後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

水木りょう著、「高橋竹山」と「三波春夫」その3、完結編

2009年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム

前記したように、竹山師は私がまだ幼少(小1)年のあたりから我が家の道場(教室)に来るようになった。同時にこの頃は、青森労音の佐藤氏のお世話により、全国を回って演奏活動が出来るようになった。つまりボサマをせずに生活が成り立つようになったのだった。全国を歩くうちに、津軽三味線の価値や名声が上がって、若い人がどんどん聴くようになり、とくに渋谷の「ジャンジャン」においては、ニュージャズ感覚で流行し、レコーディングも次々と行われて、あるTV番組のドキュメントで「寒撥」が放映されたことから反響が高く次々といろんな受賞につながっていくのだった。
一方、戦地から帰った文司は浪曲家として全国を回る。そして同じ芸人として活躍していた女性と結婚する。その後時代が急激に近代化して行く中で、文司は三味線一つだけの浪曲に限界を感じていた。
流行歌手としての道を開くために訓練・稽古する至誠はあまりに熱心で、回りが圧倒されるほどだった。この頃「三波春夫」と改名し、紋付はかま姿で立ち振る舞いなども研究して、観客の度肝を抜いた。
こうしてデビューの「ちゃんちきおけさ」と「船方さんよ」が大ヒットをとばした。
また新しい試みを次々と打ち出し、舞台狭しと芝居と唄を織り交ぜたスケールの大きなテーマを歌ったものが殆どで、東京を初め全国の歌舞伎座での公演は大成功を収めていく。
こうした歴史の中で当然、三波と竹山は舞台か、テレビなどで顔を何度か合わせただろう。そんな中で二人がどういった思いで見つめたことだろう。
片や押しも押されぬ浪曲あがりの華やかな舞台演歌歌手。片や押しも押されぬ三味線を独創楽器まで押し上げた努力の名人。
なにがあったのだろうか?知る人ぞ知る謎の問題である。
の記述はあくまで憶測でもしかして?の推測である。
 ある舞台で三波が浪曲を唄うことになり、その打ち合わせで三波が、大先輩の竹山に失礼なことを注文した(竹山は伝統ある浪曲を変に変える三波に反発?)
 三波はものすごい歴史の研究家で、自分が歌い上げる歴史上の人物をまるで見てきたかのように熱く語る人であったので、それを竹山が横で見てたか、あるいは彼自身にもうるさいほど話した聞かせたのか・・・
いずれにしても三波は前向きで、日本が大好きで歴史も大好きで、日本が社会主義的な方向にいくのを恐れて、日本の真の行く末は古来からの神道主義にあるとみた三波は、ことあるごとに芝居や唄にそれを表現していった。
一方竹山は盲目によって虐げられた生活を余儀なくし、戦争によってさらにどん底の人生を送ってきた。信じられるものは国家ではなく、自分しかない、忍耐と恥と罵倒からの反発で自ら学んでいった人生観は三波の生き方とは相反するものであったのかもしれない。

 三波春夫の声は、研ぎ澄まされた中にも明るく大らかで、10のもの7か8の力でゆったりと楽に唄いあげる声はもうマイクいらずで、会場の外にまで響き渡るといわれている。
 高橋竹山の音色も、いわゆる津軽の叩き三味線ではなく、弾く奏でるような優しい撥さばきで、あのような美しい音色が人々の心を魅了した。共に名人位まで高めた芸である。時節が時節なら、または竹山が目が見えていたら、二人はきっと仲のよい友人であったやもしれない。
竹山の伴奏で春夫の声で浪曲が聴きたかったと思うのは決して私ばかりではあるまい。残念である。
1989年、病しらずの竹山も前立腺肥大で入院、持ち直して演奏活動をつづけ、1998年今度は喉頭癌で2月87歳の生涯を閉じた。また三波も1999年あたりから体調を崩し、2001年4月、やはり前立腺癌で77歳の生涯を終えたのだった。
ご苦労様でした。竹山さんの葬儀は行きましたが、墓参がまだですが、盟友の米国在住の「村正・クドー氏=画家」と共に帰青したら墓参に行く約束をしています。
また三波春夫さんとは面識はないが、生まれ故郷の新潟県長岡市に彼の石碑があるというので是非行ってみたいとおもっております。
        完 
  ありがとうございました。


今日のミサーイエスがパルティマイという盲人を見えるようにした奇跡

2009年10月25日 | うんちく・小ネタ

キリスト教の新約聖書には実に数多くの個人の名前が具体的に出てきます。今日のミサの朗読の最後は、マルコによる福音10・46-52でした。

盲目の物乞いの名前が出て来ます。ティマイの子供のパルティマイという名前です。

道端に座って物乞いをしています。

イエスが通り過ぎようとすると大声を上げます、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と言い始めた。多くの人が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫び続けた。

イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスの所に来た。 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

私は科学教育を受けました。化学反応の原理も知っています。熱力学という哲学的な科学法則もしっています。全て合理的に証明できる話ばかりです。しかしその一方でイエス様の行った奇跡は全て信じています。証明が不可能でも信じています。

