私たちは1958年に東北大学の工学部金属工学科を卒業しました。クラスは32名で、そのうち物故者は6名です。
5月12日の午後5時から東京のアジュール竹芝というホテルで17名の出席で卒業後58年目のクラス会がありました。
そのことについて、少し整理をして以下のような順序でご報告したいと思います。
(1)クラス会の様子と私自身の感想
(2)1958年以後の日本社会の激変の断片的な記録
(3)もう激変しない日本と、20年後の将来
このブログではなるべく歴史的な観点から文章を書くように心がけています。
しかし自分は歴史学者でもなく、また総合的な検証をした上で書いていませんので、その内容は個人の経験とその感想という限界が必ずつきまといます。その事をあらかじめご了解して頂ければ幸いです。
さて5月12日のクラス会に出席した人の集合写真を示します。
紅顔の若い青年たちも58年年経つとこうなるのです。中に1人だけご婦人がいますが、竹内君の奥さんです。
この会合は大体2年ごとに幹事2名が交代で開催してきました。仙台のそばの松島や盛岡のそばの温泉でもしましたが、その他は箱根や熱海、湯河原でしました。
今回の幹事は管野君と香坂君でした。遠方から新幹線で来る人の便利を考えて東京浜松町に近いアジュール竹芝に設定してくれました。
会場に行ってみて吃驚しました。こんなに景色の良い会場が都内にあったのです。
その会場の眼下には、美しい船が出入りしていて、その先には夕陽に染まるレインボーブリッジが見えるのです。一枚だけその写真を示します。豪華客船、日本丸の出港風景です。
こんな船を見ると今宵の宴を豪華客船のレストランでしているような錯覚にとらわれるから不思議です。
そらはそれとして、クラス会の内容です。
大学卒業以来、2、3年毎にクラス会を開催してきました。その会合の内容を振り返って見ると大体、三つの期間に分けられるような気がします。
それぞれが会社で技師として活躍中の現役の間のクラス会。
おおよそ60歳で引退したあと10年くらいの間のクラス会。
そして、引退して15年以上経ってからのクラス会。
どのクラス会も、まず2人の幹事が開会挨拶をして、一番年上の今泉さんか及川さんが乾杯の音頭をとって始まります。
乾杯の後はしばらく傍の人々と雑談をしながら飲みます。そして酔いが回ったころ出席者が一人、一人と立って近況を報告します。
最後に乾杯をして終りです。
その後の二次会は任意参加で、泊まる宿の一室で行います。今回も夜の10時頃までしました。原子力研究者だった近藤君の、原発は人類にとって必要なものだという静かな説明を聴きました。水戸まで帰る彼が席を立ってからからは、気楽なお遊びの話をして散会しました。
この宴会は席順も勝手で、幹事の挨拶も短く、カラオケも下手な余興も無いので気に入っています。要するに皆平等で気楽に話が出来る宴なのです。
さてその現役の間のクラス会の話の内容はどうしても技師としての仕事のことがおもになります。
時あたかも日本の高度成長期でしたので全員仕事が面白くて仕方が無かったのです。それでクラス会でもその仕事の面白さをしゃべることになります。
今回のクラス会の最中にそんな様子を思い返して、皆はそれぞれ仕事に恵まれた幸せな人生だったという感慨に捉われます。
同級生の大部分は金属関係の大会社に就職しましたが少数ながら大きな商事会社などでセールス・エンジニアをしていた人もいました。小さな会社の社長をしていた人もいました。しかし全ての同級生が張り切って仕事に打ち込んでいたのです。
さて、人によっては違いますが大体60歳で停年になります。その後、大体10年位のあいだに開催したクラス会では第二の人生を自分なりに確立する間の苦労や悲しいことに関する話題がでました。
停年前後に日本の経済が暗転しましたので皆が打ちひしがれていました。日本の政治家や、若者へ対する非難も話題になりました。
そして停年によって勤務状態が激変し、体の調子を崩す人もいました。
要するに人生の大きな過渡期の一つだったのです。
ところが今回のクラス会はその過渡期を卒業した人生の安定期の宴だったのです。
出席した人は皆、落ち着いた老境の健康状態にあるのです。顔色も良く、闊達にしゃべります。
話題が変わりました。会社での仕事の話はありません。政治家や若者を非難する人もありません。一人一人立って話す内容は、自分の住んでいる地域の事や奥さんを助けるための仕事のことが主になります。
不平不満を言う人は皆無です。
今までのクラス会で一番楽しい会になりました。
その本当の理由は全員が間もなくやってくる旅立ちの準備が終わっているからだと思います。私はそのすがすがしさに感動し、会合がまた一段と楽しくなってのです。
さてそれにしてもこの58年間の日本の激変ぶりにはあらためて吃驚しました。
我々の同級生が就職した富士鉄も八幡も日本鋼管も川崎製鉄も石川重工もみんな名前が変わって消えてしまったのです。隆盛をきわめた三菱重工も日本製鋼所もラサ工業もプログレスダイキャストもみんなみんな衰退してしまったのです。
これらの工業が再び隆盛することは日本ではないのです。
産業界が変わればその人間関係も当然変わります。
アメリカ社会における人間関係に次第に近づいてきたのです。
さて、それでは今後の10年から20年の日本の将来はどうなるのでしょうか?
手短かに言えば経済は再び活性化して景気が良くなります。高度成長時代のような騒がしいことはありませんが着実に経済状態は改善されます。今後は大量生産や重工業に代わって、コンピューターの利用技術が工業技術の中心になります。
そして社会文化の面では日本はますます国際化し、人間関係もより自由で平等になります。より成熟した民主主義が社会の中に万遍無く沁み込んで行きます。
今回の大学卒業後58年目のクラス会で考えたことを書いてみました。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
後藤さま
25年前にシナーラで船上結婚式を挙げ、今年、結婚25年を迎えるにあたり、今、どうしているのかと思っていたところ、こちらのブログに辿り着きました。初めまして。
10年ほど前にたまたまシナーラと再会でき、スタッフのご好意に寄り、係留されたままでしたが、乗船させていただいたことがありますが、それからすっかりご無沙汰でした。
mmさまからの投稿を見て、船検取り直し、シーボニアに係留されていることを知って、嬉しく思い、思わずコメントさせていただきました。
式の記念にといただいたシナーラの写真時計が25年の歳月とともに、今もリビングで時を刻み続けているので、シナーラのことはいつも心のどこかにあり、銀婚式を迎えるにあたり、また会いに行ってみたいと思っているところでした。
ちなみに当時は、まだ株式会社シーボニアだった頃で、船長は下里浩久さんという方でした。ちょうど結婚式場でないウエディングが流行り始める前くらいだったのもあり、新聞掲載されたりもして、楽しい式でした。
またシナーラのことなど、何か情報がありましたら、
ぜひ、教えてください。
突然のコメント、大変、失礼いたしました。