後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

病気を治したイエス・・そして薬草と近代医学

2014年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム
自分にとって大切な人が病気になったら神に祈ります。早く治りますようにと祈ります。入院して最新の医療を受けていても祈ります。これは人間としての自然なことです。
ですから病気と信仰には古来から深い関係があります。
キリスト教の新約聖書にはイエス様が信仰の篤い人の眼を見えるようにしたり、病人を歩けるようにしたことが書いてあります。一度死んだ人を甦らせたことも書いてあります。
私はそのような奇蹟をすべて信じています。そんな馬鹿馬鹿しい話は問題にしないと笑うよりも信じようとした方が優しい気持ちになれるのです。
しかし神に祈っても病気が治らないことがあります。そこで昔の人々は薬草を粉にして飲んだり煎じて飲みました。日本に近代医学が入って来るまではいろいろな薬草だけが頼りでした。
私の子供のころは祖母がゲンノショウコを乾して煎じて苦いものを飲まされたものです。夏に蚊が家に入ってくると除虫菊の乾したものを燻して煙で蚊を追いやったものです。
昨日そんなことを思い出し、薬草植物園の散歩に行きました。小平市にある都立の薬草園です。
そうしたらあんなにいろいろあった薬草がきれいさっぱりと無くなって畑だけが広がっています。そして畝と畝の間には腐葉土が埋めてあります。薬草は冬は休みです。球根を植えたり種を撒いて育てるのが普通なのでしょう。
薬草はありませんでしたが裏の雑木林が黄葉しています。例によって家内が黄葉の写真を撮っています。その中から5枚を選び薬用植物園の黄葉の写真をお送りいたします。中にある紅葉した木はカエデ科のハナノキと言い、葉は楕円形です。
家内が写真を撮っている間、私は何故薬草があるのかと思いを巡らせながら散歩しました。
愛する人の病気を治そうと人々は必死で薬草を探しました。西洋でも薬草が広く使用されていました。中国では漢方医学が発達し、現在でも漢方医が病気の治療にあたっています。日本でも現代医学と併用して漢方薬を使っています。
そして薬草を用いながら人々は祈ったに違いありません。
教会では時々、すべての国々の病人のためにお祈りをすることがあります。祈れば必ず病気の苦しみが無くなると信じて祈るのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。
後藤和弘(藤山杜人)










山林の中の小屋の庭の落ち葉掃きをして来ました

2014年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は快晴でした。下の写真のように山梨県の甲斐駒岳が蒼穹に輝いていました。

この甲斐駒岳の麓の山林の中に小屋があります。昨日行って見ましたら庭に落ち葉が散り敷いていました。下の写真は小屋の窓から落ち葉の散り敷いた庭の様子を撮った写真です。

そこで昼食後、家内と一緒に落ち葉掃きをして来ました。
以前は落ち葉は全て焚火にくべて燃やしてしまいましたが今年は燃やさないで庭の窪地に集め土に還るようにしました。燃やすとダイオキシンなどの有害成分が出て空気を汚すので焚火にくべるのは止めました。
しかし落ち葉の燃える匂いは郷愁をさそう懐かしい匂いなので焚火をして少量の落ち葉を燃やしました。懐かしい香りが林間に漂い、少年の頃の落ち葉焚きを思い出しました。
下の写真は落ち葉掃きをして少し綺麗になった小川の水汲み場の写真です。

一時間ほど落ち葉を掃き集め窪地に集めました。まだ完全に綺麗になったわけではありませんが、下の写真のように小屋の回りだけは地面が見えるようになりました。

周囲を綺麗にしてから500m位離れた林の中の山荘に30年位独りで住んでいる友人の所の寄りました。下の写真がその山荘ですが、車は入れません。100m位手前に車を止めて歩いて行きます。

その友人の所には家内と一緒によく寄ります。
昨日は下の写真のように黄葉しているクヌギの大木の下で一緒に日向ぼっこをしながら話をしました。

昨日は朝8時に家を出て新鮮な空気の中で落ち葉掃きをして友人の山荘に寄って帰って来ました。自宅に着いたのは午後4時30分でした。
山林の中の小屋は写真のように質素な小屋です。人里はなれているのでイノシシ、鹿、猿などが沢山棲んでいます。キツネもタヌキも時々見えます。
そのような場所で落ち葉掃きをしていると自分も鹿やイノシシの仲間になったような気分になります。そして深い寛ぎを感じるのです。そんな生活を1974年に小屋を建てた時以来変わらず続けているのです。昨日の日記でした。

