりと浮く白い雲の流れを見ている。こせこせと世を煩う生活の苦しみなんぞを知らぬかのような円い顔だち。無垢な天がその顔を覆っている。その案山子が倒れ打ち捨てられた。今年巨大な物流センター構築の為田んぼが埋めたてれられたのだ。再び地元に案山子の顔を見る事はなくなる。天高し。『俳句』角川(2015)所収。:やんま記

かなしめば鵙金色の日を負ひ来  加藤楸邨  

2016年09月19日 | 俳句
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加藤楸邨
かなしめば鵙金色の日を負ひ来

秋は小鳥が楽しい。木の実草の実が色付き小鳥たちの餌が豊富になる。その中でもキイキイと声高に枝の高みから下界を見渡しているのが鵙である。一方で人間どもは秋のアンニュイ、秋を愁いている。何処から来る感傷なのか哀しみにとっぷりと浸かっている。キイと鳴いた高みを見上げれば金色の日を負って鵙が辺りを征している。繰り返す季節の舞台は様々な役者を配して秋まつ只中の景へと転じている。『俳句の鳥』(2003)所収。:やんま記

月みゆるところに立てる一人かな 万太郎

2016年09月18日 | 俳句
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久保田万太郎
月みゆるところに立てる一人かな
中秋の名月を味わう季節となった。月光が煌々と射し込み、おおと立ち上がり月を覗きに歩んでゆく。見えた!余りの見事さに無言で立ち尽くす。漢は連れ合いに声を掛ける事なく心静かに一人佇んでいる。諸兄諸姉なら恋人を呼んだであろうに、対人恐怖症の私の場合はやがて月下独酌となるのであった。『名俳句一〇〇〇』(2002)所収。:やんま記


なき友の手紙出てくる夜長かな 井原三郎

2016年09月17日 | 俳句
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井原三郎
なき友の手紙出てくる夜長かな

気候の変わり目だろうか訃報が続く。また自身の年齢もあって同年代の訃報には身につまされる。段ボールに詰め込んである古い手紙の束をひっくり返していたら旧友の手紙や写真作品が出て来た。作業の手が止まりあれやこれやと思い出に更ける。これから秋から冬へ向かって夜がますます長くなり、物思う時間が長くなる。かとて終活とかには全く手が付かないんだなあ。『朝日新聞』(2015・10・26)所収。:やんま記

絹糸のやうな雨降る昼の虫 香田なを

2016年09月16日 | 俳句
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香田なを
絹糸のやうな雨降る昼の虫
秋雨が絹の糸ほどの細い線を光らせている。昼なのに虫が鳴いている。夜の虫時雨とは違って一匹だけが鳴いている。今作者は独りそれを耳にしている。安んじているとも哀しんでいるとも表現できない一時。そんな時間を受容している。まあ小生の様な野暮天の手酌酒とは全く違う静かな時であろう。俳誌『はるもにあ』(第53号)所収。:やんま記