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やんまの気まぐれ・一句拝借!

俳句喫茶店<つぶやく堂>へご来店ください。

懐手人に見られて歩き出す 香西照雄

2016年11月30日 | 俳句
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香西照雄
懐手人に見られて歩き出す

懐手をしていると何か考えに耽っている様に見えてくる。多くの場合そうなのだろう。あるいは忘我の境地であったろうか、ふと視線を感じて我に返る。一種のテレを振り払うべく歩き出す。さてものを考えるに腕を組むのは万人に共通なのだろうか。確かに自分も改まって難題を前にすると腕を組んでいる。もっとも小生の場合ただぼーっとして組んでいる場合がほとんどだが。懐手は寒さが厳しい冬の季語。角川「合本・俳句歳時記」(1974)所載。:やんま記

コスモスひょろりふたおやもういない 渥美清

2016年11月29日 | 俳句
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渥美清
コスモスひょろりふたおやもういない
コスモスに郷愁を感じてる寅さんこと渥美清である。その故郷にはもう父も母も居ない。だから帰るべき故郷はもうない。父は頑固者だったが働き者であった。母は辛強くその懐は暖かかった。職業が寅さんとなれば素顔で生きられぬ日々である。故郷へ置いて来た本当の自分の顏を忘れかけている。あの頃へ帰りたい、帰れない。今年も又例年とおなし季節の花がひょろりと咲いている。森英介・渥美清のうた『風天』(2008):やんま記

遅れ来て鯛焼配るゼミ仲間 脩美

2016年11月28日 | 俳句
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脩  美
遅れ来て鯛焼配るゼミ仲間

極少人数の専門テーマに集うゼミの時間、いつもの仲間が遅刻である。五分待っても来なければと雑談を始める。ではここまでと当番の論文開陳となる、ジャストタイミングで件(くだん)の仲間が扉を開く。手に持った新聞紙の袋を開ければ何と人数分の鯛焼きが出て来た。おお!とばかりに飛びつけば論文テーマは既にすっ飛んでいる。個性丸出しの突飛な話題の展開が続く。学問とは友を得る事なり、とのやんま語録がここ確定する。因みに尻尾まで餡入りの鯛焼店が人形町にある。俳誌「はるもにあ」(2016年1月号)所載。:やんま記

水脈消えてまたさざなみの小春かな 村上鞘彦

2016年11月27日 | 俳句
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村上鞘彦
水脈消えてまたさざなみの小春かな
春の様な穏やかな日が続く小春日である。僅かながらの風にさざ波がたっている。些細な心のさざ波に呼応している様でもある。一艘の船が水脈を引いて去っていった。そんな湖水に遊ぶ水鳥を眺めていると心がいつしか鎮まってくる。暫し佇んでいると眼前を群れなした一軍がこれも水脈を引いて彼方へと消えてゆく。後には水と心のさざ波が交響している。俳句誌「角川・俳句」(2012年1月号)所載。:やんま記

秋の夜の酒は冷やさず温めず 桑島正樹

2016年11月26日 | 俳句
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桑島正樹
秋の夜の酒は冷やさず温めず
少し時季外れになったが、秋の気候はまこと過ごしやすい。運動に良し芸術に良し五感が冴える。となれば食欲の秋の酒好きの酒も捗る。夏は冷やしたく冬は温めたくなる酒も今は常温ですいすいと喉に優しい。昔「卯波」という居酒屋で燗をしてと頼んだら熱燗ですか人肌ですかと聞かれた。小生は一年通して人肌である。天高く馬肥ゆる秋小生もまた少々肥えるのは例年どうりのこと。読売新聞「読売俳壇」(2016年10月17日)所載。:やんま記

我が雪とおもへばかろし笠の上 其角

2016年11月25日 | 俳句
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榎本其角
我が雪とおもへばかろし笠の上
北国の雪便りもテレビで報じられる昨今、雪下ろしの苦労とか屋根が潰れただとかの風景が映し出される。雪の中を歩く。雪の本性は水であるから積る程に重くなる。地球温暖化が進まなかった江戸の大雪に庶民はたじろんで居る。其角おっちゃんが風流を気取って自分の雪なんざあ軽いもんだぜと粋がっている。でも坂道では少々重いのか歩みがゆっくりとなるのは仕方が無い。彩図社「名俳句一〇〇〇」(2002)所載。:やんま記

子がひとりゆく冬眠の森の中 龍太

2016年11月24日 | 俳句
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飯田龍太
子がひとりゆく冬眠の森の中

山は蛇や熊を始め冬眠の季節となった。森の中にも深い眠りの気配が漲っている。ふと見ると子がひとりその森を歩いている。山々に囲まれたこの地域の透明感が漂っている。少しレンズを歪めて考える。死を絶対的「無」とするなら冬眠は「夢」見る生である。冬眠する作者のその夢の中に少年が歩いている。それは孤独な夢見る作者自身の投影でもあろうか。彩図社「名俳句一〇〇〇」(2002)所載。:やんま記

冬あたたかし観音に千の御手 古屋多代子

2016年11月23日 | 俳句
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古屋多代子
冬あたたかし観音に千の御手

