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◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

5.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 水上源一さんのこと(その4)

2016年12月31日 | 今泉章利
5.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
水上源一さんのこと(その4)

今年も大晦日を迎えました。あと一時間ほどで、2017年、平成29年を迎えます。
水上源一さんのこと(その4)今年は、いろいろなことがありました。4月に、二年続いたある組織の役員の職が解かれましたが、その疲れの反動でしょうか、心因性のめまい、不整脈、息切れ、、が続きました。5分くらいのものから、5時間ぐらいのものまで、 一日のうちに何回も現れます。11月にようやくよくなりましたが、9月は、最悪でした。ただ、数値にはでてこないものの苦しさは深刻で、このまま逝くのかなあとよく思っておりました。医者からなんともないですよ、といわれるのは本当につらく、恨めしい思いでした。

さて、水上源一さんの一人娘の水上宣子さんは、お父様に目元、顔だちがそっくりです。お目にかかることのできなかったお母様のはつね様は実業家と聞いておりましたが、宣子さまは、よく通る声とはっきりとした考えを持ち、行動もお早いので、お二人の血を受け継いでおられるのがよくわかります。元麻布の賢崇寺に、お母様の建てられた「水上源一の墓」を欠かさずお参りしておられる様子は、胸を打ちます。

前回から延々と資料の目次を書いていてうんざりかもしれませんが、事件の裁判記録とはどんなもので、私がとりあえず扱った手法はいかなるものであったのかを、参考に書いているもので、少々長いですが、水上源一の裁判記録にたいする私の方法論なので、もう少しお付き合いください。
なお、気分転換に、今日の写真は、わたくしの生まれ育った故郷、鎌倉の材木座から見た富士山です。私の撮ったお気に入りの写真です。



31.被告人訊問調書 陸軍歩兵軍曹 宇治野時参 (注:26歳、歩一の六)  (丁数一一〇)
32.被告人訊問調書 陸軍歩兵一等兵 黒澤鶴一  (注:26歳、歩一)   (丁数一二四)
33.被告人訊問調書 中島清治 (注:29歳、支那事変 昭和6-9年従軍) (丁数一三四)
34.被告人訊問調書 黒田昶 予備歩兵上等兵 (注:27歳)        (丁数一五六)
35.被告人訊問調書 水上源一 第一補充兵役陸軍電信兵(注:29歳)(2月28日)(丁数一六三)
36.被告人訊問調書 綿引正三 (注:兵役なし、 23歳)         (丁数一七一)

31-36の標目の書き方については必ずしもその通りではないかもしれない。いつか確認したい。

37.聴取書 植松正司(自動車運転手) (注:25歳)            (丁数一七七)
38.拘引状(宇治野、黒澤、中島、黒田、水上、綿引)(注:2月26日)    (丁数一八三)39.證拠物目録(十一年式軽機 二、二六年式拳銃 二、モーゼル 一、三八 二)(丁数一八九) 
40.被告人訊問調書送付通牒 (注:三島→一師軍法)(河野壽(四〇期、30歳)(丁数一九〇)
41.被告人訊問調書 河野壽                         (丁数一九一)      
42.押収調書                                (丁数二〇七)
43.押収目録                                (丁数二〇八)
44.押収目録<宮田晃> 予備役陸軍歩兵曹長、日本特殊鋼社員         (丁数二〇九)
45.勾留状 宮田晃 3月2日 一師軍法                   (丁数二一一)

目がちらついてきました。、、だれかアシストがほしいですね。

46.押収調書<宇治野時参>   3月3日一師軍法              (丁数二一二)
47.勾留状 宇治野時参                           (丁数二一四)
48.押収調書 中島清治 3月3日                      (丁数二一五)
49.勾留状 中島清治                            (丁数二一七)
50.押収調書 黒田昶 3月3日                       (丁数二一八)
51.勾留状 黒田昶                             (丁数二二〇)
52.押収調書 黒澤鶴一 3月3日 (注:歩兵一等兵とあり、要確認)     (丁数二二一)
53.勾留状 黒澤鶴一                            (丁数二二三)
54.押収調書 綿引正三 3月3日                      (丁数二二四)
55.勾留状 綿引正三                            (丁数二二六)
56.押収調書 水上源一 3月3日(注:ここでは弁理士とのみあり)      (丁数二二七)
57.勾留状 水上源一 (注:刑務所へは十四時五十分引致した とあり)    (丁数二二九)

