
70歳を記念して小学校時代の古稀同窓会に出席しました。



実は故郷の習慣なのでしょうか、同窓会は5年毎位に開催されています。
私は還暦同窓会以来10年ぶりの出席でした。
懐かしい顔ぶれに会いとても楽しいひと時でした。
この古稀を迎えた時期に、残念ながら亡くなられた方が予想以上に多くてびっくりしました。
とともに、自分がこの場にいられることに対する特別な思いを抱きました。
そして小学校時代の私の事を振り返り、ブログに特筆してみようと思いました。
私は小学校の一年生の健康診断で先天性の心疾患がみつかりました。
病名は 心房中核欠損症 で、右心房に穴が空いていて、血液がその穴のために漏れてしまう症状でした。そして医師から言われたのは「手術して穴を塞がなければ20歳までしか生きられない」直接医師から聞いたわけではなく、両親からそう説明されました。
当時の私は、「20歳までしか生きられない」ことの悲壮感は全くありませんでした。
7歳の私には20歳という歳は、遥か遠い年齢でした。それより何より手術は怖い!!
全力で拒否しました。それを見ていた祖母が「〇〇子が嫌がっている事をさせるな!!」と全力で私の拒否を守ってくれました。
今から60年前のことです。両親の苦悩は相当でした。情報はないしとにかく医師と患者とのコミュニケションは皆無の時代です。患者とその家族の精神的ケアなど全くありませんでした。
手術を拒んだ〇〇子は、そんなに聞き分けがないのかとの医師の暴言。
親として子供の意思を尊重すべきか否か。子供の意思を尊重していると言うのは綺麗事で、
決断ができない優柔不断な父親なのかと、、、
それに心臓手術に対しての恐怖は親も同じ。本人が嫌がる事を無理にやらせて死なせるよりは
20歳まで生きる選択の方が良いのではないか。
それからは、体育は全て見学、遠足旅行は不参加、学級委員に選出されてもそれを辞退させられる。担任の先生や保健室の先生からは「困った子」だったのでしょう。
当然、自己肯定感ゼロ、自信なしでした。
が、登校拒否など全くなし、周りのお友達にその事で嫌な思いをしたことも全くありませんでした。体調異常も全くなかったので、腫れ物に触れない小学校時代を過ごしました。
6年生の湯浜一泊旅行にみんなが出かけるのを淡々と見送りに行っていました。
そして中学2年直前に高校受験を意識する様になり、
中学校の鞄がとても重く感じて、
自ら手術を受ける意思が芽生えました。
決断したら即決行となりました。
もしかしたら手術が失敗して死んでしまうかもしれないとリアルに思い
自分が生きていた証を残そうと、ノートに遺書の様なモノを書いたのを覚えています。
全て取越苦労に終わりました。
そして狭い街中で、当時は大ニュースの出来事となりました。
「あなただったのですか、心臓手術を受けたのは!?」と、
だいぶ経ってからも随分、事ある毎に声をかけられました。
そして心臓手術を受けた作文を書くことになり、
知らない先生が大勢いる研究授業のヒーローになったのです。
当然健康体と共に達観視する子供になっていました。
社会人になってAEDの日本光電という医療機器メーカーに就職しました。
そしてその昔のことを上司に話したらとてもびっくりしていました。
心肺装置のない時代に、術後のケアなど皆無の時代に手術をしたことへの驚きでした。
よく生きて帰ったと!
私だけでなく70年も生きていると、
苦しいこと、悲しいこと、辛い事は誰にも起こっています。
時間が経過して健康であれば、ほとんどのことは乗り越えられるのが人間です。
同窓会であった皆さんも多かれ少なかれそれを経験しているからこそ、
昔を懐かしむ事ができるのでしょう。
小学校の暗かった時代をここ何十年も思い出す事はありませんでした。
今私の周りにいる人の9割は、私が先天性の心疾患だとは知りません。
今は母子の体内にいる時にわかります。医学の進歩も超超素晴らしい。
教育現場も心のケアに重きを置く時代です。
しかしながらコロナ期があったり、気候変動があったりと、次々に新しい問題や
事件が起こってきます。そして「人生七十古代稀」と言われた様に、
間違いなく締めくくりの時に入ろうとしています。
人生の幕をどう引くかをちゃんと考えながら生きていこうと思います。
故郷で内科医として活躍されているS先生に、同窓会の終盤に
元気でいる為に必要な事は
「栄養、睡眠、適度な運動、それから自分を奮い立たせるモノ」だと、
偉そうな事を酔った勢いで言ってしまいました(笑)
自分を奮い立たせる事で、古稀を祝した思いを書かせていただきました。