風も無く晴れ渡る空があって暖かな冬の一日。千の手を持つ観音様へやって来た。私は浅草生まれなので観音と言えば浅草のイメージが浮かぶがここは秘仏である。奈良や京都の古都での観光で立ち寄った大仏や阿修羅像や千手観音が記憶に固定している。自分では無宗教だと思っているがピンチの度に何かに祈っている自分ではある。きっと祈りは万人にあるのだろう。いま観音の千の手が千人の祈りに応えている。雄山閣「新版・俳句歳時記」(2001)所載。:やんま記

触るることあらず戻るや冬芒 福島冨美子

2016年11月22日 | 俳句
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福島冨美子
触るることあらず戻るや冬芒
冬の陽が低く射している。芒の原に爽やかな風が吹く度に銀波金波がゆれる。今各地の河畔は秋の穂草が盛る候である。風が穂に遊び綿毛が澄んだ気層に舞っている。そこに作者は究極の美を見、神の美であると知るのである。この神々しいものに作者は触れる事が出来ずに帰り来るのであった。俳誌「春燈」(2016・1月号)所載。:やんま記

穴まどい方向音痴みぎひだり 寂仙

2016年11月21日 | 俳句
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佐野寂仙
穴まどい方向音痴みぎひだり
蛇がそろそろ冬眠の為穴に入る。だがそくさくと入る訳ではない。地上の日溜りの温さに気持ち良くとぐろなんぞを巻いている。未練たらたら踏ん切りがつかないのは昨今の小生の姿でもある。『吾、十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る』 という、孔子の人生訓に寄れば四十才にして惑っていてはいかんと心得ねばならぬ。七十の坂道にて「我生ある限り惑う・やんま語録」とは大きな違いだ。:ネット「つぶやく堂俳句喫茶店」(2016・10・22)所載。:やんま記

緊張の弁論大会天高し 吉見知夏

2016年11月21日 | 俳句
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吉見知夏
緊張の弁論大会天高し

ふと中学校3年の秋を思い出した。各クラス代表が弁を奮う大会があった。小生は4月3日の生まれで周囲の仲間よりは口が先立っていたので代表に担がれた。春の運動会は全員何かに出られるがこちら代表選手となると緊張する。空あくまでも青く澄み渡る校庭に全員座り込んだ。一段高い朝礼台に上り暗記した原稿をとうとうと論じる、はずがすっかり文面を忘れてしまっていた。「空が青いって気持ちいいですね、これ以上何も言うことありません」と降段してえらく叱られたこと、面目ない。:俳誌「百鳥」(2016・1号)所載。:やんま記

小春の旅長き汀に終りけり 大野林火

2016年11月20日 | 俳句
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大野林火
小春の旅長き汀に終りけり
暑い夏の日も過ぎ愁いの秋も過ぎ去った。思えば今年もよく歩いた。芭蕉の細道ではないが旅に明け暮れた一年だった。水は一滴の誕生から川を海を巡って雲となり雨となり緑の大地へ降り注ぐ。こうした雄大な旅を終えた水が目前の汀を浸している。人の生も日々旅にして旅を栖としているのかもしれぬ。穏やかな小春のいっとき晩節かくありたし。角川「合本・俳句歳時記」(1974)所載。:やんま記

着ぶくれて晩年にして無為無欲 真砂女

2016年11月19日 | 俳句
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鈴木真砂女
着ぶくれて晩年にして無為無欲

急激に寒くなって和装にしてこの着膨れ。さりとて現役の居酒屋の女将であれば動き易くなければならぬし加減が難しい。兎にも角にも何時もの手順で何時もの作業に取り掛かる。来る日も来る日も平凡に暮らす昨今である。惚れた腫れたの色恋ざたも大昔のこと。今は無為無欲の日々に安住している。佳き晩年だと思いつつ。:鈴木真砂女『柴木蓮』(1998):やんま記

行く秋の鳥もすなるといふおくび 牧タカシ

2016年11月18日 | 俳句
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牧タカシ
行く秋の鳥もすなるといふおくび
晩秋から初冬にかけて寒さがふいに和らぎぽかぽかの陽気になる事がある。猫が長々と背筋を伸ばし大きなおくびするのもこんな暖かな一日の縁側である。小鳥来る庭先を眺めていると赤い実を啄み終わった鵯が枝先に休憩している。おおきな口を開いてこれはおくびに違いない。小春日に鳥につられて思い切りおくびする小生ではある。俳誌「はるもにあ」(2014年12月号)所載。:やんま記

目がふたつマスクの上にありにけり 斉藤志歩

2016年11月17日 | 俳句
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斉藤志歩
目がふたつマスクの上にありにけり
乾燥した天候が続きマスクをする人が多くなった。風邪を引いてしまった人も予防の人も。最近のマスクは顔面をすっぽり覆うタイプとなってそれこそ目だけが露出している。目だけの顏が歩いているのはいいがこの人誰って場面がでてくる。マスク同士挨拶を受ければ取り合ず会釈の挨拶はするが、果たして向こうはこちらを認識できているのだろうか。俳句誌「角川・俳句」(2016年1月号)所載。:やんま記