信じればイエス様が喜ぶに違いありません。そうすると自分も豊かな気持ちになれます。話は飛びますが、各地に弘法大師が杖を突いたら泉がわき出たという奇跡話が残っています。その話を信じて真顔で説明してくれる人に時々会います。私もその話を一緒に信じます。他人が信じていることを尊敬する。これが重要なことではないでしょうか?(終わり)


第二次大戦中にローマ法王のピオ12世はナチからユダヤ人を守ったのです

2009年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム

フランシスコさんから下記のコメントを頂きました。ファイテング・ナンさんのHPを開きピオ12世にお関する部分を転写しました。

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Ave Maria,

ピオ十二世教皇聖下の名誉を守り続ける、ファイティング・ナンと呼ばれる方のページです。

http://www.sistermargherita.com/

But Pius, once internationally acclaimed as "saintly," is now widely vilified. So, Sister Margherita has gone on the offensive. She has several titles in print on the subject of Pope Pius, including a biography, Pope Pius XII: Architect for Peace. Two books tackle head-on the history of the Holocaust in Italy and the Pope's role. Consensus and Controversy: Defending Pope Pius XII, and Yours Is a Precious Witness: Memoirs of Jews and Catholics in Wartime Italy make a strong case for the active role the Vatican and Italians took to save many Jews. Her latest book is Shepherd of Souls: A Pictorial Life of Pope Pius XII.

Even in her autobiography, The Fighting Nun: My Story, she devotes more than two chapters to setting the record straight. The British historian John Cornwell in his book, Hitler's Pope: the Secret History of Pius XII, claims the Pope's silence during the Holocaust condemned thousands of Jews to death by the Nazis. He further argues that Pius cut deals with Hitler in order to save German Catholics from persecution by the Nazis. Ultimately, Cornwell condemns Pope Pius as an anti-Semite who was a willing agent to Hitler's master plan.

"Absolutely untrue!" bellows the tiny nun. (She has argued with Cornwell on several occasions on radio and television.) Was Pope Pius silent? No, actually he spoke out officially on several occasions against Hitler and the actions of Nazi Germany. Moreover, those official statements had violent repercussions in Germany and Poland: in Dachau alone, 2,800 priests were imprisoned. More than half died there. What Pope Pius determined was that the Church, and Rome, could do more good by acting quietly besides speaking officially against Hitler. To that end, convents, monasteries, even the Vatican itself, on the Pope's orders, were opened as havens for Jews. One amazing photograph in Sister Margherita's collection shows a dozen young Jewish mothers holding their infants in what is captioned "The Nursery." The tapestry visible in the background has the Pope's coat-of-arms: the Pope gave up his private quarters to house these women and their babies.

As a member of the Religious Teachers Filippini, Sister Margherita has access to the sisters of her order in Italy who participated in the sheltering of Jews. They share stories of setting up their cots throughout the convents, including the basements, so Jewish families could have the small bedrooms.

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大宮司弘昌著、「初めてのロシア沿海州昆虫エコツアー」その五

2009年10月25日 | 旅行記

<shapetype id="_x0000_t75" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" stroked="f" filled="f" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"><stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f></formulas><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock></shapetype><shape id="図_x0020_8" alt="ハンター小屋外観" type="#_x0000_t75" o:spid="_x0000_s1027" style="MARGIN-TOP: 7.75pt; Z-INDEX: 1; VISIBILITY: visible; MARGIN-LEFT: 160.8pt; WIDTH: 242.7pt; POSITION: absolute; HEIGHT: 186.75pt; mso-wrap-style: square; mso-wrap-distance-left: 9pt; mso-wrap-distance-top: 0; mso-wrap-distance-right: 9pt; mso-wrap-distance-bottom: 0; mso-position-horizontal: absolute; mso-position-horizontal-relative: text; mso-position-vertical: absolute; mso-position-vertical-relative: text"><imagedata o:title="ハンター小屋外観" src="file:///C:DOCUME~1gotouLOCALS~1Tempmsohtmlclip11clip_image001.jpg"></imagedata><wrap type="square"></wrap></shape>ハンター小屋    

 正式な名称は知らないが、U氏が「ハンター小屋スタイルのバンガロー」と説明したので、「ハンター小屋」と呼ぶ。原生林に点在し、伐採作業、土木工事、ハンティング、レジャー、緊急避難など多目的に使われる。

Photo  

我々が到着したこのハンター小屋には管理人が常駐しており、宿泊OKとのことでほっとする。しかもなぜか無料だという。条件は一つ、我々と食卓を共にし、同じものを食べたいと。U氏にそっと彼はどういう立場の人かと聞いたが、U氏も知らない。彼の同居は犬2匹、猫1匹、ニワトリ10羽である。電気水道はなく、もちろんシャワーもなく、トイレは50mほど離れている。建物は2階建て、外壁は丸太で内装との間は厚く、断熱材がしっかり入っているのだろう。窓は小さく2重である。1階は入口に調理台、続いてダイニングと広間がある。ダイニングにはテーブル、椅子6脚、暖炉、ベッド1があり、広間にはベッド3、ソファー2がある。シーツや毛布は持参しており、寝るのに問題はない。2階は2室で奥が管理人の部屋である。そこには電池のポータブルテレビがある。

