山代中ブログ~伊万里市立山代中学校~

学校の日常の様子や山代の行事・歴史や自然等について、いろいろな記事を掲載しています。

山代の自然と歴史9~山代町の炭鉱 その2~(動画有り)

2009年10月12日 16時38分36秒 | 自然と歴史

 山代町の炭鉱については、「山代の自然と歴史6~山代町の炭坑~」で1度紹介しました。この山代町の炭鉱についても、2006年に伊万里わくわく映像塾の活動の一環で、山代中2年生により動画が作成されています。  

 実際は、7分ぐらいの作品ですが、ブログの容量の制約と個人情報保護の観点から一部を削除して、動画ファイルを2つに分けて紹介します。 画像をクリックしてください。動画が再生されます。(携帯からは、見ることができないようです・・・。)

  
     <前編>

  
      <後編>    

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山代の自然と歴史8~佐代姫伝説~(動画有り)

2009年10月11日 17時10分09秒 | 自然と歴史

 山代町には、「佐代姫神社」(山代町浦ノ崎)「佐代姫塚」(浦ノ崎病院敷地内)があり、佐代姫にまつわる伝説が伝えられています。



唐津地方にも佐代姫伝説がありますが、伊万里地方に伝わる伝説では、以下のように語られています。
 「6世紀ごろ、朝鮮半島へ出征していった、恋人の大伴狭手彦(おおとものさでひこ)を追って、小舟で船出した佐代姫の舟が、嵐にあって山代町浦之崎に流れ着きました。そのときはもう佐代姫は亡くなっていたので、浦之崎の人びとは墓をつくって大切におまつりしたということです。次の年の浦ノ崎は大変な豊漁になりました。そこで、村人は、海から流れてきた天女のおかげと佐代姫を祭ったということです。」(「伊万里ふるさと読本第8集」より)

 この佐代姫伝説について、2006年に伊万里わくわく映像塾の活動の一環で、山代中2年生が動画を作成しています。3分ちょっとの面白いものに仕上がっています。どうぞご覧ください。

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山代の自然と歴史7~川南造船所~(動画を付加しました)

2009年10月10日 17時22分09秒 | 自然と歴史

 (この川南造船所についても、2006年に伊万里わくわく映像塾の活動の一環で、山代中2年生により動画が作成されています。10月3日の記事に付け加えるかたちで紹介します。)

 松浦鉄道(MR)で平戸方面に向かうと、浦ノ崎の駅の手前で、右手側に草が生い茂ったコンクリートの廃墟のようなものが見えます。これが川南造船所(かわなみぞうせんじょ)の跡です。

 


川南造船所(東から) (伊万里ふるさと読本ー第6集 歴史編ーから引用)

 ここは、第二次世界大戦のときに軍需工場となって、輸送船や海防艦など戦争に必要な船を主に造っていました。終戦間近には、船の先端に爆弾を積んで、1人で操縦する「人間魚雷」や「ベニヤ製の小型船」も造られたということです。
 そのため、アメリカの戦闘機の機銃掃射を何度も受け、今も工場の壁には、その時の弾の跡が生々しく残っています。

 先日の休みに、川南造船所跡と、そのすぐ近くにある向山炭鉱跡に行ってみました。東に回って海のほうから見たのですが、夕暮れ時で、人影もなく、時代の盛衰が感じられ、さみしい気持ちになりました。

<この記事の内容については、伊万里市教育委員会が発行している「伊万里ふるさと読本ー第6集 歴史編ー」から引用しています。>

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山代の自然と歴史6~山代町の炭坑~

2009年09月28日 11時48分31秒 | 自然と歴史

 昔から「燃える石」と呼ばれた石炭が,伊万里地方で採掘されたのは,19世紀初めと言われています。


  (校長室に展示されている石炭)

 山代町には,久原・立岩・西分(向山炭坑)・鳴石(長者炭坑)などに炭坑がありました。伊万里市内の炭坑は,明治から昭和20年代前半まで,盛衰はあったもののたいへん活気があったと言われています。山代町では,第一次対戦後の不況のために,西分の向山炭坑をのぞき,すべての炭坑が閉山しました。


   (向山炭坑の跡 写真1)

   (向山炭坑の跡 写真2)

 昭和20年代後半,石炭から石油へのエネルギー革命が急速に進み,昭和38年(1963),向山炭鉱閉山,昭和45年(1970年),大川町の立川炭坑の閉山を最後に,伊万里市内の炭坑は,すべてなくなります。

<この記事の内容については、伊万里市教育委員会が発行している「伊万里ふるさと読本ー第6集 歴史編ー」から引用しています。>

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山代の自然と歴史5~伊万里県と西山代村~

2009年09月22日 23時26分19秒 | 自然と歴史

 伊万里市の近代(明治以降)は、めまぐるしく地名が変わっています。

 「伊万里県」とは、明治初期にわずか9カ月足らず存在した県名です。

 明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県によって、佐賀藩などの諸藩は県に変わります。明治4年9月4日、佐賀県は人心一新を図る目的で県庁を伊万里に移しました。そして、いくつかの村などを統合して伊万里県が誕生しました。

 同11月には、唐津などの4つの県や村を統合し、現在の佐賀県に対馬を加えた広い範囲が伊万里県となりました。

 明治5年9月29日、県庁は再び佐賀へ移り、伊万里県は佐賀県と改称されました。その後、他県と合併したりしながら、明治16年(1883年)5月に佐賀県は、長崎県から分かれ、現在に至っています。