つぎの58から70までは、法務省の開示に関する省内検討に基づき、公開はされていない。その顛末は承知しているものの、いつが時が来れば書いてみたい。
なお、国立公文書館での公開基準は、法務省とは異なるため、どのような扱いになるか、ご検討中と思われる。

58.前罪科身上書送付の件                          (丁数二三〇)
59.身上調書 (宇治野時参)                        (丁数二三一)
60.身上明細書写(黒澤鶴一)                        (丁数二三二)
61.身上調査票(黒澤鶴一)                         (丁数二三五)
62.<証拠物件追走ニ関スル通牒> 予備役歩兵曹長 宮田晃 (注:二十九歳) (丁数二三六)
63.遭難者(皆川巡査)所持拳銃調査回答(注:警視庁から横須賀、ブローニング)(丁数二三七)
64、<素行調書>作成ノ件                          (丁数二四〇)
65.<素行調書>(綿引正三)                        (丁数二四一)
66.<前科取調書> (黒澤鶴一)                      (丁数二四二)
67.<前科取調書>送致ノ件 (宮田晃)                   (丁数二四三)
68.<前科取調書>(中島清治)                       (丁数二四四)
69.<前科取調書>送致ノ件 (注:人名未記載)               (丁数二四八)
70.<前科取調書> (水上源一)                      (丁数二四九)


うー、ありますね。これで、約半分。でも、一目散に写していたころの自分は、本当に若かったんだなあと思います。
これをみていると、刑事事件とは、検挙から判決にいたるまで、我々には気の遠くなるような手続き、証拠調べが行われるのがよくわかります。
皆さま、どうか良いお年をお迎えくださいませ。と書いていましたら、年が変わりました。
新年になりました。2017年!!平成29年!!昭和11年即ち1936年の事件から81年目になりました。皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。 (今泉章利)


《今泉章利の書いたブログの著作権は関連法により今泉章利に属します。事前の許可なき引用、転載は一切お断りいたします。どうかご理解ください。》

PS:なお、東京地検の裁判記録の閲覧は、刑事訴訟法47条の但し書きに基づいて行われています。と、東京地検から説明があったのを、思い出しました。
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4.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 水上源一さんのこと(その3)

2016年12月30日 | 今泉章利
4.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
水上源一さんのこと(その3)
私が爆睡している今朝、末松さんがウォーキングの途中、慰霊像にお参り頂いたようで、美しい写真に感動いたしました。うれしい!
さて、、裁判記録の話に戻りますが、、
この膨大な資料のどこに水上さんの資料があるのか。全体を見て、しっかりと計画しなければなりません。資料の中には、自分の興味のあるものが、宝箱の中の宝石のようにたくさんあるので、気が散ってしまわないように、限られた時間の中で集中することが必要です。とは言っても、私の場合でも、初めてみる父の予審や公判の記述に、たまたまページが開いたりすると、目が釘付けになって読み込んでしまいましたが、、、

水上さんのものは以下にあります。記憶が定かでないのですが、表紙に書いてあったように思います。

訴訟記録(行動隊二十九冊ノ内第十八號)    注:(號という字もいかめしいですね、、)(地検のファイル番号では、46、で、これは(東京地検の46は、三分冊になっています)
東京陸軍軍法會議               注:(會という字もいかめしい。けれど、あとでご説明しますけど、これらの字が、草書体でくずされているので、本書に書かれている字をいい加減に読み飛ばさないことも肝要です。)

行動隊第二十九冊ノ内第十八號(湯河原班)
行動記録 昭和十一年 記 一號
件名  反亂(湯河原関係)全部        注:(亂という字も難しい。 ここでは反亂 反は 簡単な「反」になっていますが、書記官によって「叛」の字を用いることもあります。ニュアンスも変わりますが、そのまま移すことが大切です。)