 この地域は平坦な低地(標高200m)で、落葉広葉樹林帯である。しかし広範囲に伐採の手が入っており、巨木はほとんどない。小川や水溜りが多く、蚊は非常に多く悩ましい。室内にも入り込むので、夜に蚊取り線香を炊いたら、S氏から喉が痛む、蚊は大したことないと言われた。我々は直ぐ刺されるが、彼らは肌を出していても余り刺されない。どうして刺されないのかと聞いたら、皮膚に毒があるんだと言われてしまった。答えようのない奇問であたか。我々は蚊がいては寝れないので、蚊取り線香は宵の口に点け就寝前に消すことにした。

 ここで食事について、後で判ったことも含め記しておく。朝食は夜明けが7時なので、9時ころになる。メニューは昼に川岸で摂ったものとほぼ同じだが、適宜生にんじん、生ねぎ、生いんげん等の野菜や茹でじゃがいも、ピクルスや昨夜の残りものが追加される。バター、塩、砂糖、マヨネーズ、コンデンスミルクはあるが、なぜか蜂蜜、ジャムはない。

 昼食は、移動日は前記のように簡単に途中で摂る。採集に出た時は、外では摂らず遅くなっても帰ってから摂る。雨で外出できないときは時間があるので、スープ、卵焼き、煮込み等が作られる。

 日暮れは10時なので、ディナーは9~10時開始である。スープ、じゃがいもの他に鶏のから揚げ、ボルシチ、肉野菜の煮込み/炒め、鱒のバター煮込み等1品が付く。食材は2日毎くらいに買出ししており、他に森から採れるキノコが頻繁に登場した。ご飯も時々炊かれ、チャーハンのようなのも出される。

<shape id="図_x0020_7" alt="ハンター小屋前のツアーメンバー" type="#_x0000_t75" o:spid="_x0000_s1026" style="MARGIN-TOP: 38.75pt; Z-INDEX: 2; VISIBILITY: visible; MARGIN-LEFT: 170.85pt; WIDTH: 231.15pt; POSITION: absolute; HEIGHT: 177.5pt; mso-wrap-style: square; mso-wrap-distance-left: 9pt; mso-wrap-distance-top: 0; mso-wrap-distance-right: 9pt; mso-wrap-distance-bottom: 0; mso-position-horizontal: absolute; mso-position-horizontal-relative: text; mso-position-vertical: absolute; mso-position-vertical-relative: text"><imagedata o:title="ハンター小屋前のツアーメンバー" src="file:///C:DOCUME~1gotouLOCALS~1Tempmsohtmlclip11clip_image003.jpg"></imagedata><wrap type="square"></wrap></shape> Photo_2

ビールとウォッカは毎晩、時には昼も飲んだが、話の良き潤滑剤である。話題は場所柄、虎、ヒグマ、黒クマ(ツキノワグマ)、蛇、昆虫、きのこ等、罪がなく健全である。特に虎と熊の体験談は毎日でも面白く飽きない。興味深い話をいくつか紹介する。ここの虎はアムール虎と呼ばれ体長3m、足跡は登山帽ほどもある。猛獣3種の強い順は虎>ヒグマ>黒クマであるが、人間に対する危険性の順は黒クマ>ヒグマ>虎となる。虎は数も少なく(第1級の保護獣)極めてセンシティブで、ガイドU氏も未だ見たことがない。黒クマは人里近くにも多く狩猟の対象である。最もアグレッシブで、極東地区で毎年1~2名の犠牲者が出る。黒クマの天敵は虎で、夜は虎に追われるためか人里に出没する。この周辺にも毎晩現れるが、それは犬が吠えるので判る。事実我々の滞在中は毎晩2回ほど2匹の犬が激しく吠え、翌朝柔らかい土にはクマの足跡が残っていた。次に森でクマに出会ったらどうするかである。対話路線で説得するように話しかける、病気で食えないことをアピールして奇声を発するなどが優れており、死んだふりをするのはクマが死肉も食べるので俗説でないか、後ろを向いて逃げるのは逃げるものを追う本能を呼び覚ますという具合である。ただこの種の話しには誇張や創作が付きものなので、その点を念頭に聞く必要がある。クマには個性があり決め手はないようで、私は日本で入手した鈴を身に付けていたが、牧場付近では羊と誤認される恐れがあるかも知れないという。またテーブルのそばの2重窓の外側のガラスは割れており、これは虎が中を覗こうとして立ち上がり、前足を窓に掛けた時に割れたものとのことであった。中にいた人は凍りついたことであろう。

 昆虫の話題の主役はその大きさ、風格、珍品度においてカリポゴンである。10種ほどの同属は全て南米産で本種のみ極東に棲息するのもミステリアスである。話が進むうちに管理人が、そのような虫なら昨日階段の踊り場に来ていたので、踏み潰して捨てたとのこと。翌朝早速、残骸がないか探したが、多分ニワトリがついばんだのであろう、すでに影はなかった。

 今日の収穫は、移動と天気が悪かったことで空港前のシロジャノメとシロモンコムラサキ少々であった。

 7月16日は終日雨。(続く)


