後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「聖母マリアの一生はどのようだったか?」

2023年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム
イエス・キリストは今から2000年以上前の紀元前6年頃、パレスチナのベツヘレムで誕生しました。
このキリストを生んだのが聖母マリアでした。しかしマリアはどんな一生を過ごしたのでしょうか?
今日は聖母マリアの一生を簡略にご紹介したいと思います。
(1)マリアの生年月日は不詳だが結婚については明快
マリアは紀元前6年の頃、大工のヨゼフと婚約をします。婚約中のある日、マリアの前に神の使いである天使ガブリエルが姿を現し、聖霊によってマリアが神の子キリストを妊娠したという“受胎告知”を受けました。やがてマリアからこのことを知らされた婚約者ヨゼフは、妊娠していることを知ると、結婚前に子供が生まれることは信じられないとマリアと縁を切ろうとします。しかしそんなヨゼフの元にも天使ガブリエルが現れ、マリアが生む神の子に「イエス」と名付けること、神の子とマリアを守るようにと告げます。信仰心の厚いヨゼフはお告げのとおり、マリアを妻として迎えることにしました。マリアはナザレからベツレヘムへの旅の途中馬小屋で出産しました。
(2)イエスは30歳の頃に宗教活動を4年間して愛の宗教と言われるキリスト教をつくった
イエスが成長して30歳頃になると宗教活動を始め、いろいろな奇跡をおこないました。弟子も増え12人になります。イエスは有名になりイスラエルの各地で説教を続けました。しかしヘロデ王はイエスを憎み逮捕させ裁判にかけます。そして裁判長のピラトは十字架刑を言いわたします。結局イエスは十字架刑になりました。
(3)イエスの処刑後どのようにして又生き返ったか?
イエスが処刑されて3日目の4月9日、日曜日の朝、イエスに仕えていた「マグダラのマリア」ら弟子たちが、イエスの遺体を香料で清めようとイエスのお墓へ出かけました。ところが、お墓の入口を塞いでいた大きな岩が転がされてお墓が開けられていたのです(マグダラのマリアは聖母マリアとは別人)。
マグダラのマリアたちは驚いてお墓の中へ入りましたが、イエスの遺体は消えていて、包んであった布だけが残されてていました。
イエスの遺体が何者かに盗まれたと思ったマリアは、すぐに弟子のペトロとヨハネに知らせに行きました。ペトロとヨハネはお墓の中を調べましたが、マリアの言う通りでした。2人が帰った後もマリアはお墓の前に立って泣いていました。そうすると後ろから「なぜ、泣いているのですか?」と声をかけられ振り返ると、なんとそこにはイエスが立っていたのです。これがイエスの復活です。
マリアはイエスの足にすがりつこうとしましたが、イエスの姿はそのまま消えていきました。
やがて、死者から蘇ったイエスの姿を見たという人たちは500人にものぼりました。
もちろん、イエスは使徒たちのところにも姿を現していました。
(4)イエスの生みの親、マリアは」聖母として信仰の対象となった
聖母マリアは言わずと知れたイエスの生みの母です。古代イスラエル王国のダビデ王の血を引いていました。
キリスト教の信仰の対象は、神と神の子であるイエスですが、布教の早い段階から、イエスの母マリアも崇拝するようになりました。特に聖母マリアの人気は絶大で、カトリックではマリアへの信仰心が篤く、聖母マリアの像は多くの教会にも置かれています。
しかしプロテスタントは聖人への信仰は否定しており、聖母マリアも崇拝していません。そのため聖母マリアとは呼ばず「イエスの母マリア」と呼ばれています。
(5)トルコにその後の聖母マリアの家がある
聖母マリアはイエスの処刑後にイスラエルからトルコに逃げます。トルコへ引っ越したのです。ですからトルコのエフェソス遺跡近くの山の上には、「聖母マリアの家」があります。
イエスは生前、使徒ヨハネに、「自分の死後、マリアを自分の母として世話をするように」と託していました。
イエスの昇天後、ヨハネはマリアと共にトルコのエフェソスに逃れ移り住み、マリアはこの地で、64歳で亡くなったと言われています。トルコのエフェソスは、聖母マリアが晩年を過ごし、そこで亡くなったという伝承の地です。
この地方には昔から、そのような伝承が残っていたものの、マリアが実際にどこで亡くなったかは長い間分からないままでした。おそらく、キリスト教は当時ローマ帝国からの迫害を受けていたため、聖母マリアを守るためには明らかにしてはいけなかったのではないかと考えられます。
(6)何故、聖母マリアの家が判明したか?
何故、判明したか? それはドイツ人修道女が19世紀に受けた夢でのお告げが根拠だったのです。お告げを受けたという修道女の話を基に調べてみたら、夢のお告げのとおりに4世紀頃の教会跡や1世紀の壁が発見されました。そして更なる調査の結果、バチカンも聖母マリア終焉の地として公認するに至ったのだとか。現在は、この聖母マリアの家一帯はバチカンが管理しています。

以上は以下の資料からの抜粋です。、https://turkish.jp/blog/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/

今日は聖母マリアの一生について簡略のご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は紀元前6年の頃に生まれたキリストと母のマリアです。馬小屋で生まれました。

2番目の写真はキリストが処刑される直前の最後の晩餐です。中央にキリストが座っています。

3番目の写真はキリストをはりつけ刑にする十字架を運んでいる様子です。

4番目の写真は聖母マリアです。 崇敬する教派は、カトリック教会、正教会、聖公会、非カルケドン派、ルーテル教会などです。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。