後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ある方の宗教に対する心の軌跡(3)本当に天皇陛下を神と信じていました?

2008年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム

以下は毎日新聞記者であられた銭本三千年(本名で、ぜにもと みちとし)氏のブログの文章です。お許しを得て何回かに分けて連載いたしています。

孫と同年齢の女子学生が、私に向けた質問は、もう一つ、より深刻な問題を呼び覚まします。第二次世界大戦の時代に「軍国少年」と「クリスチャン」の二つの宿命を私は背負っていました。

 「軍国少年」としての側面は、天皇陛下との向かい合いの問題。それは疑うことが許されなかったイデオロギーとして説明出来ます。一個独立の判断力を備えた成人ではなく、従順を最高の美徳と教えられた子どもにとっては国家・教師が指し示す徳目は金科玉条の真理でした。子どもにそれを疑う能力は無かったのです。ましてそれに抗することなど夢にも思わなかったことです。

 しかし「クリスチャン」としての側面は、国家から一応、遮断された私個人の、神と向かい合った良心に属する信仰の問題です。学生の質問は、同時に「イエス・キリストを神と信じていました?」と問いかけてもいます。実は、この問題は長く、わが内にあって悩み、苦しんだ試練でした。

 私はこれまで自分の信仰問題を表に出すことを差し控えて来ました。でも多くの知人・友人は私はクリスチャンだと思いこんでおられます。若き日、同志社大学神学部に進み、キリスト教倫理学の勉強を志したのですからそう思われるのも自然でしょう。

 しかし私は、既に教会を離れ、キリスト教信仰も捨てております。その後、ユダヤ教、イスラム教、更にバハイ教などいわゆる一神教の研究に没頭した時期もありますが、「唯一無二の全知全能の人格神」には絶望し、それに帰依する気持ちはもう完全に消え失せております。信仰という一点から己を見つめる時、私はもっと原初的なアニミズムの世界に祈りの心を向けます。

 私のため日々の糧を備えてくださる天なる神のような都合のいい神は奉戴しません。今ある我が命のためそれぞれの命を捧げてくれる動植物を想い、贖罪と許しの祈りを捧げたい気持ちが強いです。 

 少し本論を外れましたが、私は生まれ落ちてから物心つく年頃まで、ずっとクリスチャン・ボーイで育ちました。小学校と基督教会の日曜学校は全く同列に重要な私の学校でした。

 今から考えると、非常にオカシイ話ですが、私には教会の日曜学校から牧師に引率されて明治天皇の桃山御陵に参拝した思い出があります。それも1度や2度ではありません。牧師の先導で聖戦必勝祈願の柏手を打ちました。

 みなさんもご存じでしょうが、キリスト教は偶像崇拝を厳しく禁じています。「そんなこと、ウソでしょう」 戦後、しばらく経って教会の新しい信者にお話しすると、誰も信じませんでした。しかし、事実なのです。またある時には、聖戦翼賛の誠を証するためキリスト教信徒による戦闘機を軍に寄付する話が持ち上がり特別献金もしました。

 これらのことは敗戦とともに一億総懺悔で、キレイさっぱり忘れ去られました。しかし、戦争の時代に信仰を守り通した古い時代の信徒たちは、その後、ずっと、心の内に秘めた良心の痛みとして、信仰上の忌まわしい過去を持ち続けています。

 事実、教会を離れた私ですら、今日まで重く引きずっている心の問題です。一つは教会が何故、侵略戦争を聖戦として積極的に翼賛したのか? それは聖書のどの教えに基づくのか?という設問。もう一つは、何故、教会・牧師は信徒を引き連れ神社参拝(偶像崇拝)したのか?という設問です。

 日本基督教団が、初めてこの問題を総括し、過ちを認めて「告白」を公表したのは1967 3月のことでした。22年も掛けて、やっと真実が明らかにされました。そのとき手にした文書大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」を読んで私は、すべての疑問が氷解したのです。


産学官連携の意味とその重要性

2008年12月11日 | うんちく・小ネタ

日本の経済の1970年代と1980年代は所謂「高度成長時代」でした。それが1990年ころバブル経済の崩壊で10余年にわたる長い不況が続きました。やっと景気が上むきになってきたと思ったらアメリカのサブプライムローンの破綻で金融業界が行き詰まり、またまた長い不況の時代に突入しました。1990年代に、少しでも早くバブル経済の崩壊から立ち上がらせよろうとして日本政府、とくに経済産業省は産学官連携政策を進めました。サブプライムローンによる今回の不況においてもこの産学官連携のさらなる推進は意義あるものと思い、ある考察をご紹介したいと思います。http://www.tb-innovations.co.jp/link.forum.goto.0.htm に御座いますのでご笑覧下さい。 

(終わり)


ブログとはいったい何だろうか?