主任 検察 向坂法務官
   豫審 高橋(外二)法務官
      宮内(外二)法務官
   公判 伊藤法務官
      鈴木録事
裁判 言渡 昭和十一年七月五日
   確定 昭和十一年七月五日
拘留  昭和十一年三月三日
保釈責付  なし
被告人 航空歩兵大尉 河野壽     注:ひさし
    歩兵軍曹   宇治野時参   注:ときぞう
    歩兵一等兵  黒澤鶴一
    常人     中島清治
    常人     宮田晃
    常人     綿引正三
    常人     黒田昶     注:きよし
    常人     水上源一    注:みずかみ
次のところから「文書ノ標目」、つまり目次として、以下117点が、ページ数(「丁数」と書かれている)とともに示されています。なお、記録には、「ひらがな」で出なくてカタカナが使われています。 私のメモも、カタカナで書いているはずです。(疲れて間違って書き写した部分もあるかもしれませんが、、)一番気になるのは、河野大尉のことですが、もう一度このブログで思い出したいと思います。ここでは拘引状、皆川巡査検案書、牧野峰子証人他、押収品、送致書、被告人尋問調書、勾留状、事件調書、水上はつね(源一さんの奥様)などのほか、被告人尋問調書、上申書(黒田)、手記(綿引正三)、第一回公判(5月5日)、第二回公判(5月6日)、第3回公判(5月9日)、第4回公判(5月10日)および判決の出た第5回公判(7月5日)が、921ページにわたって綴られています。

で、標目ですが、件数があまりに多いので、エクセルで表を作ってみ隊と思いましたが、このブログでは見られないのですよね。、、それでは、内容がわかるために三回くらいに分けて書きましょう。()内の数値は丁数です。但し、実際にチェックしてみると少し違っているところがあります。数字の番号は、私が便宜上つけたものです。少し解説をつけましたが、これをかくと時間がかかります。すこし端折りますので、ご寛恕。ブログは書きっぱなし、読まれっぱなし、反応はないので、どうかコメントを送っていただけるとありがたいと思います。なお、この記録は、私のノートからのもので、記録間違いなどあるかもしれません。精査はしておりません。また、このブログに書きこんでいるうちにインプットミスもあるかもしれません。そのようなことから、引用は必ずわたくし(今泉章利)の許可を得てからにしてください。この今泉の書きましたブログの著作権は私にありますので、無許可の引用は、お断りします。
いずれ、国立公文書館から公開がなされると思います。どうかそれをご参照ください。健康なうちに一刻も早く、私も、改めて、読んでみたいと強く願っています。

1.送致書(宮田晃) (昭和十一年三月二日横須賀憲兵分隊カラ第一師団軍法会議)(丁数一)
 注-1:宮田さんは、明治四一年一〇月九日生まれ、元戦車第二聯隊第二中隊、予備役陸軍歩兵曹長、茨城県猿島(さしま)郡古河町出身
 注-2:光風荘の中で、皆川巡査より、河野大尉とともに銃で撃たれ、出血多く、近くの松野病院にて治療を受けていたが、水上さんが顔を出した後、詳細はわからぬが、混乱のうちに水上さんたちは、車で出発。横須賀憲兵隊が宮田さんを拘束。横須賀の衛戍病院に搬送。
 注-3:横須賀憲兵分隊より「第一師団軍法会議」へ送るとあり、そこから「東京陸軍軍法会議」(特設的性格を帯びている)へ送致されたものと思われる。
2.  書類目録             (丁数三)
3.  拘引状(宮田晃)         (丁数四)
4.  報告書              (丁数五) 
5   被告人宮田晃横須賀憲兵尋問調書  (丁数七)
6   検證調書(憲兵)         (丁数二三)
7.  皆川義孝ノ検案書         (丁数三七)
8.  xx引渡證            (丁数四二)
9.  xx受領証            (丁数四三)
10. 証人森すゞ江憲兵尋問調書     (丁数四七)
11. 同 松野鐡之助憲兵尋問調書    (丁数四九)
12. 同 牧野峯子憲兵尋問調書     (丁数五二)
13. 証人 高橋正雄憲兵尋問調書    (丁数五八)
14. 証人 西田久野憲兵尋問調書    (丁数六二)
15. 証人 村松梅子憲兵尋問調書    (丁数六六)
16. 証人 岩本亀三憲兵尋問調書    (丁数七〇)
17. 証人 生駒林二憲兵尋問調書    (丁数七四)
18. 証人 堀部粂次郎憲兵尋問調書   (丁数七八)
19. 証人 伊藤昶清憲兵尋問調書    (丁数八二)
20. 証人 伊藤亀吉憲兵尋問調書    (丁数八八)
21. 診断書 森鈴江          (丁数九四)
22. 診断書 岩本亀三         (丁数九五)
23. 診断書 宮田晃          (丁数九六)
24. 押収調書(於伊藤屋別荘)     (丁数九七)            
25. 押収目録(ブローニング、発射弾) (丁数九八)
26. 押収調書(於回春病院)      (丁数九九)
27. 押収目録(二十六年式拳銃)    (丁数一〇〇)
28. 証拠品目録            (丁数一〇一)
29. 送致書(河野壽、宇治野時参、黒澤、中島、黒田、水上、綿引)  (丁数一〇三)  (注:宮田は抜けている。別途横須賀憲兵分隊より送致)
30. 書類目録(尋問調書、前科及び身上、素行調書、拘引状  宇治野、黒澤、中島、黒田、水上、綿引)(丁数一一〇)

