後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

人間は歳をとると自然が急に好きになります・・・若い時は想像していませんでした

2013年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム

老人になると急に自然が好きになります。別な言い方をすれば暇な老人のお相手をしてくれるのは自然だけになってしまうのです。

ある時期までは孫達が相手になってくれますが、彼らが中学、高校と大きくなるともう駄目です。部活が忙しくなり、家にも居なくなります。

淋しいと言えばその通りですが、孫達の面倒を見る仕事を終了した達成感が心を豊かにしてくれます。

そんな他愛もないことを考えながら今日もまた山に登って来ました。

今日は裏高尾の旧甲州街道を車で上がれる場所まで行き、そこから小仏峠への山道を登りました。40分かかって標高570mの小仏峠の頂上に出ました。

今日は元気な家内も一緒だったので、彼女が、そこから標高670mの城山頂上まで900mしか無いのだから登ろうと言い出します。

900mはたいした距離ではありませんが標高差が100mあるのです。どうせ途中で止めるだろうと思いましたが登りはじめました。

300m位登った時に急に視界が開け、展望台があります。そこから相模湖が見えるのです。これには驚きました。

相模湖は低い谷の底にあるので、高尾山頂上、城山頂上、小仏峠、景信山頂上から見えないのです。ところが小仏と城山の間の尾根からよく見えるのです。満足しました。

それから又300m位登ったところから急な登りになります。城山頂上まではあと300mだけですが標高差はまだ50mはありそうです。家内も今日はここまでと言っているので引き返しました。

それにしても山道の周囲の樹林の神秘的な美しさに圧倒されます。

大きな樹木一本一本に霊が宿っている様子です。

風が吹いて木々が揺れるとその風音が樹木同士の話し声のように聞こえます。

心地よい声です。

そしてそれに唱和するようにウグイスが啼いています。いろいろな啼き方で唱和しているのです。

この山の中の森に囲まれていると大きな安堵感に包まれるのです。

ああ、自然って良いのもだなあと感じ入ります。そしてより一層、自然が好きになるのです。これが老境の良さというものでしょうか?

下にそんな風景写真をお送りいたします。

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駐車場から小仏峠への登り道は上の写真のような鬱蒼とした森の中の道です。

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山道を歩く小生の姿です。家内が振り返って撮った写真です。

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始めは広いなだらかな登山道ですが、次第に上の写真のように細くなり、険しい小道になります。それが登山というものです。

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小仏峠は十字路です。山下の小仏宿と相模湖側の小原宿を結ぶ甲州街道と高尾山と陣馬山を結ぶ尾根道が交差しています。

今日は右の方向の小仏城山への山道を登りました。

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300m位登った尾根筋で急に視界が開け相模湖が見えたのです。これは嬉しい驚きでした。しかしそこから更に300m登った所で今日は挫折しました。

捲土重来、またの機会に城山頂上まで登ります。

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車の駐車場の下に見事な山桐の大木が2本あり、花が咲いていました。上品な淡い紫色が夢幻の美を感じさせます。上の写真は逆光なのでその色が写っていません。ご想像頂ければ嬉しくおもいます。

今日の無駄な時間のつぶし方のお話でした。失礼しました。(終わり)


夫婦のあいだで正義を論ずることの愚かさ

2013年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム

どちらが正しくて、どちらが誤りかという問題は厳密に言うと簡単に決着がつかない問題です。その理由は正誤の判断の基準の置き方を変えると全く逆の結論になってしまうからです。

いきなり卑近な例になって恐縮ですが、家人は私の日本語の使いかたが間違っていると何度も注意します。江戸時代や明治時代から続く言葉や熟語の本来の意味を無視して、現代風の意味で使うと本来の意味を説明します。かしこまって聞いていますが、いささか得意そうなようすを見て愚かなことだと感じています。私は何も言いませんが、どこの国でも言葉や熟語の意味は時代によってどんどん変わるものなのです。

もう一つは言葉のアクセントの置き方の正誤です。私は仙台育ちなので仙台弁のアクセントが必ず出てきます。仙台弁では端と橋と箸はみな同じでアクセントはつけずに、「はじ」と「はず」の間の発音で表現します。端と橋と箸の違いは前後の文脈で明らかになるのです。

そう説明するとすると、家人は正しいアクセントで話さないと判らないと言います。今度は私も黙っていません。仙台弁が間違いで東京弁が正しいと一体誰が決めたのでしょうか?

日本には地方、地方に独自の文化があって、その優劣は絶対にないのです。と、言って、ついでに文化人類学者のルース・ベネデクト女史の偉さを説明します。

これで私の勝になる筈です。ところがさにあらず。家人が確信的にいうのです。

「日本人なら標準語で話して」と。これで喧嘩は家人の勝です。

私は敗けたふりをしながら、心の中では三陸地方の気仙語で聖書を翻訳した偉いお医者さんのことを思い出して、反論を試みます。お互いに自分が正しいと主張しあいます。

もうこんな話は止めます。

この記事で言いたいことを書いてしまいます。

最近、中国が第二次大戦以前の日本の侵略を非難し、韓国は日本の朝鮮合併の非を盛んに主張しています。安倍総理の刺激的な発言が、火に油を注いでいます。

あまり騒がしくなったのでアメリカ下院の決議文で安倍総理へ発言を注意するように言っています。アメリカの国益から判断すると安倍総理の歴史認識は有害だと指摘しているのです。

中国の主張と日本の主張のどちらが正しい歴史認識なのでしょうか?

韓国の主張と日本の主張のどちらが正しい歴史認識なのでしょうか?

この問いに対して双方の学者同士が共同で研究調査をすれば正しい結論が出ると主張する人がいます。しかしこの理解は雑すぎて、完全に間違っているのです。

単純な自然現象なら科学で決着がつきます。しかし地球温暖化現象のように複雑な自然現象になると科学はお手上げです。炭酸ガスが温暖化の原因だというのは仮説であって誰にも証明出来ないのです。ですから科学者はみなその結論を疑っています。信じているのはマスコミだけです。

さて歴史認識は科学と全く別世界で、認識する人の立場によって大きく異なるのが普通です。歴史認識には正誤を判断する基準が無いのです。

例えば南京虐殺は30万人と認識している中国人の学者がいたと仮定してみましょう。それに対して日本人のある学者が2万人だと主張したとしましょう。

しかしどちらもその根拠は曖昧模糊として科学的議論になりません。証拠としてどちらも話にならんのです。それを証拠と主張している論理にあきれ返っています。

南京事件を再現する実験は不可能なのです。実験で定量的に証明されない現象は全て科学の研究にはなりません。

ですから双方の学者が研究して一つの結論を出すべきという主張が科学と歴史研究の大きな相違を無視した実に雑過ぎる主張なのです。愚かな主張なのです。

実験で定量的に証明されない現象の正誤の決着はつかないのです。

昨日、アメリカ下院で出した報告書は日本、中国、韓国のどれが正しい歴史認識かという問題には一切触れていません。 

単に安倍総理の発言がアメリカの国益を損なっていると主張しているだけです。しかしその主張は科学的に証明できるのでしょうか?

朴大統領のアメリカ議会での演説が良かったからのようです。

彼女は冒頭に、「かつての朝鮮動乱で血を流した全てのアメリカ人将兵に感謝する」と言ったのです。演説終了後、議員たちが総立ちして拍手していました。

感情が静まるような写真を下につけます。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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