山林の紅葉は老境の華やぎに似ている

2014年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム
老境にいたると現世のしらがみから解放され心が軽くなります。毎日明るい気持ちで楽しく暮らせます。自然の美しさも一層しみじみと理解できます。全てに感謝したくなります。憂いも心配もなくなります。
何か人生が急にはなやかになったような気分になります。
このような状態を老境の華やぎと言うのでしょうか?
いっぽう山林の木々もパステルカラーから新緑に移る春、梅雨の季節、青葉の真夏、黄葉の初秋といろいろな季節にそれぞれの枝葉をしげらせます。樹木は美しいものです。何時見ても感動します。
そしてやがて冬が来て落葉します。その直前に華やかな紅葉になり山々を飾ります。
ひとことで紅葉と言っても樹木の種類や、生えている場所や、陽射しの強弱などによって色合いが千差万別です。黄、褐色、橙色など紅葉の万華鏡です。
毎年、毎年見とれながら、やがて落葉する前の一瞬の彩られた葉は人間の老境のはなやぎと同じではないかという想いにとらわれます。
今年もいろいろな場所で紅葉を見てきました。近所の公園のユリノキの大木の黄葉。ケヤキ、クヌギ、コナラなどの茶色。そして桜の木の濃い紅葉。山梨県の昇仙峡の紅葉は圧巻でした。
しかし毎年行っている山梨県の甲斐駒岳の下に続く七里が岩の紅葉はまだ見ていません。そこで昨日、車を駆って七里が岩の崖下まで入って行って写真を撮ってきました。韮崎から小淵沢あたりまで30Kmくらい続く断崖です。家内もあれこれ構図を考えて撮っていました。しかしその長さ大きさを撮ることは出来ませんでした。それらの数多くの写真から5枚を選んでここにお送りします。お楽しみ頂かれば嬉しく思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。
後藤和弘(藤山杜人)










文化とは何でしょうか(4)霞ヶ浦の魚文化とドイツの魚文化

2014年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム
世界の各地ではいろいろな魚が取れます。その魚の料理方法や食べ方は地方によって違います。いわゆる魚文化とは魚の食べかたの文化なのです。
そんな魚文化を霞ヶ浦とドイツとの2つの地域で見てみましょう。魚文化の違いが分かって興味深いとお感じ頂ければ幸いです。
@霞ヶ浦の魚の食文化―佃煮の郷愁
霞ヶ浦の周りには蓮田が広がり、夏には大輪の蓮の白い花が風に揺れています。ハスの葉の波に浮かぶ向こうに鰻(ウナギ)屋の看板が見えます。
天然仕立てのウナギは茨城風の濃い味で香ばしく仕上げてあります。季節によっては川エビのてんぷらや、かま揚げ、透明な生の白魚の刺身、ドジョウの柳川鍋などがメニューに載っています。みんな霞ヶ浦で取れた魚やエビです。
随分と以前ん、クルーザーで沖宿の港へ行ったことがありました。の中を歩くと、湖の魚の佃煮を売っている古い店があります。
ワカサギ、小ブナ、ハゼのような小魚、小エビなどの佃煮が種類別に、少しずつ味付けを違えて、昔風のガラスケースに並べてあります。分別しない小魚、小エビ類を一緒に佃煮にしたものもありました。
当時は、沖宿まで行かないと霞ヶ浦の佃煮が手に入らないものと思い込んでいました。ところが、その後、土浦駅近くの通りに何軒も佃煮専門の店があることが分かりました。
思えば、昔、肉や卵が貴重で入手できず、佃煮でご飯を何杯も食べていたものでした。その時代、木の箱に納められた佃煮の詰め合わせが贈答用としてもてはやされていたことを思い出します。そのような贈答品が消えてしまってから久しくなります。ですから、最近、佃煮を買うたびにセピア色の写真を見るような郷愁を覚えます。佃煮を買っては食べ残し、また買うのは郷愁を買っているのです。
その一方で、新しい魚の食文化が浸透しています。
土浦に大きな新鮮市場が出来、那珂湊漁港直送の珍しい魚、魚…。アンコウ、ドンコ、オコゼ、ホウボウ、カナガシラ、馬面ハギ、小さな石ダイ、メバルなどの地魚が一面に並んでいるのです。
その上全国で取れた魚が売られているのです。生きた上海ガニまで格安で売っているのには吃驚します。
@ドイツの魚文化とライン河のウナギ
ドイツに住んでいた1969から1970年、魚をよく食べました。
ニシンやマスは小麦粉をまぶしてムニエルにします。
うろこがほとんどないドイツのコイは溶いた小麦粉をつけて煮え立つ油でカラリと揚げます。
タラの切り身はムニエルやポアレです。
ノルウエー産サケの切り身は高級な塩引きになります。
ニシンは香草とともに酢づけにしてガラス瓶に密閉して売っています。
ウナギは燻製にするか、生のままぶつ切にしてアールズッペというスープにするのです。
ある時、ライン河の生きたウナギが市場でうごめいていました。購入し、下手ながらも三枚におろして蒸し上げ、醤油、砂糖、日本酒で作ったタレをかけオーブンで焼き上げたのです。香ばしい匂いが家中に漂うのです。
大きな期待で食べたらすごく不味いので吃驚しました。
ライン河のウナギは小骨が硬く、蛇を想像させるような野生の嫌な匂いがして食べられたものでない代物でした。
用意した高級なモーゼルワインも台無しです。
その後、日本でウナギの蒲焼を食べるたびに、ラインウナギのまずさを思い出して苦笑しています。
さて、ドイツの魚文化で特筆すべき一品があります。
生のニシンを、フナずしのように発酵させたものです。マテイエステー・ヘリングといいます。
イカの塩辛と、くさやの干物をミキサーにかけたような味です。
はじめは臭くて食べられません。しかし、たいていのレストランのメニューにあり、腐ったような感じのグチャグチャに身が崩れた一匹が大きな皿に出てきます。結構高価です。
はじめは辟易(へきえき)しましたが、二、三回食べて病みつきになってしまいました。
しかし、マティエステー・ヘリングにも上出来や失敗作もあります。
上出来なものは臭いが高貴な味がするのです。出来損ないは腐ったような味がするだけです。
日本では一度も見たことがない代物です。
どこの国にも、どこの地方にも独特な魚の食文化があり、われわれの人生を味わい深いものにしているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
下の写真は霞ヶ浦でシラウオ、ワカサギ、小ブナ、ハゼ、小エビなどの佃煮用の魚を取っている伝統的な帆引き漁の風景です。






