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祥泉暦

日常の出来事の記録

退職しました。

2025-04-02 00:59:08 | 日記

3月31日で5年間勤務させていただいた職場を退職しました。





ここでの仕事が私の最後の職場となりました。


新卒で就職してから4つの会社に就職したことになります。

私の年代は、いわゆる専業主婦時代で、新卒で就職した会社は

「寿退社」しました。当時は女性として当然の選択でした。

結婚のために山形から神奈川に来たので、当然の事でもありました。


そして結婚してまもなく就職を希望して求人広告頼りに就活をしました。

失業保険を受給するために職安にも行きました。が、今では考えられませんが

「子供ができるまでの腰掛けね!?」という様な反応で、思う様な職には就けませんでした。そしてあっさりと諦めたのです。

今思うと特技もないし、これと言う資格も無かったので当然ですね。


仕事に就けなかったので、以前から学んでいた書道は続ける事ができました。

第二子が誕生した2年後位に、今の書壇で師範のお免除を頂きました。

当時住んでいた自宅で書道教室を始めました。ご近所の小中学生、そして学生時代の友達などの大人にも。

書道は教えるために始めた事では無かったのですが、学びを深める為には良い経験となりました。


やがて子供の成長と共に家計費のために働く必要が出てきました。いわゆる「パートに出る」時代です。日中の生活のリズムは変えたく無かったので、夕方から夜の数時間の勤務の「高校受験の為の塾」の事務職に就きました。

個人経営の塾を3校開校している塾長は、外資系企業を脱サラの経験者でした。日中は大人向けのパソコン教室もやっていて、これからはパソコンが必須と学び始めた老若男女が集まっていました。塾長は、私にマイクロソフト社のパソコン検定を受けて資格を取っておく事を薦めてくれました。


実はその10年以上も前に夫は会社で技術課からシステム課に仕事を換えていました。ホームパソコンも当然他の家庭より充実していました。

そして次の仕事に就く時に大いに役に立ちました。いわゆるネット通販の先駆け的企業に就く事ができました。

子育ても一段落した頃に私たち4人の両親を見送る事にもなりました。



思えば、すでに65歳という時にまだやり残した感があって、仕事を探して今の職場に就きました。


55歳で夫の台湾赴任に帯同する為に、以前の職場を退職したので、まさかまた仕事に就こうとは思ってもみませんでした。


「やり残した感」というのは、ライフワークとしていた書道です。

当時仮名も学びはじめていたので、書道に費やする為の経費を

年金暮らしとなった当時は、悩みの種でした。経費をかけない楽しみ方もあるのですが、経費をかける楽しさを継続したいという思いでした。


この5年間は本当に有意義な時間でした。子供と関わる仕事だったので、子供から得られるエネルギーと身体を動かす快感は、初めての経験でした。そして目的の書道は、芸術としての自分の書の方向を掴む事ができました。これからがとても楽しみです。


70歳という事で退職の時期を選択できたことに感謝します。




退職の日に、一年前に同じ職場を退職された方から、素敵なプレゼントが届いていました!!







2025年 幕開けー。

2025-01-29 19:08:00 | 日記
あっという間にお正月が終わり、あっという間に一月が終わろうとしている。
恒例の年末年始のイベントを記録に残しておこうと思いつつ今日にw

先ずはお節料理。定番ですが今年は伊達巻が好評でした。
そして孫たちがよく食べる様になり嬉しい。
反省というか来年の為に、お肉料理を増やした方が良さそう。
例えば八幡巻きなど。










宿題の書き初めのお手伝い。



そしてこれも恒例になった凧の制作と凧上げ。
今年から4歳にも加わりました。








多少風もあって楽しかった!!




