2008年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム

昨年の11月にこのブログを始めて丁度13ケ月になります。その間の掲載記事は800件、コメントは1700件です。掲載写真も多数あります。一年たってみて最近ブログとはいったい何なのだろうか?と考えています。単なる暇つぶしだから下らないという人々も居ます。随分と取材のために暇と労力も使いました。しかし良い効果も出てきました。一年たってみてブログをして良かったと思うことを2つ3つ書いて見ようと思います。

(1)ヨット、山林の中の小屋、観光旅行などの趣味的遊びの記事を書いているとそ           の楽しみがより一層深くなりました。書くことによって気持の整理がつき、そして印象が一段と深くなる効果があるようです。それからヨットに独りで乗っていても読者の方々と一緒に乗っているような錯覚にしばしばとらわれました。それは山林の中を一人で散策している時も同じです。

(2)このブログの中には日本と外国の文化との比較論、宗教や習慣の比較など重い話題も取り上げました。頂いたコメントは多くありまんでしたが大変参考になりました。そして他の方々のブログも広く読んでみまた。

その結果、自分の持っている考えは育った時代や日本のおかれた国際的な環境で決まっていたことに気が付きました。その上職業的立場によって決まるのがごく自然なことと思うようになりました。国立大学で長い間働いてきたので、国家公務員としての視点によって強く影響を受けていました。それで中央省庁の官僚とよく意見が合ったことを思いだしました。しかし世の中には色々な人々が居て、それぞれ違った考えを持っていることが体験的に理解できました。

良いことの反面なにか空しい感じも受けています。それはブログ世界は仮名性で出来ている仮想的な空間だからと思います。実生活とは随分と距離があります。それが何かむなしい感じを与えています。

そこで最近はブログで知り合った、ひかるのさんと甲斐駒さんに実際にお会いしてみました。その感想は2つの記事として掲載した通りです。今週の土曜日にはもう一人の方と会う約束が出来ています。ブログで知り合った方々とお会いした結果どうなるか?

それはもうしばらく時間をかけてから感想記事を投稿していと思います。

つまらない話題かもしれませんので一応終わりにします。(終わり)


日光の魅力(4)輪王寺別院中禅寺、立木観音、旧イタリア大使館別荘

2008年12月11日 | 旅行記

まずhttp://www.nikko-jp.org/map/yumocyuu-map.html#cyuzen をクリックして、中禅寺湖周辺の地図をご覧頂きたいとおもいます。

標高の低い日光市にある輪王寺や東照宮から、いろは坂を登ると、中禅寺湖畔に上がれます。上がったところが湖の東端です。そこに水の落ち口があり、華厳の滝になっています。

湖の東岸を南方向へ行くと、日光レークサイドホテル、輪王寺別院中禅寺(立木観音)、昔の夏期イタリア大使館が続いています。多くの観光客は華厳の滝の後は、東岸を省略して、北岸の観光船乗り場へ行ってしまいます。そこで今回は案外見落としがちな東岸をご案内します。下の写真は華厳の滝の上空からレークサイドホテルとその向こうに広がる湖の東岸を撮影した写真です。(写真の出典:http://www.tobuhotel.co.jp/nikkolake/06_around/ 

Kegon1 この写真の左の方向に順に中禅寺と昔の夏期イタリア大使館が続いています。

レークサイドホテルは下にある日光金谷ホテルの完成のすぐ後、1894年に開業した老舗ホテルです。

前庭の芝生の向こうに湖が広がっていて、風景の良い場所にあります。サービスの質が良い老舗ホテルなのに宿泊料が高くないのでよく泊まりました。

このホテルに泊まり、次の午前中は東岸沿いの美しい道を南へ走り、何度か中禅寺へ行きました。無料駐車場の前が湖で、その山側の小高い斜面に中禅寺がゆったりと広がっています。

斜めになった参道を本堂の方へ登って行くとき湖が見えて良い気分になります。

中禅寺が有るから、その前に広がる湖をのちに中禅寺湖とよぶようになったことが実感できます。

このお寺は男体山を信仰の対象として開山した勝道上人が784年に開いたと言われています。その時、勝道上人が一本の木に彫った観音が立木観音(重要文化財)と言われています。彫り方が素朴で浅い切り込みなので、まるで立木がそのまま観音様になったように見えます。材質を科学的に調べたところ平安時代の作らしいと言われています。男体山が御神体でそれを祀るのが二荒山神社と下の輪王寺や上の別院の中禅寺だったそうです。昔は神仏習合だったので不思議ではありません。下にあるのが中禅寺と立木観音の写真です。

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(写真の出典:http://www.rinnoji.or.jp/keidai/tyuzenji/tyuzenji.html 

中禅寺の前をさらに南へ行くと、昔、夏の間だけイタリヤ大使館として使っていた建物が修復されて公開されています。前庭が湖へ続いています。

別荘に入って、ゆっくり歩き回っているとイタリアの軽やかで明るい文化が身を包みます。何度か行きましたがあまり人影のない旧イタリア大使館でした。この様に中禅寺湖の東岸は観光客が少なく静かな一帯です。この地域も是非見て頂きたい日光の魅力の一つなのでご紹介しました。(続く)