文化とは何でしょうか(3)北欧のサウナ文化の寸描

2014年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム
スウェーデン、ノルウエイ、フィンランドなどの北欧の国々にはサウナを楽しむ文化があります。それが日本に入って来ると全く違った文化になってしまいます。
今日の話は文化の変容という話です。楽しいサウナという実例を使って分かりやすくご説明します。サウナの使い方が北欧と日本では非常に違うのです。
説明の前にまずスウェーデンの風景をご覧ください。

(上はスウェーデンの夕暮れ http://free.gatag.net/2011/05/24/190000.html )
北国のスウェーデンを旅すると、荒涼とした風景に夏でも心身ともに冷えます。
サウナは家族でも楽しみますが、旅人をもてなすためにも使います。疲れた旅人にくつろいで貰うために提供する最大の歓迎のしるしなのです。
昔からの北欧の文化なのです。
サウナの設備は日本の大浴場にありますが、お風呂と一緒にあるのが普通です。風呂に入ったりサウナに入ったりしますが、北欧では風呂が絶対についていません。純粋にサウナだけを楽しむのです。
1972年秋、ストックホルム工科大学へ三ケ月間行った折、大学のゲスト用サウナへ二度ほど招待された。訪問者をもてなすためのサウナが必ず大学についているのです。広いサウナで16坪くらいはありました。日本の大学にサウナはありません。
北欧のサウナは、極北の香り高い白木で内装されています。隣に談笑する大きな部屋が付いていて、窓からは広々とした風景が見えるのです。
その談笑室には白木のテーブルと椅子があり、酒を飲みながら裸で談笑するのです。
酒は雑穀を発酵させ蒸留した透明な強い酒。ロシアのウオッカや中国東北地方の白酒に似ています。この蒸留酒に、自宅の裏庭で摘んできたラズベリーやコケ桃の実の汁を入れて風味を付け、大きなボールに入れて運びこみます。それを木製の大さじで各自グラスに取り、飲むのです。
つまみはバルト海で捕れる小形のロブスターを真っ赤にゆでたものだけです。
サウナに入る作法は、まず全員一斉に裸になります。脱衣室を兼ねている談笑部屋の隅にある籠に脱いだ衣服を入れ、バスタオルを持って入ります。熱すぎると叫ぶ者、もっと熱くしようと焼け石に水を掛ける者の笑い声で大騒ぎにななります。十分暖まったら談笑する部屋に出て、酒を飲み、ロブスターを割り、勝手な話をするだけです。
サウナで歓迎するのは何処に行っても最高の歓迎のしかたという伝統なのです。
北極圏にあるキルナ市のスウェーデン鋼の会社を訪問した時もサウナで歓迎されました。豪華なゲストハウスは森閑とし、お客は私一人だけでした。マホガニーで内装された食堂で夕食を摂っていると、中年のウェイトレスが入って来て「私はこれで帰りますが、食事が終わったら食卓はそのままにして、サウナへ是非入っておやすみください」と言うのです。言われた通り、食後にサウナに行きました。一段と立派なサウナで、前室には、ピンク色の強い酒とライ麦の粉を煎餅のように焼いたものがチーズともに皿に乗っています。
同じような経験はヘルシンキでも体験しました。かの地の工科大学にも大きなサウナがあり旅人に寛いで貰うそうです。
サウナは体を洗うための施設ではありません。それはシャワーで洗います。ですから風呂やシャワーは絶対に併設されていません。
もっとも昔は木の枝で体を叩いたりしてシャワーの代わりに使っていたようです。
日本へ外国人が来たときサウナで接待するでしょうか?あなたはそのようにして歓迎するでしょうか?
同じ施設をどのように使うかが文化のです。
些細な実例ですが日本に外国の文化が入ってくると変容する例が多いと思います。それも良いことですが、たまには外国の文化を考えることも良いことではないでしょうか?ついでにヘルシンキの風景写真とノルウエイのフィヨルドの中の小さな村の風景写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

上は海から見たヘイルシンキ市:http://www2.jfn.co.jp/blog/wfn/2010/08/post_226.html
Geirangerfjordnorway1