水木りょう著、「高橋竹山」と「三波春夫」その2

2009年10月25日 | インポート

「高橋竹山」と「三波春夫」その2

前記のように、定蔵(竹山)はボサマとして出発し、惨めな思いを乗り越え、生きる術をみずから学習しながらも、三味線はうまくならないと駄目と自覚し、懸命に勉強を重ねて独特の音色を出すまでになったのに対し、文司(三波)は家族に支えられながらもまた13歳で社会に飛び出し、懸命に働いてまわりに可愛がられ、浪曲の勉強を続けていったが、浪曲で人に訴えるためには人間の喜怒哀楽を知ることが大切と学んだ。

その最たるものは満州での戦争への出陣だったろう。多くの危険にさらされながら生き延びたのは、、唄を唄って世に光を灯すために生まれた文司は強い運命でもって危険から守られたのだろうか。
定蔵もまたそうだった。
三陸海岸を行乞してるときに、大津波に遭っている。昭和8年の冬に地震のあと、宿屋の主人に教えられた通り、死に物狂いで裏山をよじ登って九死に一生を得た。それだってそのときに命を落としてたらその後の「竹山」の偉業はなかったのだ。やはり強い運に守られていたと、彼は言っていたそうだ。
そうして定蔵は苦しい戦争へ駆り出された兵隊さんのために、ある民謡や浪曲の一座とともに、満州へ慰問団として渡っている。
そこで若い「文司」に遭っていたに違いない。
おそらく文司は兵隊の中でも有名だったに違いないから、一座が現れたときに、隊長さんから「おい!文司、おまえ浪曲上手いから歌えよ!」と言われ飛び入りできっと唄ったかもしれない。
そのときに若き三波春夫と若き竹山との共演があってもおかしくないはず。
こうして運良く文司がシベリアの(抑留)から解放されて帰国して、本格的に浪曲を始めた。

一方定蔵はハリ灸の資格をとったもののお客はなく、新しい妻のためにもまた三味線での仕事を増やしていく。市川竹女(民謡師匠)の一座で興行に連れ立ったり、浪曲の伴奏をしたりしてるうちに、津軽民謡を編曲したり、全国に薦めるために新しく作曲したりしてた「成田雲竹=津軽民謡大御所」が定蔵に目をつけて連れ歩くようになった。そして「弥三郎節」や「リンゴ節」「十三の砂山」などの新曲に加え、古い津軽の伝統の曲に次々と伴奏を作曲せよと雲竹師から命がくると、即座に彼は見事にそれを作りあげるのだった。
こうして雲竹・竹山のコンビは不動のものとなっていく。竹山という名は雲竹師が名づけたものだった。
竹山はのちに「おじっちゃと遭わねば今のオラはながったじゃ」と言っている。厳しく育ててもらったので、父親のような怖くて尊敬できる師であったということであった。
昔は、とくに津軽の民謡はさげすまれていて、悲しいものだったり、或いは酒の席でドンチャン騒ぎの唄だったりであったのを、それをリズミカルに編曲したり、歌詞を上品なものに替えたりして工夫し唄いやすくしたのだった。いつも襟を正し、「酒の席でだらしなく歌ってはいけない」と弟子たちにも固く禁じさせた。
その弟子にその後全国大会で次々と日本一になる歌手が誕生している。そうして津軽民謡は名実ともに全国に広まっていったことは、雲竹師の偉大な功績に他ならなかった。しかもこの頃竹山師も三味線もただ伴奏のみならず、他の演奏家がしてたように、じょんから節やよされ節の前曲の下りを工夫し、曲弾きと称して三味線を一つの音楽のジャンルとして高めていった。もうボサマの竹山ではない。

つづく


中原中也の詩を一つお送りいたします

2009年10月24日 | うんちく・小ネタ

      帰郷

柱も庭も乾いている

今日は好い天気だ

      縁の下では蜘蛛の巣が 

      心細さうに揺れている

山では枯木も息を吐く

ああ今日は好い天気だ

      路傍の草影が

      あどけない愁(かなし)みをする

これが私の故里だ

さやかに風も吹いている  

     心置きなく泣かれよと   

     年増婦(としま)の低い声もする 

           

ああ おまへはなにをして来たのだと・・・・・    

吹き来る風が私に言ふ

===新潮文庫、「中原中也詩集」平成20年12冊31ページより=====

尚、表記はPCの文字表記の限界のため原文通りでない所があります。


第二次世界大戦の莫大な犠牲者数を絶対に忘れないー戦争永久反対の為に

2009年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム

一昨日、山小屋で薪ストーブを焚きながら11月号の文芸春秋を読んでいました。何気なく387ページに戦後、責任を取って自殺したドイツの民間人の数が出ていました。ポツダム会談で敗戦後のドイツの処理案が発表された直後の4日間だけの自殺者数です;ベルリンで1200人、ライプチッヒで600人、ハンブルグで450人、ケルンで300人が自殺したと新聞に出ていたそうです。4日間だけでの総計が2550人です。それに比較して日本では愛宕山にこもった民間人10人位とその他に僅かと言われています。山小屋の中で何故か暗然とした気持ちになりました。戦争には敗戦後にも大きな悲劇が起きるのです。

そこで今日、いろいろ検索して戦争の犠牲者数を調べて見ました。以下に一つだけご紹介します。

船橋精一さんの「我が家のホームページ」です。その第二次世界大戦等の戦争犠牲者数の項目の1ページのみを転載いたします。http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM

   国  名    兵  員  の      一般市民の

           死  亡   行方不明  死   亡

   アメリカ     407,828            

   イギリス     353,652     90,844    60,595

   フランス     166,195          174,620

   ポーランド            (6,000,000)     

   ソ  連            (20,000,000)     

   中  国            (10,000,000)     

   ド イ ツ    2,100,000   2,900,000    500,000

   イタリア     389,000    214,647    179,803

   日  本   約2,300,000       約800,000 (単位 人)

      日本の兵員のうち、朝鮮・台湾の兵員犠牲者、約5万人を含む。

                   (ワールドアルマナック等より)

犠牲者数の多いのは、ソ連の2000万人、中国の1000万人、ポーランドの600万人、ドイツの550万人、日本の310万人の順になっています。

更に「シベリア抑留とは」(PDF)を検索すると第二次世界大戦の国別の膨大な捕虜の数の統計があります。そしてシベリア抑留でドイツ兵が55万人死んだと記録されています。日本がシベリア抑留で5万人死んだと言われていますから、その10倍です。この研究は東京大学の名誉教授の藤田 勇さんによる客観的な研究結果です。

20世紀の人類は狂気のように殺しあったのです。国家対国家の大規模な戦争によって殺しあったのです。

上に示した犠牲者の数をジッと見て、決して忘れないで下さい。死んだ人には家族が居ます。犠牲者の数の数倍の人々が生涯忘れられない悲劇を背負ってしまったのです。

「戦争反対!」と叫ぶ前に、戦争の想像を絶する悲劇の大きさを心に刻むのが重要と信じています。永久に戦争を廃絶するまで悲劇の大きさを忘れないようにしましょう。皆様はいかがお考えでしょうか?(終わり)


北原白秋の落葉松を思い出しながら撮った写真

2009年10月24日 | 写真

053
               一
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 からまつをしみじみと見き。
 
 からまつはさびしかりけり。
 
 たびゆくはさびしかりけり。


      二
                 い
 からまつの林を出でて、
 
 からまつの林に入りぬ。
 
 からまつの林に入りて、
 
 また細く道はつづけり。


      三
 
 からまつの林の奥も
 
 わが通る道はありけり。
  きりさめ
 霧雨のかかる道なり。
 やまかぜ
 山風のかよふ道なり。


      四
 
 からまつの林の道は、
 
 われのみか、ひともかよひぬ。
 
 ほそぼそと通ふ道なり。

 さびさびといそぐ道なり。

059


      五
 
 からまつの林を過ぎて、
 
 ゆゑしらず歩みひそめつ。
 
 からまつはさびしかりけり、
 
 からまつとささやきにけり。


      六

 からまつの林を出でて、
  あさま ね
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 浅間嶺にけぶり立つ見つ。
 
 からまつのまたそのうへに。


      七
 
 からまつの林の雨は
 
 さびしけどいよよしづけし。
 
 かんこ鳥鳴けるのみなる。
 
 からまつの濡るるのみなる。


      八
 
 世の中よ、あはれなりけり。
 
 常なれどうれしかりけり。
 
 山川に山がはの音、
 
 からまつにからまつのかぜ。

(夜叉神峠のカラマツ林は山の高いところにあり、上の詩のように林の中を歩くことが出来ませんでした。それに、明るい写真で詩の淋しい感じから遠うすぎて恐縮です)


ユダヤ人を修道院へ匿い、ナチスから守ったローマ法王

2009年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム

第二次大戦中、ナチスはユダヤ人を400万人殺しました。アウシュービッツで科学的に大量に殺したのです。その冷酷ぶりに全人類がショックを受けました。

当時のローマ法王は1939年に就任したピオ12世でした。ドイツのナチを非難する公的な声明を出さなかったのです。戦後、ユダヤ人団体などから厳しく糾弾されました。何故、沈黙を守ったのでしょうか?戦闘能力の無い羊のような民間人のユダヤ人を組織的に殺戮したのです。ローマ法王は当然、ナチスの殺戮を止めるための公式な声明を出すべきだったと思います。皆様はこのことをどの様にお考えでしょうか?

カトリックの私にとっては喉元に刺さった魚の骨のように、時々思い出しては痛みます。ところが今日の読売新聞12ページ目の「時代の証言」ヨゼフ・ピタウさんの談話録を読んで喉元の骨が取れたような気がします。

ピオ12世は第二次大戦中のローマの全ての修道院へ、出来るだけ多くのユダヤ人を受け入れ、かくまうように命じました。ナチスの厳しい逮捕からユダヤ人を守ろうとしたのです。異教徒のユダヤ人をそのままカトリックの修道院へ収容したのです。

ドイツ人から守るためユダヤ人に修道院の制服を着せ、カトリックの修道者だと言い通したのです。ヨーロッパには修道院には戦争の時でも手を出さないという伝統がありました。そのおかげで、ピオ12世は数多くのユダヤ人の命を救ったのです。

ピオ12世はそこまでユダヤ人へ同情し、命を救いながら何故ナチス非難の声明を出さなかったのでしょうか?

