やんまの気まぐれ・一句拝借!

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さびしさは秋の彼岸のみづすまし 飯田龍太

2016年09月15日 | 俳句
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飯田龍太
さびしさは秋の彼岸のみづすまし

菩提寺の壁に落書きがあり、曰く「さびしくば訪ね来てみよ大利根の三ツのほとりの大祖天社へ」。利根川のほとりへの墓参は春秋欠かした事が無い。一人っ子の私には父母の愛を一身に受けていたので、彼ら亡き後の淋しさは格別なのである。また彼岸が来てバスにことこと揺られてやって来た。季節外れのみずすましがくるくると水を舞っている。やはり淋しい。『今昔』(第8句集)所収。:やんま記

汽罐車の火夫に故郷の夜の稲架 大野林火

2016年09月14日 | 俳句
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大野林火
汽罐車の火夫に故郷の夜の稲架

火夫が汽罐車の罐焚きに没頭している。いま汽罐車は彼の故郷を通過している。夜の沿線には稲架が立ち並んでいるが闇の中、火夫は心に沁みついた心眼でそれを見ている。年老いた父母や兄弟は達者で農事に励んでいる事だろう。罐焚きの石炭をくべる手にぐっと力が入った。闇の鉄路に夜汽車の通過音とポーが高らかに響いた。『雪華』(1965)所収):やんま記

魔女とならむか夜長を骨のスープ煮て  櫛原希伊子

2016年09月13日 | 俳句
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櫛原希伊子
魔女とならむか夜長を骨のスープ煮て

秋の夜は長い。その夜長を鳥ガラのスープなんぞを取っている。ぐずぐずぐずぐと単調な音をゆったりと聴いているとそこはかとなく物狂おしい思いに駆られる。日常の些事にも疲れた今日この頃、いっそ魔女にでもなって非日常から飛び去ってみたいなど心巡らせる。余談だが小生にも魔女の一句があり<我が妻は魔女かすぐ出る冷奴>いや面目ない。俳誌『百鳥』(1965・1月号)所収:やんま記

凡句よし駄句よし宇治に赤とんぼ 清水哲男

2016年09月12日 | 俳句
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清水哲男
凡句よし駄句よし宇治に赤とんぼ

凡句もいいが駄句もよい。日々傑作だ佳作だと膝を打つ句作も翌朝にはこんな駄句だったかと自省しては落胆する。結局は凡句だらけの句帳を眺めて溜息の吐息だのと漏らしているのである。「凡句よし駄句よし」とのご託宣にほっと救われた様な気もするが、何だかなあ。まいいか、お茶でも飲んで一服としよう。宇治の茶処にのんびりと赤とんぼが飛んでいる。『打つや太鼓』(2003)所収。:やんま記

赤とんぼじっとしたまま明日どうする 渥美清

2016年09月11日 | 俳句
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渥美 清
赤とんぼじっとしたまま明日どうする

風が来て赤とんぼがどっと流れて来る。一時空に満ちていたがふと消えた。それぞれの居場所を見つけたのか枯れ枝とか棒杭なんぞに止まっている。陽を浴びて一時の安らぎに甘んじている。今日はかく居場所を得たがさあて明日はどうなるんだろう。やっぱり風任せだよな。:森英介の『風天・渥美清のうた』(2008):やんま記

あたらしき電信ばしらならぶ秋 松本邦吉

2016年09月10日 | 俳句
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松本邦吉
あたらしき電信ばしらならぶ秋
街中の電信柱が目障りな事もあるが、遠く知らない世界へ繋がっている事への憧憬を感じたりもする。特に濃霧の中では来し方行く末が視界から消えていて感興はひとしおである。今朝は晴れ、秋空はまさに天高しである。ふと何時もは気に留めなかった電信柱に目が行く。いつの間にやら新しい電信柱が並んでいるではないか。そう言えば東北の復興はまだ道遠しと聞く。:邦吉の『しずかな人 春の海』(2015):やんま記

地に触れず空には遠く秋の蝶 片山由美子

2016年09月09日 | 俳句
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片山由美子
地に触れず空には遠く秋の蝶

天と地の間(あわい)に心地よい風が吹き渡る。野は今秋を深めている。花野は百花繚乱の体をなし、そこにここにと蝶が舞っている。地に触れる事無くかとて秋空高く飛んでいる訳でも無い。春の軽妙な蝶とは趣を変えた妖艶な秋の蝶がそこにある。花在れば花に舞う蝶これ有り。冬の季節にはまだ間がある。『角川・俳句』(2012・11月号):やんま記

秋簾巻いて誘う今朝の風 大西由美子

2016年09月08日 | 俳句
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大西由美子
秋簾巻いて誘う今朝の風

朝いちばんに窓を開ける。爽やかな風がさっと吹き込む。空を良く見ようとまだ掛けてあった簾を巻いた。深呼吸して見上げる空には白い羊雲が連なっている。心地よい秋晴れだ。空が一層明るくなった。空気が美味しいとはこう言う事を言うのだろう。どうぞ今日も健やかに過ごせますように。俳誌『春燈』(2015・11月号):やんま記