上はノルウエイのフィヨルドの村の風景:http://www.libertyhill.co.jp/blog/gym/post-59.php

山に登ったクル-ザーヨットの運命

2014年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県の甲斐駒岳の麓に山林を100坪ほど買ました。それは1973年のことでした。そこに小さな小屋を建てて40年間、遊びに行っています。
その近所の別荘地に35フィート位のクルーザーヨットが置いてあったのです。1974年から置いてありました。
標高1000位の山の別荘地にはるばる海から登ってきたのです。
太平洋の外洋の荒波を乗り越えていたヨットです。持ち主が年をとり体力が無くなりヨットを止めて別荘を建てたようです。その時、愛艇と別れがたく運び上げたようです
山小屋へ行く度にこのヨットのことが気になって何度か見に行きました。出来たら持ち主にお会いしてこのヨットの運命を聞かせて貰うと別荘を訪ねましたが人が居ません。森閑としてヨットだけが留守番をしています。
持ち主はもう旅立ったのでしょうか?
そしてヨットはそのご30年、40年と少しずつ朽ち果てていきました。ここに示す写真は2007年に撮ったものです。その後、このヨットは別荘地から消えてしまいました。
現在でもこの別荘地のそばを通るときこのヨットの運命をあれやこれやと考えています。人ははかないと言いますが、ヨットの運命も儚いです。




ストイックだった高倉健さん、そして旅立ってしまった歌手や俳優へ感謝

2014年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム
私の人生は歌手や俳優に支えられていました。
老境にいたり、憧れていた歌手や俳優の旅立ちによって受けたショックを数々思い返しています。
戦後の暗い生活を明るくしてくれたのは美空ひばりさんでした。1989年ころアメリカで訃報を聞いたときのショックは忘れられません。昭和という時代が無くなってしまったような喪失感に襲われたものです。
最近は淡路恵子も山口淑子も亡くなりました。若い頃から憧れていた田中絹代、山田五十鈴、佐田啓二、高峰秀子、池部良、大原麗子、森繁久弥、渥美清などなど、みん旅立ってしまいました。
私のものの考え方や感じ方はこれらの俳優が演じた映画やテレビの影響を深く影響を受けてきました。そして勿論、遠藤周作、吉行淳之介、井上靖、山本周五郎、三島由紀夫などの作家の作品にも影響を受けてきました。
そして昨日はストイックな俳優と言われた高倉健さんが亡くなりました。
昨日からいろいろな追悼記事を見ていますが、以下に一番良かった記事をご紹介いたします。日本で一番ストイックだった俳優・高倉健さん死去:http://matome.naver.jp/odai/2141628070494290701
この追悼記事から以下に高倉健さんが主演した映画のポスターを転載致します。

200本以上の映画に真面目に出演し、しみじみとした演技を見せてくれた高倉健さんのあの世での幸せを心からお祈り申し上げます。合掌。







茶道や茶室は静かな文化です

2014年11月18日 | 写真
茶室のある風景は見ているだけで心がなごやかになります。
茶道の作法は面倒なので自分には出来ません。そのことを始めに謝ると主人が「それでは作法抜きでお茶を楽しみましょう」と言ってくれるのが普通です。...
そんなやり方で数十年、茶席に入ったり、自分で抹茶をたてて楽しんでいます。掛軸や茶碗は季節によって変えます。
この前にリオのカーニバルの写真をお送りしたので、それとは対照的に静かな茶室の風景写真をお送りいたします。一昨日、府中郷土の森博物館公園の茶室(梅欅庵」で撮った写真です。

上は茶室への道です。

門を入ると茶室の丸窓が見えます。

茶花は茶室にふさわしい楚々としたものです。
軸の文字は読めないのが普通です。亭主に、「良い字ですが私には読めません。お教え下さい」と言います。すると「閑坐して松風を聴く」と読みますと静かに教えてくれます。

上は茶室から庭を見た風景です。晩秋の陽射しが明るくそそいでいます。

上は茶室に入る前に手と口を洗う手水鉢と蹲踞(つくばい)です。石灯篭があって雰囲気が良いです。
そんな風景を見ているだけでなごやかな気分になります。日本文化は侘び寂びの文化です。