そして家族の記念写真を撮って  おしまい。












古稀同窓会に出席して

2024-08-16 22:09:00 | 日記
70歳を記念して小学校時代の古稀同窓会に出席しました。



実は故郷の習慣なのでしょうか、同窓会は5年毎位に開催されています。
私は還暦同窓会以来10年ぶりの出席でした。
懐かしい顔ぶれに会いとても楽しいひと時でした。

この古稀を迎えた時期に、残念ながら亡くなられた方が予想以上に多くてびっくりしました。
とともに、自分がこの場にいられることに対する特別な思いを抱きました。
そして小学校時代の私の事を振り返り、ブログに特筆してみようと思いました。

私は小学校の一年生の健康診断で先天性の心疾患がみつかりました。
病名は 心房中核欠損症 で、右心房に穴が空いていて、血液がその穴のために漏れてしまう症状でした。そして医師から言われたのは「手術して穴を塞がなければ20歳までしか生きられない」直接医師から聞いたわけではなく、両親からそう説明されました。
当時の私は、「20歳までしか生きられない」ことの悲壮感は全くありませんでした。
7歳の私には20歳という歳は、遥か遠い年齢でした。それより何より手術は怖い!!
全力で拒否しました。それを見ていた祖母が「〇〇子が嫌がっている事をさせるな!!」と全力で私の拒否を守ってくれました。
今から60年前のことです。両親の苦悩は相当でした。情報はないしとにかく医師と患者とのコミュニケションは皆無の時代です。患者とその家族の精神的ケアなど全くありませんでした。
手術を拒んだ〇〇子は、そんなに聞き分けがないのかとの医師の暴言。
親として子供の意思を尊重すべきか否か。子供の意思を尊重していると言うのは綺麗事で、
決断ができない優柔不断な父親なのかと、、、
それに心臓手術に対しての恐怖は親も同じ。本人が嫌がる事を無理にやらせて死なせるよりは
20歳まで生きる選択の方が良いのではないか。

それからは、体育は全て見学、遠足旅行は不参加、学級委員に選出されてもそれを辞退させられる。担任の先生や保健室の先生からは「困った子」だったのでしょう。
当然、自己肯定感ゼロ、自信なしでした。
が、登校拒否など全くなし、周りのお友達にその事で嫌な思いをしたことも全くありませんでした。体調異常も全くなかったので、腫れ物に触れない小学校時代を過ごしました。
6年生の湯浜一泊旅行にみんなが出かけるのを淡々と見送りに行っていました。

そして中学2年直前に高校受験を意識する様になり、
中学校の鞄がとても重く感じて、
自ら手術を受ける意思が芽生えました。
決断したら即決行となりました。
もしかしたら手術が失敗して死んでしまうかもしれないとリアルに思い
自分が生きていた証を残そうと、ノートに遺書の様なモノを書いたのを覚えています。
全て取越苦労に終わりました。

そして狭い街中で、当時は大ニュースの出来事となりました。
「あなただったのですか、心臓手術を受けたのは!?」と、
だいぶ経ってからも随分、事ある毎に声をかけられました。
そして心臓手術を受けた作文を書くことになり、
知らない先生が大勢いる研究授業のヒーローになったのです。
当然健康体と共に達観視する子供になっていました。

社会人になってAEDの日本光電という医療機器メーカーに就職しました。
そしてその昔のことを上司に話したらとてもびっくりしていました。
心肺装置のない時代に、術後のケアなど皆無の時代に手術をしたことへの驚きでした。
よく生きて帰ったと!


私だけでなく70年も生きていると、
苦しいこと、悲しいこと、辛い事は誰にも起こっています。
時間が経過して健康であれば、ほとんどのことは乗り越えられるのが人間です。
同窓会であった皆さんも多かれ少なかれそれを経験しているからこそ、
昔を懐かしむ事ができるのでしょう。

小学校の暗かった時代をここ何十年も思い出す事はありませんでした。
今私の周りにいる人の9割は、私が先天性の心疾患だとは知りません。
今は母子の体内にいる時にわかります。医学の進歩も超超素晴らしい。
教育現場も心のケアに重きを置く時代です。

しかしながらコロナ期があったり、気候変動があったりと、次々に新しい問題や
事件が起こってきます。そして「人生七十古代稀」と言われた様に、
間違いなく締めくくりの時に入ろうとしています。
人生の幕をどう引くかをちゃんと考えながら生きていこうと思います。

故郷で内科医として活躍されているS先生に、同窓会の終盤に
元気でいる為に必要な事は
「栄養、睡眠、適度な運動、それから自分を奮い立たせるモノ」だと、
偉そうな事を酔った勢いで言ってしまいました(笑)

自分を奮い立たせる事で、古稀を祝した思いを書かせていただきました。