「時代の証言」のヨゼフ・ピタウさんの談話録には歴史的に興味深い事実がさりげなく書いてあります。ピタウさんがどんなに偉い人間で、どのように出世して行ったか?そんな事は重要でありません。彼の人間性を書いた部分と歴史的なエピソードが重要です。興味深いのです。

編集・執筆者の読売新聞調査研究本部の秦野るり子さんは少しピタウさんの聖職者としての出世の過程に紙面を使い過ぎている感じがします。そんな感想を持つのは私だけでしょうか?(続く)


ブログの縁で親しくなった友人と薪ストーブを焚きながらビールを飲む

2009年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム

皆様はブログを始めた時、どのようないきさつで始めたのでしょうか?

私は丁度2年前の10月に下のような甲斐駒の眺めを楽しみながら車をゆっくり走らせていました。山小屋のそばに住みついている鬼家(オニイエ)さんが歩道の上で挨拶しています。車を止めたら、相談事があるので後で私の小屋へ行くといいます。(下の写真で斜めに立っている柱は熊さんの手になる芸術作品で、先端からワイヤーが下がっていて巨大な鉄球がぶら下がっています。広い公園の中心にあり甲斐駒の景観に負けない迫力があります)

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小屋の前で焚火をしていたら鬼家さんが来ました。そして、いきなり、「ブログを始めませんか?」と薦めるのです。ブログという言葉を聞いた事がありません。何かサッパリ分かりません。しかし、手取り、足取り、教えてくれると言うのです。

下の写真が私の小さな林の中の小屋です。1973年に立てました。鬼家さんの山荘はここから600mくらい離れた林の中にあります。20年以上前から住民票を横須賀から旧武川村(現在の北杜市)へ移して独りで住んでいます。

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それ以来、鬼家さんはインターネットの使い方やデジカメで撮った写真をブログへ掲載する方法を丁寧に教えてくれました。その直後にコンピューターの故障を直しに来てくれたPC修理のプロがこのブログを数分で立ち上げてくれました。2007年の11月5日がこのブログの創刊日です。

一昨日の夕方、久しぶりに鬼家さんを私の小屋へ招待して2人でビールを飲みました。

足元には下の写真のような薪ストーブがパチパチと音と立てて燃えています。

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前の日に東京の自宅で自分で作ったビーフシチュウを鍋ごと持ち込み、薪ストーブで温めて食べました。(実は妻が野菜を切ったり味付けを直してくれましたが)

このブログの左下の方に「推薦したいブログ」として鬼家さんの自然を相手にした四季折々の写真や記事が掲載したHPが紹介してあります。それから、琵琶湖のそばに住んでいる ちひろさんや水戸の玲さんの最近のブログの写真の素晴らしさなどを話題にしてビールを飲みました。お二人は元々、鬼家さんのブログの「推薦したいブログ」の執筆者でした。鬼家さんのご紹介で私も友達にして貰ったのです。ついでに書けば私の「推薦したいブログ」の中には、伊豆に住んでいる木内光夫さんのブログがあります。彼は鬼家さんの山荘で、昔に知り合った人です。伊東市で「岩漿」という文学会を主宰している方です。地方で文学の灯を掲げています

このように、このブログは鬼家さんのおかげで順調に出発出来たのです。その後、独自に幅を広げ色々な方々と友人になることができました。mikaさん、 Parismidori さん、「昼のガスパール」というブログの主のオカブさん達です。「推薦したいブログ」をクリックするとこれらの印象深いブログがご覧になれます。

このブログも丸2年になります。ネットの上でできた友人も増えました。ブログは引退後の楽しみとしてかけがえの無いものになっています。どうぞ今後も宜しくお願い申し上げます。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。   藤山杜人


大宮司弘昌著、「初めてのロシア沿海州昆虫エコツアー」その四

2009年10月23日 | 旅行記

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<shapetype id="_x0000_t75" coordsize="21600,21600" o:spt="75" o:preferrelative="t" filled="f" stroked="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe"></shapetype><stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas></formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f><path o:extrusionok="f" gradientshapeok="t" o:connecttype="rect"></path><lock v:ext="edit" aspectratio="t"></lock><shape id="図_x0020_6" o:spid="_x0000_s1026" type="#_x0000_t75" alt="カリポゴンーR" style="MARGIN-TOP: 15.5pt; Z-INDEX: 1; VISIBILITY: visible; MARGIN-LEFT: 271.35pt; WIDTH: 133.05pt; POSITION: absolute; HEIGHT: 235.65pt; mso-wrap-style: square; mso-wrap-distance-left: 9pt; mso-wrap-distance-top: 0; mso-wrap-distance-right: 9pt; mso-wrap-distance-bottom: 0; mso-position-horizontal: absolute; mso-position-horizontal-relative: text; mso-position-vertical: absolute; mso-position-vertical-relative: text"></shape><imagedata src="file:///C:DOCUME~1gotouLOCALS~1Tempmsohtmlclip11clip_image001.jpg" o:title="カリポゴンーR"></imagedata><wrap type="square"></wrap>7月15日(移動日)          