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3.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 水上源一さんのこと(その3)

2016年12月29日 | 今泉章利
今日2016年12月28日は、御用納めです。東京渋谷の慰霊像に来年のお正月用の飾付けと、関係者に挨拶をしてきました。
昔は、この日には、みんな慰霊像護持の会のメンバーが分担して、忘年会と称してお昼ご飯を頂くことになっていました。松は今泉義道(少尉)、水仙は柳下さん(中尉)、千両は池田俊彦(少尉)さん、飾り餅は北島弘(軍曹)さん、が分担だったように記憶しています。みんなとても楽しそうで、今でも声が聞こえるようですが、みんな鬼籍に入られました。今日はいつものように、仏心会の香田代表理事と二人で清掃し、花を手向け、香を上げ、父の行っていた通りに開経偈、般若心経、十句観音経、回向文をお唱えしました。写真は慰霊像護持の作業を終えて、写真を撮ろうと思ったところ、スマホの電池切れで写真が撮れなかったので、18時半ごろ、仕事の帰りに再び戻って撮った写真です。真っ暗で、よくとれておりませんが、飾り餅の横に、どなたかが缶コーヒーをあの後お供えくださっていました。私たちが去ったわずか数時間後のできことでしたが、慰霊像にご関心をよせ、お供え物までしていただいた方のお気持ちがしみいりました。とても冷たい風が吹いていましたが、私の心は満たされた気持ちでした。 (今日の写真は曲がったままです。いくらっても治りませんので鵜日を曲げてご覧ください)(すみません)

さて、裁判記録といってもその量は膨大なものです。全体はⅠからⅥに分けてあります。
Ⅰ訴訟記録 32巻 
(地検の閲覧用ファイル番号では、1~30.ファイルが30冊ということではなくて、だいたいそれぞれが2から4冊のファイルになっていて、全体のファイル冊数は90冊ぐらいあります。B4の横綴じです。B4一ページにB52枚がコピーされています)
Ⅱ行動隊記録 29巻 (地検のファイル番号は、31から53)(注:池田さんが一部を、ご自分の裁判を思い出しながら、原書房から1998年に出されたものがある)
Ⅲ不起訴(その1) 6巻 (地検のファイル番号は54~59)
Ⅳ不起訴(その2) 7巻 (地検のファイル番号は60~65)
Ⅴ裁判書 1巻 (地検のファイル番号は66)
(「さいばんがき」と読む。判決文のこと。死刑判決は100年保存の義務があるらしいが、軍法会議の扱いは小生にはよく理解していない。世に「裁判記録」と称して出版されて売れているのがこの部分が多い。東潮社版や朝日新聞社のものがある。最近では本文そのものの写真版が出版された。)
Ⅵ事件簿 1~4冊および被告人索引簿があります。(地検は 別冊1-4 という分け方をしている。)

参考:なお、ぜんぶ数えたわけではないが、66巻+別冊4巻=70巻のページ数は、超概算で、70巻x@3冊x@260px@2p=11万ページぐらいでないかと、今は思っています。
池田さんによれば、「この「裁判記録」は1988年(昭和63年)北博昭氏の学究によって東京地検に保存されていることが判明し、平成5年(1993年)2月、事件に対する学術研究者にその閲覧が許可されることになった」とあります。
池田さんは93年から95年まで東京地検に通われたとあります。

また、憲兵を中心とした記録を、早稲田ご出身の森伝(もり つとう)さんが所有されていたもので、1971年小学館より4冊で出版されています。正式な裁判記録ではありませんが、状況の把握しにくい時にあって、重要な資料でした。
今回の、裁判資料を、」将来研究する上において、比較資料として極めて重要と思います。国会図書館の県政資料室にあるとかで、いってみたいと思っております。
(今泉章利)