文化とは何でしょうか(2)日本人には分かり難い謝肉祭のある国々の文化

2014年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム

南米、リオのカーニバル(謝肉祭)の熱気と騒々しさを思うと日本文化の静かさが本当に良いと思います。
しかしあの騒ぎもカトリックの戒律の反動として生まれた大規模なお祭りなのです。その因果関係を簡単に言えばカトリックの復活祭の前の40日間の断食と謹慎にそなえて、飽食と遊興をしているのです。そうしてその後の40日間の断食と謹慎をなんとかやり通そうという決意の表れなのです。
ですからあの馬鹿騒ぎのように見えるカーニバル(謝肉祭)はキリスト教から生まれた珍しい文化現象なのです。
似たような文化現象は日本にも数多くあります。神社の御神輿を担いで町を練り歩くのも神道から生まれた文化現象です。
しかしお祭りは宗教的な色彩が次第に薄れて人々の通俗的な娯楽になるものです。私はそれを非難していません。宗教抜きの祭りでも人々の絆が生まれお互いに親しくなることは大変良いことです。人々が幸せになります。
ですから神社抜きの「ねぶた」「たなばた」「竿灯祭り」とか「地方のいろいろな農業祭」などは日本固有の文化として大切にすべきと思っています。
ここでリオのカーニバルの良い側面をもう少しご説明したいと思います。
イエス・キリストは、ローマ提督、ピラトによって十字架刑にされました。しかし3日後に復活して生き返りました。そして弟子達と会い、話をして、天国へ登り、神の右の座に着きました。このイエス様の復活を祝うのが復活祭です。春先の大きなお祭りです。
その前の40日間が四旬節として歌舞音楽を控え、断食や節食をしてイエス様の処刑を悼みます。カトリック圏では騒がしい音楽やお笑いがテレビやラジオから消えます。静かな番組になります。禁欲的な生活を送る40日間なのです。
その四旬節の始めの日が、「灰の水曜日」です。ですからリオのカーニバルは毎年、厳密に灰の水曜日の前日に一斉に止めます。
この禁欲的な40日の前に、大いに肉を食べ、ワインを飲み、バカ騒ぎをして断食や節食の期間へ突入する準備をします。それがカーニバル、あるいは謝肉祭と呼ばれるお祭りなのです。
この謝肉祭が行われるのはカトリックの国々です。特にスペインやポルトガルの植民地だった南米では大きなお祭りとして毎年行われます。
しかし、イエス様は飽食や、欲望のままに酒を飲むのを喜ぶでしょうか?「汝、肉慾に生きるな」と教えました。ですからカーニバルはキリスト教とはあまり関係の無いお祭です。
お祭り騒ぎは私も大好きです。一般的に祭は娯楽的な文化現象なのです。それで人々が幸せを感じるなら大いに祭りを盛りたてれば良いのです。
ここでリオのカーニバルの写真をお送りいたします。
南米の人々の熱気と歓声が感じられますね。ここまで手の込んだ、そして大規模なお祭りは一つの特色あるローカル文化になっています。
日本古来の文化とはあまりにもかけ離れた文化ですが、寛容な気持ちで受け入れてご覧になって下さい。
写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。尚、写真の出典は、http://www.jiji.com/jc/d4?p=smb005&d=d4_int です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





幻想的な熱気球の世界

2014年11月17日 | 写真
佐賀県の熱気球大会は国際的に有名です。
そこで今年の国際大会の様子を、Saga International Balloon Fiestaさんのページから転載させて頂きました。
URLは、https://www.facebook.com/sibf.jp?pnref=story です。
飛行船といい熱気球も幻想的な光景ですね。夢多い乗り物ですね。
写真の転載に関して、Saga International Balloon Fiestaさんへ深い感謝の意を表します。




夢のように楽しい飛行船と「ロスミナの風」の気楽さをお楽しみ下さい

2014年11月17日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、私は朝鮮の歴史や文学の記事を書いたりしました。昨日はヨーロッパの中世からの名門、ハプスブルグ家の込み入った記事を書きました。正直言って疲れました。お読み頂いた方々もお疲れになったと存じます。
そこで今日は楽しい飛行船の話と、読んで楽しい「ロスミナの風」というブログをご紹介いたします。それでは飛行船の写真から始めます。
 
上の左は第一次大戦以前に開発されたツェッペリン号で、右は1916年に所沢から大阪へ飛んだ軍用飛行船「雄飛号」の写真です。
さて、帆走子さんは「ロスミナの風」という楽しいブログ( http://rusmina-2.cocolog-nifty.com/blog/)を書いていらっしゃいます。その中で飛行船の短い紹介記事を見つけました。
小生も昔から飛行船にあこがれていました。夢のような空の乗り物です。
そこで、株式会社日本飛行船のHPを色々調べてみました。この会社は2008年当時、埼玉県の桶川にある本田飛行場を営業基地にして、全国を回っている飛行船を運行していた会社です。その2008年当時のHPから美しい写真を転載致します。
下の5枚の写真は日本の空を飛んでいたツェッペリンNT号の写真です。お楽しみ頂ければ幸いです。写真は全て株式会社日本飛行船の2008年当時のHPを出典としています。(http://www.nac-airship.com/ )


 

  

 
ところで帆走子さんの「ロスミナの風」には実に気楽で楽しい写真や記事が沢山掲載されています。そこでもう少し内容をご紹介します。以下は彼自身の内容の紹介です。
・・・・今までに書き溜めたエッセイが沢山あります。
 カジュアルで読みやすく、面白いものをと心がけております。
 格調高い文学には程遠く(書ける訳もないか) 、 少々品位に欠けるかも知れません。
 写真も出来るだけ入れて、なるべく頻繁に更新したいと思っています。  
 旅好きで食いしんぼ、フネや鉄道、それに飛行機大好き。
 海やお魚が好きで水族館キチガイ、外国での貴重な体験やら失敗談、とまぁ多彩というか雑多であります。 ・・・・
・・・  タイトルの「ロスミナの風」は、私が持っていた小さなヨットの艇名から 取りました。 ニックネームの帆走子もヨットにちなみますが、いささか面映いものがあります。帆走子は「はんそうし」と読みます。・ ホカケブネを操るちっぽけなヤツ、くらいの意味です。
 1人で乗っていて、フネから転落した・・・そんな死に損なった話も出てきます。
 http://rusmina-2.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/0070-8bdc-2.html・・・・・・
このような語り口で楽しい話が沢山あるブログです。
私は頭が疲れたときにはよくこの「ロスミナの風」を開いて悠悠とした気分になっています。
ちなみに彼の本名は大月 雄喜章(おおつき ゆきのり)さんと云います。
エッセイストで1等航空整備士の航空関係の技術者です。主に小型航空機に携わって40年ですが2008年に現役を引退しました。
海外在住はアメリカ、サウジアラビア、東南アジアなど、一番長かったのがインドネシアだったそうです。
是非、「ロスミナの風」を開いてお楽しみ下さい。最後に彼のヨットの「ロスミナの風」の写真をしめします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