 今日は空港経由でハンカ湖近くのハンター小屋までの移動日である。これほど蝶の多い場所を1日で次へ移動するのは惜しいが、実はノルウェー人の奥さんが今日帰国し、替わりにモスクワの蝶屋が到着することになっており、空港送迎のついでに次の場所へ移動しようというわけである。次の場所、ハンカ湖の近くはさらに自然度が高く、大形稀少カミキリのカリポゴンやコエレステスルリボシカミキリが期待でき、蝶も違う種が期待できるという。というわけで、8時に全員荷物をまとめ、空港に向かう。空港では待ち時間が2時間ほどあり、そばの荒地に入ってみると、ここにもシロジャノメとチョウセンジャノメが沢山いる。12時、モスクワのA氏が到着合流、出発。

 A氏は年のころ50歳、本職は細菌学で、極東の蝶を採るのが少年時代からの憧れであったと嬉しそう。道程の中ほどで、川岸に下りて昼食。ドライバーS氏は食器・調理器一式を積み込んでおり、食事の段取りの手際がいい。トマトおよびきうりのぶつ切り、ソーセージ、サラミソーセージ、チーズ、スライス状のパン・黒パンおよびコーヒーか紅茶が昼食の定番で、6人分が15分くらいで揃う。後片付けにも無駄な動きがない。

走り出して間もなくタイヤパンクである。天気は薄日、復旧に20分ほどかかるとのことで、ネットを持って歩きだすと、U氏の警告が発せられた。70m先の橋の下に黒クマの死骸がある。これは虎の仕業で、付近に虎がいるかも知れないので、あまり遠くに行かないこと。怖いもの見たさに橋に近ずくと死臭が立ち込め、死臭に惹かれて蝶が20頭ほど飛び回っている。美しい花の蜜を吸う蝶がいる一方、死体の腐敗液を吸うのも蝶である。橋の下には長さ1mほどの黒クマの皮があったが、頭部と中身はすでに失せている。背筋が寒くなる光景である。

 橋のない川をいくつか越え6時ころ予定のハンター小屋に到着する。U氏が農作業中の管理人らしい人を探し出し聞いたところ、6名は泊まれないとのこと。実はツアーの計画段階で、バンガローは予約できるが、ハンター小屋は普通予約できないと言われ、理解できなかったが、今その理由が分った。ハンター小屋は言わば原生林の山小屋であり、フロントも電話もない。予約管理の責任を持てる人がいないので、先着順なのである。U氏がここを第1候補に選んだのは、この付近は巨木が多く彼自身昨年近くのニレの太い立ち枯れでカリポゴンを見たからである。そして来たついでにその立ち枯れに案内してくれた。カリポゴンがそうそう見つかるはずもないが、立ち枯れには径20mmほどの脱出孔が4~5ケあり、カリポゴンに一歩近ずいた感じである。ここに泊まれないとは残念だが仕方がないので、6km先の別のハンター小屋を目指す。ところがその道が想像を絶する悪路である。狭い、急傾斜、激しい凹凸、深い水溜り、張り出した木の根と悪条件の見本市みたいで、どうなることかと一同息を詰める。今にも立ち木に衝突しそうになったり、今度こそ谷底に転落かと取手を握り締める。こんな昼なお暗い原生林で事故か故障でも起きたら助けを呼ぶのは大変である。最徐行で進んでいると、前方20mを2頭の大きい黒クマが横切るではないか。そして20mほど先で止まり、樹間からこちらの様子をしばし伺ってから静かに消える。向こうもこちらが珍しかったのであろう。悪路は続いたが、S運転手は慣れたハンドルさばきで次々と難問をクリアーし悪路が終わった時にはゲスト一同から思わず拍手が沸きおこる。ここが悪路であることは、U氏も運転手S氏も承知していたが、夕刻も迫っていたのでショートカットしたのである。またこの三菱デリカはやや古いながら本当に頼りになる。この辺で見かける車は大形トラック以外全て日本製なのもうなずける。 そして程なく7時頃に次のハンター小屋に到着した。(続く)


秋になると落ち葉焚きの煙の匂いが懐かしく思い出されます

2009年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム

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昨日、久しぶりに山林の中の小屋へ独りで泊まりに行きました。着いてみると小川がいつもの水音をたてて流れています。静かに近づいて行くと大なヤマメが一匹ゆっくり泳いでいます。しばらくヤマメと遊んで居る間に、落ち葉焚きをすることを思いつきました。昔は都会でも、住宅のある地域では秋になると庭木の落ち葉焚きの煙が良い匂いを漂わせていました。車の来ない裏通りでは道端で落ち葉焚きをしていたものです。子供が囲んでヤキイモを焼いて居たりしたものです。焚火禁止になって随分になります。あの季節の風物詩は日本から消えてしまったのです。懐かしい匂いと情景でした。

山林の中の小屋で落ち葉を集め、下の写真のように落ち葉焚きをしました。昔の懐かしい風物詩をよみがえらせました。2時間も落ち葉焚きをしていました。

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次の日の朝に焚火をした場所に朝日が斜めに射して、朝霧がうすく漂っていました。コーヒーを入れて朝食をとり、南アルプスの夜叉神峠の紅葉の写真を撮りに出発しました。