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2.水上源一さんのこと(その1)

2016年12月28日 | 今泉章利

私の存じ上げているはじめの方は、水上源一さんのご令嬢の井上宣子さんです。
この方から、父上である水上さんのことを調べてほしいと以前依頼を受けました。2006年のことでした。
その時、私は57歳、まだ現役で、忙しい盛りでした。
それでもその年の9月、東京地検総務部記録係に、「刑事参考記録(二・二六事件裁判記録)閲覧申請」を行い、全資料の閲覧が認められ、10月から、仕事の合間を縫って、2009年3月まで、23回閲覧し、ノート5冊の筆写を行いました。
勿論、関係部分のみですが、今見ても、初めての事実、肉声が記録されていて、少し読み返しただけでも頭が熱くなります。

その後、私は、会社生活が延長になり、体力の減退とともに、お話しましたように何もできていません。
これからどのように、投稿しようか、考えておりますが、まずは、私のノートを振り返りながらお話したいと思います。

写真は、東京地検への申請書やノートの写真です。(今回は写真がうまく乗るといいのですが、、前回の水上源一さんの写真は大きすぎました。)

(今泉章利)
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1.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 はじめに

2016年12月26日 | 今泉章利


初めに改めて自己紹介をさせていただきます。
昭和10年に歩兵少尉に任官した、近衛歩兵第三聯隊の今泉義道の次男の今泉章利と申します。本当に久しぶりに投稿いたします。

ここ何年にもわたり、体調が悪く、何もできずにおりました。が、昨年の今頃、畏友であり、このブログの投稿者でもありました澁川明雄さんが急逝されました。明雄さんは澁川善助さンのことを克明に調べ、「澁川善助」という本を遺されました。 
何もしていないは私は、いよいよ自分の命の残りを感じ、体調に負けずに何かを残そうと思いました。
私は、実際に何も書いていないので、忸怩たる思いに駆られているのですが、末松建比古さまにもご無礼と思いながらも、拙文を投稿させていただきたく存じた次第です。

タイトルは「事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」といたしました。
勿論「事件関係者の息子」とは、昭和24年生まれのわたくし、今泉章利のことであります。

次回からの、お話は、10回程度、、水上源一さんの話をさせていただき、私の父、や、事件に関連して処罰された方たちのことを、私が直接接した人たちや関係者や肉親の方々から直接聞いた話などを通じて、書いてゆきたいと思います。
そして、これらが、近日中に、国立公文書館から公開される、東京地検の裁判資料などのはじめて公開される一次資料に当たって、なにがしかの参考になればと願っております。

次回は水上源一さんのことを書きたいと思っております。
(今泉章利)
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二・二六事件74周年

2009年12月10日 | 今泉章利
大変ご無沙汰いたしております。今年も2月26日が巡ってまいります。74年もたったのです。何もできないまま日にちが過ぎてゆきます。
先日、昭和51年ごろに書かれた市倉徳三郎という方の「歩兵第三連隊 その栄光と落日」という本を読みました。昭和40年代に次々と出版された二・二六事件の「真実」ものが、大先生も含めて、いかにでたらめか、ということを書いておられました。市倉さんは、歩三の大十一中隊の方で事件にも参加された方です。歴史を扱うもの、歴史に発言するもの、いわんや歴史を商売にされている作家の人たち、、に対する警鐘として読ませていただきました。
しかし、このようなことがおきるのも、事件の当事者からの発信がないからだ とも言われております。インターネットの二・二六事件に関する記事は、本当に間違いだらけですが、肝心の教科書や相当の方の書き物でもいきなり変な分かりにくい表現になります。分かりにくい表現や、逆にあまりにも簡単に分かりやすい表現は、事実を正確に理解していない証拠なのだと思いました。難しいですね。
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今泉記注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
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ご無沙汰いたしております。 秩父の峯