 そんな中、明治22年(1889年)市町村制がしかれ西松浦郡は、2町14村に編成されました。そのうち現在の伊万里市に入っていたのは、伊万里町、牧島村、大坪村、大河内村、黒川村、大岳村(後に波多津村)、南波多村、大川村、松浦村、二里村、東山代村、西山代村でした。山代は、この頃、西と東に分かれていたんですね。

 そして、昭和11年(1936年)、西山代村は、山代町に変わりました。

<この記事の内容については、伊万里市教育委員会が発行している「伊万里ふるさと読本ー第6集 歴史編ー」から引用しています。>

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山代の自然と歴史4~楠久津の漁民~

2009年09月22日 10時12分20秒 | 自然と歴史

  

 山代中から南へ車で5分も下ったところに楠久津という場所があります。

 江戸時代、伊万里湾に面した楠久津では、漁業が盛んでした。最盛期には、漁船35隻、漁民120人以上がいました。

 楠久津の漁民は、鯛釣りを専門として、特に子鯛釣りの妙技は、良く知られていました。ここで釣った鯛は、そのまま活魚として売ったり、すぐ串に刺して焼いたりしました。また、五島沖など遠方で釣った鯛は、その場で塩漬けにされ、小城や佐賀まで運ばれました。これらは、「楠久鯛」と呼ばれ、新鮮さとおいしさで評判が立ちました。

 そのころの漁場であった山代の海は、今では、工業団地が造成され、伊万里湾大橋が架かっています。

<この記事の絵や内容については、伊万里市教育委員会が発行している「伊万里ふるさと読本ー第6集 歴史編ー」から引用しています。>

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山代の自然と歴史3~城山 飯盛城址~

2009年09月21日 09時55分25秒 | 自然と歴史

  

 中世(平安時代の終わりから鎌倉・室町時代)、西九州一円に確固たる勢力を誇っていた一族、松浦党。彼らは、源久(みなもとのひさし)という武士を、自分たちの共通の祖先とする一族といわれ、倭寇と呼ばれる海賊として朝鮮半島や中国大陸沿岸にまで行って交易をしたり、元寇で活躍したりとあり・・・少し調べただけでも魅力ある一族です。

 山代町一帯も松浦党と関係が深いところです。山代中から南西に見える城山(・・・容姿が富士山に似て美麗なことから山代富士(標高346メートル)と呼ばれています・・・)、この山頂に、約850年前に松浦党の二代党祖の源 直(みなもとのなおす)が築き、直の六男で山代郷の大部分を支配した山代囲(かこう)から約400年間にわたって守りの要であった山城、飯盛城の城趾があります。この城は、このあたりの地名をとった下松浦党山代氏の拠点となったところといわれています。

 また、以前にボランティア清掃を行った飯盛神社も松浦党にゆかりの神社です。

<この記事の内容については、伊万里市教育委員会が発行している「伊万里ふるさと読本ー第6集 歴史編ー」から引用しています。>

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山代の自然と歴史2~小島古墳~

2009年09月20日 22時02分55秒 | 自然と歴史

  

 山代中のある山代町は、伊万里市外から赴任してきた者にとって、自然や歴史に興味深いものが多々あります。少しずつ紹介していきたいと思います。

 小島古墳は、山代中より北へ車で5分も行けば着く、山代町久原にある小島の頂上に築かれた前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。

 小島は東西約200m、南北約100mの小さな島で、現在は陸続きになっていますが、かつては沖合約400mに浮かぶ島でした。
 この古墳は、全長約43m、前方部(ぜんぽうぶ)幅約25m、高さ約3.5m、後円部(こうえんぶ)径約22m、高さ5.2mです。内部には、天井ドーム型の横穴式石室があり、その高さは3.8mです。

 古墳は、出土遺物や石室の構造などから6世紀中頃から後半に築かれたと思われます。県内で島に築かれた前方後円墳としては、唐津市呼子町加部島(かべしま)の瓢塚(ひさごづか)古墳だけが確認されています。

 古墳は、豪族が自分の勢力の大きさを誇るために築いた巨大な盛土のある墓です。小島古墳が島の頂上にあることから、島が見える伊万里湾岸に暮らし、海上交易や漁労をしていた人々の王が葬られたと考えられます。

<このブログに用いた写真や地図、内容については、伊万里市教育委員会が発行している「伊万里ふるさと読本ー第6集 歴史編ー」から引用しています。>

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山代の自然と歴史1~城山・伊万里湾大橋~

2009年09月13日 22時29分23秒 | 自然と歴史

      

 本校の校区伊万里市山代町は、佐賀県の最西部に位置し、長崎県北松地区と境を接し、伊万里湾の海岸線沿う南北10Kmの狭長な町である。その中で、山代中学校は、西方に、城山を中心とした山々、東方に、伊万里湾大橋が架かる伊万里湾と、豊かな自然に囲まれた高台に建っている。

 山代という地名の由来には、いろいろ説があると思われるが、平野部から見た「山の背中」というあたりにあるのではないだろうか、日本中に山代という地名は数箇所あり、山に囲まれた場所のようだ。

 また、このあたりは松浦党にもゆかりが深く・・・、この地方の歴史を知ることも、地域を理解するためには大切なことだと思う。 

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