今日は茶室で抹茶を楽しみました

2014年11月16日 | 写真
茶道を習ったことはありませんが時々は気軽に抹茶を飲みます。
家内が道具一式を持っていて座敷に炉も切ってありますが、めったに炉に炭を入れません。普通は座敷に置く炉ですませています。
その代わりあちこちで抹茶を出すところがあると家内と一緒によく茶室に入り、しばし日本文化を楽しみます。
今日も府中郷土の森博物館公園を散歩していたら茶室で呈茶をしていましたので一服頂きました。茶室の庭や寄り付きの風景を見ていると和やかな気持ちになります。これこそ日本文化の一つです。
下に今日撮ってきた写真を示します。

この一番目の写真が茶室と庭の風景です。

上の二番目の写真は茶室の前にある寄り付きです。

上の三番目の写真は道端に何気なく咲いていた野菊とホトトギスの花です。

上の四番目の写真は公園の中にある池です。

上の五番目の写真は池のそばにあるイチョウの黄葉です。
このような写真だけを掲載すると府中郷土の森博物館公園は静寂な場所のように見えます。しかし公園の入り口に近い北半分では「府中市制50周年記念農業祭」をしていまして人々が多数いました。人混みでした。喧騒につつまれていました。しかし家族連れが実に楽しそうにしていました。それを眺めるのも楽しいものです。写真は撮りましたが省略します。
写真の選び方でいろいろな報道の印象が非常に違ったものになるということは本当なのですね。つまらないことを書いて失礼いたしました。

文化とは何でしょうか(1)ハプスブルグ家とヨーロッパ文化

2014年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム

一番目の写真は昨日、野川公園で撮ったユリノキのたたずまいです。毎年撮る樹木の写真です。この光景を見るたびにこの植え方がヨーロッパ文化なのだと感じています。
文化の狭い定義では芸術や宗教です。 趣味やスポーツも文化です。人間の精神生活を豊かにするものが文化と定義します。
これに対して広い定義では人間の知的な働きで出来上がった全てのものです。
鉄道や自動車も全ての工業技術も文化です。政治制度や戦争の準備と戦い方も文化です。人々の生活を快適にして便利にする知的生産物の全てを文化と定義します。もちろん広義の文化は狭義の文化も含み込んでいます。広義の文化から狭義の文化を差し引いた部分を文明と呼びます。
最近、朝鮮文化について連載記事を掲載してきました。それがキッカケとなりもっと広い視野で世界の国々の文化を考えてみることにしました。
その第一回はヨーロッパ文化へ与えたハプスブルグ家の影響を取りあげました。
日本では産業革命以後のイギリス、フランス、ドイツ、アメリカの広義の文化を熱心に取り入れて富国強兵を実行し、戦後の経済の復興と高度成長に成功しました。
ですから産業革命より古いヨーロッパの文化を軽視する風潮があります。
しかしヨーロッパ文化へ与えたハプスブルグ家の影響を調べてみると現在のヨーロッパの通貨の統合やEUの考え方が理解出来ると思います。
ハプスブルグ家は武力と婚姻関係を利用してヨーロッパ全土に領土を広げ、幾つもの王国を作り、その王達の生殺与奪の権力を手中に収めた一家だったのです。
中世から近代にかけてヨーロッパ全土に支配権を及ぼし、「ヨーロッパは同じ文化圏」という考え方を定着させたのです。
ヨーロッパの歴史でそのような一家はウイーンのハプスブルグ家とフィレンツェのメディチ家です。メジチ家はルネッサンスの芸術家を援助したので日本では善玉になっています。しかしハプスブルグ家も中世以来、ルネッサンス期も通して芸術家を支援し音楽や絵画を育てていたのです。
この2つの家だけが有名なのは王様の権力の以上の権力を握っていたからです。
ハプスブルグ家の当主はその広大な領地内の幾つかの王国の王様たちより権力があったのです。その王位継承権をハプスブルグ家が握っていたのです。
これは日本人にとって理解しにくい事情です。ですから日本ではハプスブルグ家のことはあまり知られていません。
それではハプスブルグ家の領土はどのくらい大きかったかを二番目の写真の地図で示します。

この図は、1547年時点でのハプスブルク家の領土(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)です。
ハプスブルグ家はオーストリアを中心にした領土とスペインを中心にした領土に別れていました。
そして中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の指名権、継承権を握っていたのですから驚きです。
現在も、ハプスブルグ家の子孫は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性すらあるのです。
そしてこの一家の本拠地はウイーンのシェーンブルン宮殿にありました。三番目の写真で示します。