2009年11月03日 | 今泉章利
ご無沙汰いたしております。

最後のお務めと、、仕事をやったのですが、、何も手がつかずの状況が続いております。
大体 月に 二回のペースで 海外出張です。
だいぶしんどいですね。

いつも事件のことが頭をよぎります。皆様の顔も思い出します。

すこしエネルギー注入というわけで、来週末 土日月と 前沢、仙台、会津若松、熊谷と甲府に行ってまいります。

安藤日出雄さまから 安藤さんの作詞されたレコードをいただきました。

秩父の峰 というもので このレコードは二・二六事件の遂行者 故安藤輝三陸軍大尉の霊を慰め 且つ 純粋に国を愛したその意志を 後世に伝えるため 水上勇、佐野圭五 両氏が、レコード化を企画し世に発表したものであります。
とありました。

秩父の峯
夢に現に 強者の夢 なつかしき歩三 故郷の丘
尊し清し 秩父の峰
昭和11年7月11日夜 安藤王 

今泉記
注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
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靖国神社からのお預かりもの 日露戦争と大東亜戦争

2009年09月23日 | 今泉章利
先日、靖国神社から1000冊を超える本をお預かりした。その中に、日露戦争の大本営が発表した明治37.38年戦争に関する本の付属文書の一部が含まれていた。本文は、大本営がまとめたもので、明治27・28年戦争と一緒に、小生は持っている。しかし、その付属文書は初めてである。付属文書は、一冊15センチのぐらいもので、5センチぐらいの付図が付いていて、それが10セットある。全部では20セットくらいあるのだそうだが、その一部である。
中身は、各戦闘の状況が仔細に記録されていて、日露戦争の恩賞は、このような、詳しい資料(もちろんこれ以上の詳しいものがあるはずだが、、)によってなされたのではないかと思料する。

それに比して、大東亜戦争の資料には、そのような資料はない。戦後、防衛研究所のまとめられた資料も基本と概略であり、その詳細、いわんやその武勲がわかるようなものではない。
最終的に四百万人ともいわれる数に膨れ上がり、各地で悲惨な敗戦を余儀なくされた状況では、日露戦争のレベルでの記録などを期待するのが無理なのかもしれないが、少なくとも、戦争を実行した陸海軍にはその責任があると思われるが、終戦という名前を借りてすべてをうやむやにしたつもりの軍部には、決して消せない責任がある。過去のみならず永久にである。それは、人間の命をお預かりし、戦闘命令を下した命の重さに匹敵するからである。

靖国からお借りした大東亜戦争の資料には、敗戦時の軍隊の方たちが残された、聨隊中心の資料が多く含まれていた。一人では残せないが、戦友の方たちが集まって万感の思いを込めて書かれた資料である。亡くなった戦友たちの顔を思い浮かべながら書かれた資料である。すべては書かれていないだろうし多少の間違いもあるだろう。しかし、その極限の記録に、私は、二・二六事件以降の軍人、天皇絶対を信じて戦っていった日本人の姿を見ようとしている。

思えば、日本人は実に優秀な民族である。今の日本社会で通用しないとする人たちの多くは、世界では間違いなく一流である。この優秀な民族が、組織した大日本帝国陸・海軍は、とてつもなく優秀な組織であった。

ご聖断によって戦争は終わった。が、この戦争の歴史は、日本においてもう一つ、信じられないような捻じ曲げられ方をした。
いわゆる講座派と呼ばれる人たちの流れをくんだ「マルクス歴史産業の社員たち」による歴史の記述である。資本主義が高度化すると、帝国主義になり、それが崩れて、社会主義が出て、共産主義の理想が実現するというマルクス・エンゲルスの預言である。この予言を、さまざまな歴史の事実を書き並べた後で、それに近い言い方をすれば、よき歴史産業の社員になることができる。

私たちの世代は、この実にくだらない歴史授業のために大切な少年期の時間を無駄にした。しかし、それは、今になっても何ら変わっていない。かわいそうに、学校の生徒たちは同じ洗脳的な教育を頭にうえ込まれているのだ。


なお、このような歴史史観について、私がしばしばゆくベトナムの最高学府の超エリート大学では、ニュートン・アインシュタインと並んでマルクスが三大科学者として教育されている。

今回の靖国資料をお預かりした意味は大きい。二・二六事件の後につながった日本人の真の記録だからである。

(今泉章利)
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渋川明雄さんからの報告へのコメント 荒木発言

2009年09月02日 | 今泉章利
(以前に書いていたものを投稿するのを忘れていたものです。恥ずかしながら、掲載させていただきます。渋川様、すみませんでした。)