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水木りょう著、「高橋竹山」と「三波春夫」その1

2009年10月23日 | インポート

水木りょうさんは趣味人倶楽部の私のマイフレンドです。青森にお住まいで趣味豊かな生活をしていらっしゃいます。先日から、非常に興味深いお話を書いていらっしゃったのでお願いをして、このブログで広くご紹介いたします。3部作です。続編は順次、掲載してゆきます。藤山杜人

========「高橋竹山」と「三波春夫」その1==========
 最初に三味線の名人「高橋竹山」を話したいと存じます。彼の生い立ちや偉業は私が書くまでもなく多くの方がネットで書かれていますので、それらを見ていただければ幸いです。
私は竹山師が生前、「三波春夫っていう歌手はありゃぁおらは好かねぇ」と聞いたことがあった 。どうして?なんで?それを聞かないうちに二人とも他界してしまったのである。私は両名とも大ファンであるから、二人の人生を辿りながら考えてみたいと思ったのである。
竹山(定蔵)は少年のころに目を悪くし戸田重次郎という南部出身でありながら津軽に住んで「ボサマ」をしてる師匠から三味線を習いました。そして一緒に津軽地方や北海道などを歩いて放浪行脚し、乞食同様の生活を、盲目の人間が生きていく術を学んだのであった。
「ボサマ」とはただの乞食とは違い、三味線などを弾いたり、歌ったりして芸を見せてそのお礼にいくらかのお金を頂戴するものであった。(門付けともいう)自分一人で歩くようになっていかにお金をもらうことが難しいか、恥ずかしいことか身をもって体験するのであった。
回りの人が、一人より一緒に芸をする相棒がいたほうがいいということで、定蔵は嫁さんもらって二人で門付けして歩いてたが、子供ができて妻も子もふびんで、実家に帰したそうだ。
それから彼は一人で放浪するが、同じ放浪にも泥棒もいりゃ、商売人もいた。映画で有名な寅さんみたいないんちきな薬売りなどとも共に歩いたりして助け合って生きていったようだ。
お金がもらえずに畑から野菜や果物を取ってたべたり、石をぶつけられ追いかけられたり、そりゃあひどいもので、乞食となんも変わらない自分にどれだけ惨めな思いをしたことであろう。
 一方、定蔵よりおよそ一回り(13年)遅く、本屋を営む家の三人兄弟の末っ子として誕生した文司少年(三波)が7歳の時、「腸チフス」で母親が亡くなった。しかし優しい父のもとで、民謡を教えてもらいながらすくすくと育った。後に父が再婚したが、継母も優しい人で子供達は元気に育っていった。しかし戦時中である。文司は13歳で上京、米屋、製麺所、で働きながら元来明るい少年は、行く先々で唄を唄ってはみんなを喜ばせた。しかし朝6時から深夜の2時までの仕事はつらいものだった。ふとんの中で故郷を想い、米の選別をしながら涙をこぼす文司であったそうだ。しかし真面目な彼は一生懸命働いた。多くの人々に励まされ、唄の勉強も続けていった。
16歳、浪曲の学校(夜間学校)へ入学することができ、頭角を現し初舞台。少年浪曲家(南條文若)として働きながら経験を積み、1年8ヶ月で落語でいう真打ち、一枚看板の歌い手として巡業に出る。
そして多くの人から助言や支えがあって南條は声の使い方や喜怒哀楽の心や絵の見方や、人間として何が大切かなどを指導していただいた。こうした点は大変恵まれていたのだった。しかし彼にも軍隊召集の赤紙がくるのだった。20歳、陸軍部隊として満州へ渡る。20年戦況不利のなか、ソ連軍が参戦、激しい戦いのなか不思議と彼は生き延びるのであった。戦友が腕の中で「お母さん、お母さん」とつぶやきながら息を引き取っていくのをどんな想いで彼は見送ったことでしょう。恵まれていた彼の人生はこの戦争で大変辛く悲しい経験を積むのであった。
 片や「ボサマ」の定蔵は戦争が始まるまでは、門付けだけではなく、民謡の一座と旅回りしたり、浪花節の伴奏したり、さまざまな経験を積んでいた。旅の途中で会った師匠から端唄を習ったり、当時の有名な演奏家のレコードを聞いては覚えたりして、研鑽を積んでいた。
そして大東亜戦争が始まる頃は、八戸の盲亜学校に入るのだった。30代も半ばの男が学校へ入ったことは当時でも珍事なことで、定蔵も恥じも外聞もなく頑張るしかなかった。
持ち前の機転のよさと、要領のよさで学校のために配給の分を手回しして有利に運んだり、学校の勉強よりそうした裏方に力をそそぐのであった。それが学校からも感謝され、彼は針灸・マッサージの免許を取得する。文司(三波)は多くの人に支えられて指導を仰ぎ、天性の明るさと真面目さで人生を掴んでゆく。定蔵(高橋)の方は誰に頼ることもできず、自分の力で土と埃にまみれながら、生きる術を会得していく。そしてその体験から金を得て芸を磨いていってチャンスをつかんでいく。
この二人は全く別の正反対のような道を進みながら、大きな成功の道へ向かっていくのだ。また定蔵が浪曲の一座と慰問で満州へ渡ったときに、或いはそこではじめての二人の出逢いがあったかもしれない。
つづく