これがシェーンブルン宮殿(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83…)です。
そして多くの王国(公国や帝国を含む)の連合として、1526年から1804年まで「ハプスブルグ君主国」が存在したのです。
その歴史は複雑ですが、ご興味のある方は末尾に付けた参考資料をご覧ください。
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によってでも所領を増やしていったのです。
その例はマリア・テレジアが数多くの娘たちを各国の王子と結婚させたことでもよく知られています。その結果、ヨーロッパの数多くの王族が親戚関係になり、ある意味でのヨーロッパ統合の実態が自然に生まれたのです。現在のヨーロッパ連合や通貨の統一はこのような歴史の影響があると考えるとヨーロッパ文化の奥深さが少し理解出来るのではないかと思います。現在、日本ハプスブルグ協会が「文化芸術サロン」というブログ;(http://blogs.yahoo.co.jp/operafestival/8729389.html)を発表しています。そして良質のヨーロッパの芸術の日本への紹介活動をしています。ハプスブルグ家がこのように日本へもつながっていると思えば不思議な気がします。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)

===========参考資料=================
ハプスブルク家(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)(ドイツ語: Haus Habsburg)は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった。また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から排除されるまで、形式的には全ドイツ人の君主であった。ヨーロッパ随一の名門王家と言われている。
ハプスブルク君主国(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)(ハプスブルクくんしゅこく、ドイツ語: Habsburgermonarchie, 英語: Habsburg Monarchy)は、オーストリア系ハプスブルク家(のちハプスブルク=ロートリンゲン家)が君主として統治した国家の歴史学上の呼称である。
正確には「帝国」ではない時代もあるがハプスブルク帝国(ドイツ語: Habsburgisches Reich,英語: Habsburg Empire)とも呼ばれる。成立年はハプスブルク家がオーストリア大公領に加えてハンガリー王国、ボヘミア王国を獲得した1526年とされる。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、同時代の人々ですらこれを事実上の国家として認識し、オーストリア(ハプスブルク家をオーストリア家ということから)と呼称していた。1804年から1867年はオーストリア帝国(「オーストリア家の帝国」という意味)、1867年から1918年はオーストリア=ハンガリー帝国(「帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」)を総称とした。
ハプスブルク君主国の領域は、大きく分けて以下の3つから形成されていた。
ハプスブルク家世襲領ハプスブルク家の所領とされたのは、現在のオーストリア、スロベニア、イタリア北部、ラインラント(1797年まで)である。ナポレオン戦争の過程でこれらの領土の多くが一旦は失われたが、ウィーン会議(1814年)によって多くを回復し、さらにザルツブルク大司教領を加えた。ベーメン王冠領ベーメン王国領はベーメン(ボヘミア)、メーレン(モラヴィア)、シュレージエン(シレジア)、ラウジッツからなっていた。ラウジッツは1620年にザクセン公国へ割譲され、シュレージエンはオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)の結果プロイセン王国に奪われた。ハンガリー王冠領ハンガリー王国はモハーチの戦いの後、北西部の3分の1がハプスブルク家、東南部と中部の3分の2がオスマン帝国の支配下に入った(オスマン帝国領ハンガリー)。オスマン帝国の衰退とともに、1699年のカルロヴィッツ条約で旧ハンガリー王国の領域の大部分がハプスブルク家へ割譲された。ハンガリー王国領とされた地域は、現在のハンガリー、スロバキア、クロアチア、ヴォイヴォディナ、トランシルヴァニア、ルテニアのカルパチア地方が含まれていた。オスマン帝国と接する最前線は、軍事上の必要性からウィーン政府による直轄支配とされた。
これら以外に歴史上、以下の地域がハプスブルク君主国の領域となった。
南ネーデルラント (現在のベルギーとルクセンブルク、1713年 - 1792年)
ミラノ公国(ロンバルディア、1713年 - 1797年)
ナポリ王国(1713年 - 1735年)
サルデーニャ王国 (1713年 - 1720年)
トスカーナ大公国 (1737年- 1860年)バナト・テメスヴァル (1718年 - 1778年)
セルビア (1718年 - 1739年)
ボスニア (1718年 - 1739年)
オルテニア (1718年 - 1737年)
シチリア王国 (1720年 - 1735年)
パルマ公国(1735年 - 1748年)
ガリツィア・ロドメリア王国 (現在のポーランドとウクライナの一部、1772年 - 1918年)
ブコビナ (1774年 - 1918年)
ヴェネツィア(1797年 - 1805年, 1814年 - 1866年)
ダルマチア(1797年- 1805年, 1814年 - 1918年)
ロンバルディア (1814年 - 1858年)
ホルシュタイン (1865年 - 1866年)
ボスニア・ヘルツェゴビナ (1908年 - 1918年)

今日は八王子イチョウ紅葉祭りです

2014年11月15日 | 写真
八王子イチョウ紅葉祭の場所は西八王子から高尾までの甲州街道です。クラシックカーのパレードがあり、数多くの出店が並んで楽しいと思います。天気も良くて賑わうことと思います。
JR中央線の西八王寺駅で降りて、高尾駅まで歩けばゆっくり楽しめます。車で行くと駐車場探しが大変と思います。今日は進入禁止ですが平日ですと多摩御陵の駐車場は広いのでそこに停めて歩いて甲州街道に出るのも一つの解決策でしょう。
昨日の午後に撮ってきた西八王子から高尾までの甲州街道のイチョウ並木の黄葉の写真をお送りします。









あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう(6)完結編:豊かな朝鮮文化

2014年11月15日 | 日記・エッセイ・コラム

我々日本人が学校で習う朝鮮の歴史はおもに3件の出来事です。大和朝廷と高句麗、新羅、百済との交流と、豊臣秀吉の李朝時代の出兵と、1912年の朝鮮併合のことです。すべて政治的な事件です。
その一方、朝鮮半島に花咲いた文化についてはほとんど教えません。
ですから現在の日本人は古代からあった郷歌の文学性や百済、新羅、高句麗の三国時代の『三国史記』や『三国遺事』のことは一切教えません。
日本に萬葉集や源氏物語や古事記や日本書紀があったように百済、新羅、高句麗の三国にも同じような文学作品や歴史書があったのです。
これを知らなければ韓国や北朝鮮のことを蔑んだり悪口を言う日本人が多いのも自然ではないでしょうか。
そこで私は11月4日から5回にわたって以下のような連載記事を掲載してきました。
「あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう(5)革命的な磁器焼成と李朝の白磁」(11月11日掲載)
「あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう(4)日本人に感動を与えた朝鮮の少女」(11月9日掲載)
「あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう(3)朝鮮の古典文学」(11月7日掲載)
「あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう(2)朝鮮の歴史の概略」(11月5日掲載)
「あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう(1)韓国の世界遺産」(11月4日掲載)
連載を終えるにあたって何故日本人はこの豊かな朝鮮文化を無視してきたか、その原因を考えてみたいと思います。
原因はいろいろあるでしょうが、一番大きな原因は中国文化があまりにも輝かしかったからです。朝鮮文化は中国文化の亜流とみなしたのです。ですから大和朝廷は遣隋使や遣唐使を派遣して本家本元の中國文化を導入してきたのです。
その目的は中国の政治組織や制度、そして輝く文化を導入して大和政権の権威を上げ、政権基盤を盤石にするためだったのです。
輝く太陽が中国文化とすれば朝鮮の歴代の国々はその光を反射する火星や木星のような惑星の一つに過ぎないのです。ついでに言えば日本も惑星の一つに過ぎないのです。しかし惑星の一つ一つに独自の文化と歴史があるのです。
そして日本は明治維新以後は富国強兵の政策を取ります。そのために必要な科学と工業技術と軍隊組織をイギリス、ドイツ、フランス、アメリカから導入しました。ついでにそれらの国々の制度や文化も必要な部分だけ導入してきました。
しかしその他の国々、たとえばスペイン、オーストリア、ルーマニア、ブルガリア、などの独自の文化は無視されました。当然ハプスブルグ家の文化も無視されたのです。
このように概観すると日本の外国からの文化導入は非常に偏ったものであることが明らかに分かるのです。
しかし現在の日本は実に種々多数の分野であらゆる外国との文化交流が進んでいます。大変喜ばしいことです。
しかしながらその反面、韓国や北朝鮮や中国を差別し、蔑視する風潮があることは非常に残念なことです。他国を蔑むことは日本人の品格をもおとしめているのです。
今回の5回にわたる連載記事が少しでも日中関係と日韓関係の改善に役立つようにと祈りつつ連載の終わりといたします。
今日の挿絵写真は世界遺産の「大韓民国の歴史的村落:河回と良洞」の風景写真です。郷愁を感じるような農村風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料:朝鮮の文学===================
「文学からの接近:古典文学史:―― 時代区分とジャンルを中心に」、山田 恭子http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/nomahideki/edu_04_004_yamada_se4l.pdf
この研究論文ではまず韓国古典文学史を考える上で重要な時代区分やジャンルについ
て言及し,韓国古典文学の全体像を把握することを目的としています。
そして時代区分を以下のように6つの時代に別けています。
口碑文学,漢文学,国文文学(ハングル文字)の関係から,古代前後期,中世前後期,近世,近代の6 期に分けて考察しています。
口碑文学は5世紀になって漢字や漢文学が入ってくるまでの口承文学ですが。この口承文学は後に「帝釈本解」へと発展します。
そして古代後期とは,建国神話の出現,漢字伝来と漢文学の成立,郷歌の形成に至るまでの時代をさすそうです。
郷歌とは,新羅の三国統一期である6 世紀頃から高麗中期である13 世紀まで存在した文学形式を意味します。しかし広義の郷歌とは紀元前からあった形式で中国漢詩に対する当時の朝鮮の歌謡を広くさす呼称でした。
そして百済、新羅、高句麗の三国時代には.『三国史記』や『三国遺事』が書かれたのです。
それはさておき、中世文学の時代は、漢文学の時代です。科挙制度の前身ともいえる新羅の読書出身科が788 年に,本格的な科挙試験は958 年に実施されたことも漢文学の隆盛とつながったのです。しかし漢文学は訓民正音を用いた国文文学とも共存しました。
最初は漢字を利用した吏読 を通じて,次には朝鮮語を直接表記できる訓民正音との併用されたのです。私が想像しているのはこの訓民正音は日本の万葉仮名に相当するものと思います。
中世前期は郷歌と漢文学,特に漢詩が盛行したのです。
そして1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、「訓民正音」を正式に公布し、公文書にも使用するようになったのです。それが現在のハングルです。
朝鮮では日本と同様に教養のある人は現在でも漢字の読み書きが出来るのです。
以上のように朝鮮の文学は日本と同様にいろいろな分野があり、内容も豊かなのです。