皆様 諸事情で、なかなかかけなかったことお詫び申し上げます。

さて、渋川明雄様から大変に貴重なコメントが送られてきました。直接話はしておりませんが、内務省資料「週報」からということですから、おそらく、憲政資料室あたりで入手されたのではと、ご努力に頭が下がる思いです。とくに、荒木発言にはショックを受けました。わたしも、啓示を受けたように、政府のトップの動きを調べて、この裁判の大きな流れを誰が作ったのかを知ることができたような気がしております。私も、牧野伯爵の政治的な動きを調べてみようと思っております。す。そのことは、二人だけの勉強会で、議論してはと思っております。
(注:渋川さん、お互い忙しいので、二人だけのメールリストMLでも作りましょうか)とにかく、心から感謝をしております!!(今泉章利)

以下は、渋川明雄様から頂いたコメントです。

林貞四郎氏は水上源一さんと親交があったことが解りました。
林貞四郎氏は、明大時代に善助さん等と共に昭和四年十一月「学生興国連盟」、昭和五年二月明大「興国同志会」を設立した主要メンバーでありましたが、同年には北海道小樽市に同氏の提唱により「全日本護国連盟」を結成しています。
同連盟は昭和十一年七月二十五日に解散式を行っているが、解散した理由について、「週報」昭和十一年第十六号「全日本護国連盟解散ニ関スル情報昭和十一年
七月二十六日北海道情報」に次のように書かれています。
「主宰者林貞四郎ハ実父ノ死亡及豫テ親交アリタル帝都叛乱事件関係者水上源一外数名ガ処刑セラルル等一抹ノ寂寥ヲ感ズル処アリ」のため解散を決意したと報告されている。

林氏と水上さんが、いつ、どのような経緯によって親交を結ぶようになったのかは、今のところ解りませんが、善助さんとの関係が一歩近づいたと思います。
また、「週報」第二十号「昭和十一年八月二十六日大阪府情報」には興味深いことが書かれていました。
それは、荒木貞夫大将が陸軍士官学校第九期生京阪神在住有志数名と八月十九日に甲子園ホテルに於いてすき焼きの晩餐会を催し、荒木大将の帝都叛乱事件当時の状況並びにその後に於ける軍部内情勢等に関した談話の報告です。その中で「叛乱将校ノ処分ニ就テ」では次のように語ったと報告されています。
「(資料の中では安田優さんとなっていましたが、明らかに水上源一さんのこと)検察官ノ禁錮十五年ノ求刑ニ対シ判決ハ無期ヲ超エ死刑トナッタ如キ、斯様ナコトハ実ニ前例ノ無イ事テ此ノ一事ヲ見テモ其間牧野伯等ノ策動ニ依ツテ吾々ノ期待ヲ裏切ラレタ様ナ感カスル」と。
牧野伯等の策動が事実であったとすると、湯河原襲撃組の一律十五年の禁錮刑、水上さんが光風荘に火をつけ、自分を焼き殺そうとしたことが牧野伯は後で解ったためか、禁錮十五年から死刑、牧野伯の偵察をし、自分も襲撃に加わる予定であった善助さんの死刑という厳しく重い刑を考えると、うなずける。法に依る裁きではなく個人的な恨み。
これについてはもう少し調べてみたいと思います。

(今泉章利)
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次世代の日本の若者たち

2009年09月02日 | 今泉章利
年のせいだと思いますが、よく、次世代の日本の若者たちは大丈夫なのか。否定、肯定いろいろな話を耳にします。
先日、テレビで、ある若者のジンガーソングライターと詩人のトークショーをやっておりました。場所は、立教大学の講堂で、満員の学生たちが静かに聞いておりました。
そのシンガーソングライターは、若者たちに評価されているのですが、一言でいえば、彼は、小さいころから聞かされていた話が、どうも、嘘くさい。歌の世界では、愛の歌ばかりですが、本当に自分たちの生きている世界はどうなのかという疑問に突き当たって、実際の人たちや若者が何を感じ考えているのか、現場で黙って、耳を澄ましたのでした。
彼は、そのときの想いをノーに書きとめて、詩を作り歌を作ったそうです。そうしたところ結果として、多くの若者の共感を得たということでした。

私は、この話を聞きながら、若い世代の本当の意味での知性の芽生えを感じました。いま、聞いていること、書かれていること、当然と思われていること、、みんな本当のことか。という疑問は、まさしく、重要な根本的なことです。教えられたことを自分なりに検証して、自分のものとして、自分の言葉で理解しなおす。そんなことを感じたのでした。

