祥泉暦

日常の出来事の記録

9月の課題

2017-09-14 21:51:48 | 
明日から出かけるので、今月も早々と書き上げた。
先月の社展でランクアップしたので、ちょっと緊張w
それから、あまりにもペン字が下手だから、今月から
ハガキの硬筆を再開した。子供の時みたい。
















こうやって画像にすると粗が目について
書き直したい。

もうひとつの誕生日

2017-09-13 16:29:04 | 日記
私の誕生日は6月25日ですが、
14歳以降9月14日をもうひとつの誕生日とずうっと意識していました。

この間幼友達と話している時に、最近もうひとつの誕生日を忘れている
自分に気づきました。
このまま忘れてもいいことですが、自分の事として記しておこうと思います。


私は小学校に入ったころ、先天性の心臓病、心房中隔欠損症 が見つかりました。
右心房と左心房の壁に穴が空いている症状です。
本来生まれた時はみんな小さい穴が空いていて、成長するにつれて穴が塞がるのですが、
まれに(100人に1人くらいの割合らしい)塞がらず、穴が大きくなってしまうらしいのです。
穴があるために循環すべき血液が漏れてしまい、
血液が正常に循環しないということでした。
自覚症状は全くないのですが、胸部レントゲン撮影で、
血液が漏れているために曇って見えたようです。
聴診器でも雑音が聴こえると医師は言っていました。
そして心臓の穴を塞ぐ手術が必要で、手術しなければ20歳までしか生きられないというのです。
現代は医学が進歩して、手術といってもそう深刻なものとしてとらえられませんが、
何しろ50年以上も前のことですから、心臓病、手術、20歳までしか生きられない、のワードは、
私の生活を変えました。

まず体育の授業はすべて見学、遠足や校外活動は全て不参加となりました。
そして両親や家族の悲痛な悲しみと苦しみは、子供心に沁みました。

手術をするか否かの選択肢はなかったはずですが、
当時は手術の成功率に対する不安が大きく、
私は手術をずうっと拒否し続けていました。
自覚症状が全くなかった事と20歳という年齢はまだまだ遠い先の事で、
そんな怖い手術は絶対嫌だと思ったのです。
両親は、嫌がる子供を無理に手術をさせてもし失敗したら、、、と、
なかなか決心がつかなかったようで、
親としての苦悩はかなりなものだったと思います。
同居していた祖母は、本人がこんなに嫌がっているのを、
強行すべきではないと私をかばい、
学校の先生方は私を爆弾を抱える病人のように接し、
親としての決断ができないことを自責する両親。
自分の事で周りの人たちが私に気付かれまいとして
悩み苦しんでいました。
小学生でしたが、とても冷静に周りの人のことがわかり
それでも怖い手術は絶対に嫌だと、今思えば小学生にしては
大きすぎる悩みでした。
当然性格も内向的になり、自分に自信を持つことができない子供になりました。

その頃はインフォームド コンセントもなく、医師と患者には距離があり
患者の不安に対して何もケアがなくとても辛い時期が続きました。
現在のように何でも医師に相談できる時代だったら、父母も私も
もっと早く納得した決断ができたことでしょう。

中学校に入りしばらくして、身体に多少異変を感じました。
学校生活が終わり、重いカバンを持っての下校は、
とても疲れ、夕方仮眠をしないと夕飯まで持ちません。
こんな状況では高校受験勉強などできないのではと、不安になりました。
そして自分で手術を受けることを決めました。
すぐに両親と病院に手術の申し込みに行き、手術のための検査入院などを経て
中学2年の9月14日に大手術を受けることになりました。

自分で決心したものの、もしかしたら、、という不安はとても大きく、
14歳で自分の生涯は終わるかもしれないと、自分が存在した証を残そうと
ノートに書き綴りました。
「死」に直面し、「死」を覚悟しました。
たぶん両親や家族、親戚の人も。。。


十数時間に渡る手術は無事終えて、いわゆる一命を得たわけですが、
当時の術後のケアはお粗末で、
麻酔から覚めた時は、私のベッドの周りには、両親家族親戚一同が詰めかけていました。
集中治療室などがなくて、普通の病室で、みんなが交替で私を見張っている感じでした。
何しろ50年前ですから。。。
それから当時人工心肺装置などがない時代なので、大量の氷で冷やし、動物の冬眠状態にして
手術をしたとの事。
母が手術室の前で待っていたら、手術の途中なのに人体が入る大きな箱に氷一杯入ったものが手術室から
運び出されて、母は看護婦さんにそこに娘が入ったのですか、と聞いたそうです。
手術の手順など何も聞かされない時代ですから、母は血の気が引いたとだいぶ後から聞かされました。

何はともあれ、大手術ではありましたが、経過は順調で、一か月ほどで退院し、
それから数週間自宅療養し、11月初めには登校していました。
学校は2ヶ月休みましたが、入院する前に勉強が追いつかなかったら留年と言われていたので、
(それも随分酷な告知)それだけは嫌だったので猛勉強をしました。
父が心配して家庭教師をつけてくれましたが、たった2回でお断りして、自力で頑張りました。
それでわかったのは、義務教育レベルは、教科書をじっくり読むだけで大丈夫です。
その後もこのレベルで勉強していたら、、、と多少後悔があります。

小学生の頃はずうっと体育の授業は見学でした。
体育の通信簿は5段階評価で3をつけられたり2をつけられたり、
たった1人の先生だけは評価なしとしてくれました。
中学2年の3学期から体育の授業を受けたのですが、跳び箱を開脚前転で飛び
みんなの喝采を浴びました。でも他は全くダメです。運動センスが封じ込められていました。
手術後初めて参加した校外活動、中学3年夏の1泊キャンプはすごく楽しかったのを覚えています。
小学校、中学校の修学旅行は不参加でしたが、高校では参加できました。