墓碑銘のみな短詩めき鳥渡る 宮脇白夜

2016年09月07日 | 俳句
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宮脇白夜
墓碑銘のみな短詩めき鳥渡る

大正生まれのクリスチャンと言うヒントから、教会風の墓地を連想する。彼の人の生前を表した墓碑銘が刻まれている。一言で語られたその人物は極端に美化・聖人化されている。「人を愛し人に愛されこの世に美しき園を築きし人此処に眠る」てな事かな。小生だったら何と刻まれるのか、「天空に留まり切れなかった鬼やんま此処に眠る」でどうだろう。出典不詳:やんま記

たましひの独り歩きや今年酒 白坂拓

2016年09月06日 | 俳句
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白坂 拓
たましひの独り歩きや今年酒

義父の言によれば酒はサケと言う物の気が統べてをり、こちらが油断していると直ちに魂を占領してしまうのだそうだ。早稲の刈入もとうに済み秋風が身に染む頃の赤提灯に「今年の新酒入荷」とあればお父さんは吸い込まれるようにお店に消えてゆくのであります(小沢昭一的ココロなのである)。女将の応対もいつになくご機嫌である。上機嫌がすっかりこちらに乗り移った頃じゃあねと手を振って店を出る。肉質が負う重力を離れて魂がうきうきと独り気儘に歩いている。♪天国良いとこ♪酒は美味いし♪姉ちゃんはきれいだ、ウイッ♪。酒っていいな。出典不詳:やんま記

蜩や白緒の草履そろへあり 藤原絹子

2016年09月05日 | 俳句
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藤原絹子
蜩や白緒の草履そろへあり

惜しむつくづくと入れ替わってかなかな哀しっが鳴きしきる。たかが虫けらの鳴き声も心持つ人間にはその喜怒哀楽の心の様に呼応する。かなかなの声がまこと秋の哀しさに呼応する。何の集まりか白い鼻緒が揃えてある。冠婚葬祭の哀しい方だろうか。抑えきれない哀しみの目に茫と映っているは、ただ白い鼻緒の並んだしらっとした現の風景である。蜩の声はまこと哀しい。『空へそらへ(第2集)』大阪百鳥句会(2016)所載:やんま記

コスモスのあたりに飛べばホームラン 浜崎壬午

2016年09月04日 | 俳句
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浜崎壬午
コスモスのあたりに飛べばホームラン

天高く馬肥ゆる秋、地にはコスモスが咲き乱れている。そんな天が下の大地では草野球の真っ最中。九回の裏ツーアウトフルベース、ボールだストライクだと言っている内に、ピッチャがサインにうなずきバッターが構えた。カーンと快音が響き歓声が静まった。球はあれよあれよと外野手の頭上を越えた。フェンスなど無いからコスモスのあたり迄飛んだらホームランと決まっている。球はぐんぐんぐんぐんと伸びてゆく、、、『彩・円虹例句集』(2008)所載:やんま記

別るるや夢一筋の天の川 夏目漱石

2016年09月03日 | 俳句
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夏目漱石
別るるや夢一筋の天の川
会者定離の定めなれども別れと言うのは淋しきもの。見送った人の姿が消え去って仰ぎ見る空には寂々と銀河が流れている。夢を語り合った夢物語が胸に甦る。究極の別れは死別。人は死して何処へ行くのか。天国説や草葉の陰説、小生はただ「消える」と言う説。宮沢賢治の銀河鉄道を思い出す。:やんま記

秋の雲立志伝みな家を捨つ 上田五千石

2016年09月02日 | 俳句
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上田五千石
秋の雲立志伝みな家を捨つ

青雲の志を持って青年は羽ばたたく。そうした青春の思いが今はほろ苦い。身内に滾る熱き思いに処世の事など一切頭に浮かばない。ただ只管に夢を見て夢に突き進んだ。エネルギーに満ちた時節、やって砕けろと事に当たって突き進んだ雲の峰。立志伝には誇らしげに家を捨て、裸一貫で飛び出した心意気が協調される。そしてああして為る様になってその夏が終わる。あの時の青年は夢考えもしなかった家を持ち妻を得て子を生している。それが夢の辿り着いた姿だった。それで良いそれしか無い。そういえば小生の持ち家ローンもやっと終った。『田園』(1968)所収。:やんま記


淋しさに又銅鑼うつや鹿火守  原石鼎  

2016年09月01日 | 俳句
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原 石鼎
淋しさに又銅鑼うつや鹿火守

鹿などから農作物を守る夜番が警鐘として時折銅鑼(ドラ)を鳴らして脅している。しかし今夜の乱打は何だろう。まるで淋しさに耐えかねて打っている様に聞こえてくる。ま、名句の解題鑑賞は数多の詩家に譲るとして、南瓜頭で愚考するに人は喜怒哀楽につけ鳴り物をならすものだと思う。冗談ですが小生なら<楽しくて又銅鑼うつや鹿火守><苛ついて又銅鑼うつや鹿火守><可笑しくて又銅鑼うつや鹿火守><哀しくて又銅鑼うつや鹿火守>などなど有りかな?無い! 岩淵喜代子著『評伝:頂上の石鼎』(2009)より引く。:やんま記