後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「川物語(5)北上川と石川啄木と宮沢賢治」

2024年05月22日 | 日記・エッセイ・コラム

北上川の水源は岩手県岩手町御堂にある「弓弭(ゆはず)の泉」とする説が一般的です。そこから岩手県の中央を南下して宮城県に入り石巻湾の太平洋へ流れ出ています。北上川のように北から南へ流れる川は全国でも珍しい川です。北上山地と奥羽山脈の間を流れているため、それぞれの山地からいくつもの支流が流れ込み、その数は大小合わせて200以上もあります。

1番目の写真は盛岡市を流れる北上川です。背後の山は岩手山です。ここへは2度ほど訪れましたが北上川にそった遊歩道を歩くと実に気持ちが良い場所です。

この北上川が流れている岩手県は宮沢賢治や石川啄木の故郷です。彼等の関連のある土地の盛岡や花巻も私は何度も訪問しました。小岩井牧場にも行きました。
盛岡城跡の高い石垣を登ると広い草原になっています。青草の上にあおむけに寝て大空を見ていたら家内が啄木の歌を言います。

「不来方の
お城の草に寝転びて
空に吸はれし十五の心」

啄木は明治期の詩人でもあり1886年〈明治19年〉に生まれ 1912年(明治45年〉に亡くなりました。

盛岡では「石割桜」の巨大な石に手をついて何故か感慨に耽りました。そして滔々と水量豊かに流れる北上川の岸辺にたたず啄木の歌を口づさみました。

「北上の岸辺 目に見ゆやはらかに柳あをめる 泣けとごとくに 」・・・石川啄木

2番目の写真は不来方の城です。写真の出典は、https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2396/ です。
盛岡城は、江戸時代の藩主である南部家の居城として嘉永10(1633)年に完成しました。

3番目の写真は岩を割って咲く 「石割桜」 です。盛岡の観光名所です。

4番目の写真はライトアップされた北上川沿いの桜並木 です。JR北上駅から徒歩7分ほどの距離 にある北上川沿いの桜並木 です。
さて次は宮沢賢治ゆかりの場所を訪れてみましょう。
賢治は1896年(明治29年)花巻に生まれ 1933年(昭和8年)に亡くなりました。盛岡への旅では賢治の作品を初めて出版した盛岡市の光原社を訪問しました。その後、小岩井牧場に行き、そして花巻市の羅須地人協会や賢治のお墓を訪ねました。 順々に写真を示します。写真はインターネットに出ている写真をお借りしました。

5番目の写真は北上川にそった盛岡の光原社です。光原社の創業者は宮沢賢治と親交があり賢治の「注文の多い料理店」を出版しました。また光原社という社名も宮沢賢治が名付けました。「注文の多い料理店」の初版本が展示してあり、家内は手にとらせてもらって大喜びしていました。併設のカフェで美味しいコーヒーを飲みました。

その後で盛岡の郊外の小岩井牧場をゆっくり散策しました。それから花巻市へ移動しました。

6番目の写真は花巻市ある賢治が設立した羅須地人協会です。賢治は大正15年に花巻農学校を退職し、花巻市に農業技術などを講義するため羅須地人協会を開設したのです。賢治はこの教室の2階に自炊し住んでいたのです。周辺の青年を集め化学、土壌、肥料、農民芸術論を講義し、農業指導を行なっていました。
花巻市には賢治が生まれ育った実家もありました。

7番目の写真は羅須地人協会の下にある畑です。私共は下りて行って畑の回りを散歩して来ました。畑の先に北上川が滔々と流れていました。
宮沢賢治の作品は時代を超えて美しい光を放っています。「銀河鉄道の夜」、「よだかの星」、「ポラーノの広場」、「オッペルと象」、「風の又三郎」、「北守将軍と三人兄弟の医者」、「グスコーブドリの伝記」、「銀河鉄道の夜」、そして「セロ弾きのゴーシュ」などがあります。

今日は北上川をご紹介致しました。そしてす石川啄木と宮沢賢治ゆかりの土地もご紹いたしました。生前賢治の唯一の作品を出版した盛岡市の光原社も印象深いものでした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


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