高校は無難に入れるところに入学し、今思えば放心状態で3年間を過ごしていました。
同じ出身中学校数人を除いては、心臓病だった自分を知る人がほとんどいなかったので、
開放感がありました。
今迄の緊張感や苦痛、苦悩から解放され、9月14日に生まれ変わった事を実感していました。
新しい人生を歩み始めたこととし、内向的な性格から脱却したいと思いました。
手術前に生きていた証を綴ったノートは、当然処分しました。



その後の私の心臓は正常に働いてくれ、日常は過去の出来事をすっかり忘れています。
2人の子供を自然分娩できたことで、健康体であることを確信しました。
両親も感慨深く見守ってくれ、特別な思いだったことでしょう。
そういえば2人目の子供を里帰り出産した時、郷里の病院の分娩控え室で、
小学校時代の保健室の先生と偶然会いました。その先生の娘さんと同時に出産だったのです。
付き添ってくれていた母は、先生にご挨拶をして私が小学校卒業した後の経過を報告していました。
その時の母は、私が今どんなに幸せかを強調していました。
当時の先生は責任上かなり私を困った生徒扱いをしていたと、
両親は感じていたようです。仕方ない事と私は思っていましたが、
母の勝ち誇ったような様子を可笑しく眺めていました。
その時は私も母親になっていたので、改めて当時の両親の心境を思いました。


小中学時代の長い辛かったことは、当然私のものの見方考え方に影響を及ぼしました。
誰も経験したことがない出来事は、ほかの同年代の人たちとはどこか違ったと思います。
それはその後、社会人になった時、家庭に入って子育てをしている時、
いろんな人と関わり合う時にそれを感じました。

手術を強要すべきかどうかの父の悩み、
こんな病気の子を産んだ責任を過度に背負い思い悩む母、
立場上、病気を抱えた生徒をどう接していいか迷う学校の先生、
大人が私に気づかれまいとしていても、ちゃんと私は知っていました。
上手く表現できませんが特に子供は大人が思っている以上しっかりしています。
自分をとりまく周りの人が、どんな気持ちになっているかなど大人以上に空気が読めます。

自分の家庭を持ち、自分の子供を育てる過程で、
いわゆる「ママ友」達が子供のことで思い悩むことや心配ごとは、
私とはどこか違っていました。
「子供は大人が思う以上にしっかりしてる」この思いがあったからでしょう。
ある程度子供を見守ることができたかな。

もし自分が健康体であったなら、元気な明るい子供になったのか分かりません。
自分で選んだ訳ではないけれど、不思議と自分の環境を恨んだことはありません。
そしてどんなことであれ経験したことは、すべて「心のかて」になっている事は、
間違いありません。



社会人になって入社した会社が、医療器械のメーカーでした。
営業事務に就いたので、多少扱っている医療器機を知ることになり、
術中術後のモニタリングシステムや、人工心肺装置、
術後のICU集中監視システムなど
心臓手術に欠かせない医療器機を知りました。
私が手術した時はそんなものはありませんでした。
上司に自分が心臓手術の経験がある話をしたら、
「よく助かったね 」とびっくりされました。
手術は成功したものの、その後様々な感染症などで
大変な事態になり、亡くなられた方を多くみました。
また輸血が必要だったのですが、献血してくださる人を
患者の家族が捜してお願いし、手術当日に病院に来ていただくという
本当に大変なことでした。
私が今元気でいられるのは、多くの方からの暖かい援助があったから、、、
それと多少運も良かったと思います。

そうそう手術後30年くらい経った頃に、
郷里で知らない方から「あなたが心臓手術を受けた方ですか?」と
声をかけられたことがあります。
狭い田舎町でかなり話題になっていたのだと思いました。
小学校の同窓会に出席すると「もうすっかり元気になったのね?!」と言われて、
あ、そうだったと思い出します。笑

私は今元気でいますが、小学校からずうっと仲良しだった友達は
40歳になる前に大腸癌で亡くなりました。
人生はまさかの連続です。

もう63歳になり、20歳から43年も生き延びました。
いろいろ人生の岐路に立たされましたが、ひとつも後悔はありません。
あの時あれをやっていたらという、たらればはみつかりません。
同年代の友達と大きく違うところです。
ライフワークがあるし、ゆるく目標を持っているし、毎日充実しています。
ありがたい。



こんな過去の出来事を今更どうして綴る気になったのかわかりません。
自分の事を心配してくれた方達が向こうの世界に逝ってしまい、
大変だった頃を知っているのは姉だけとなりました。
取り敢えず記しておくことにします。
いつでも削除できるしね。


掛軸

2017-09-04 16:08:57 | 
書家で私が所属する書壇の会長先生で
いらっしゃいます新井瑞雲先生のお軸を
いただく幸運を得ました!



「壁観」壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずること。

このお軸は、「壁観」と書いてある本紙の部分が、軸全体のバランスからして小さく、天と地の紫の部分が大きくなっています。新井瑞雲先生はこの軸全体で 「壁観」を表現されたのだと私は観じました。

書を志してもう何十年にもなりますが、
新井瑞雲先生の字に憧れ、細々と続けてきました。
新井先生直々に頂いたお手紙に「息の長い錬成を祈ります」とありました。

私は才能もセンスもないので、そのぶん時間で埋めようと思います。