確かに、凶悪な犯罪などあったり、しつけの欠落した挨拶もできない若者を目にします。でも、映画「みたまを継ぐもの」(遊就館で上映中)に出てくるような若者は結構います。でも、われわれ世代は、この子供たちにしつけをせず、知識や要領のみを押し付け、礼儀も知らないまま育った世代を一概に断ずることができるのでしょうか。

(今泉章利記)
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波多江さんの一喝

2009年08月20日 | 今泉章利
いやあ、やられましたです。

弘前で、お話して、小泉さんが財政均衡、郵政民営化をやったといったら、そのあと日本をほっぽり出したやつなど、話にならんということでした。

国のためになるのなら、昔は、命を捨てるまで、その一生を捧げたのに、あの体たらくはいったい何だというわけです。

昔、まだ、小泉さんが国会議員のころ、30年ぐらい前、、私は、父の関係で、鎌倉水交会の会合に出たことがありました。そのとき、お歳の先輩が私のところにやってきて、あんだに話がある といわれ あんたの政治には、、といわれ、ちょっと待って下さい、、それは、横須賀の小泉さんでしょ、、私はね、今泉ですから、、と言った覚えがあります。大石尚子さんが当時市議会議員になって少し経った頃でしたでしょうか、、

いろいろとお話をしました。雪降りやまずにあった、真崎・荒木の乾杯の話をした方が、對馬さんのすぐ前で、首相官邸で撃たれて、前田病院にいたけれど、裁判が終わるまで出なかった、、おかしいでしょう? そんなことを言われました。私はこの件はすでに決着した話なので、、と申し上げましたら、、自分で調べたのかい  という感じでありました。

誠に忸怩たるものあり。反省至極。民主党は政権をとるか。とったらどうなるのか。。うううう、小生は、霞が関にもよく行きますし、でいろいろと混乱の中の渦巻いているところに近すぎるので、、何も言えませんでした。

兄はね、いつ死んでもいいって言っていたから、その死に顔はね、、ほんとに安らかで、、ゆすれば起きるみたいな顔だったのよ。

面会所はね、急ごしらえのバラックで、隣とは一枚の板で仕切られていて、隣の人がしきりと真崎さんの悪口を言っていた。。。のよ。

95歳のおばあちゃまには、あの時のこと、いま、もいつも同じように見えている。こんな人が、まだお元気でいるんだ!

あの事件じゃね、ほんとうに、よくぞ、見てきたようなウソを書く人いて、言葉を失いうことが多いのよ。
どんなことですか。
一杯あるけどね、お骨は赤い紐に縛られて、對馬家の玄関に届けられていたとか、、悔しいのはね、そんなでたらめを、県の歴史に、そのような説もあることを記すなどと書いてあることよ。

おばあちゃまの行きつけの弘前のしゃれたコーヒー屋さん。もう20年も行っておられるとか

コーヒーとケーキをごちそうになって、帰京したのであった。

(今泉章利記)

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先週久しぶりにジャカルタに行きました。

2009年08月03日 | 今泉章利
先週、久しぶりにジャカルタに行ってまいりました。

ユドヨノ大統領が7月のはじめに大統領に再選され、あと残りの5年間の大統領を行います。カラ副大統領に率いられたゴルカール党は、最悪でした。カラさんは今度辞任し、後任には大学の先生が来るというのがもっぱらですが、、10月まで、みんな事務室にいるのですから、何もいえず 異常な沈黙が漂っています。

卑劣な爆弾事件が起こりましたが、みんななすすべがありません。。

欧米系でない民族系や日系などのホテルなら大丈夫ということでとまりました。

経済はめちゃくちゃです。電気代はコストの半分で、その赤字は、政府が補填しています。。勿論、直接の輸出代金や、税金などで補填するのですが、、
、、また、40近い省庁、大臣がうようよいて、、東西南北に伸びきった国土というか島々。。

ものすごい山火事や地下から泥やメタンガスが噴出して、何も手がつけられずに3年。。。川はごみ捨て場と化し、雨が降ればごみの濁流がが人家を、道路を襲います。

。。。。それでも、人々は、優しく静かに生活しています。そこに渦巻くものを秘めながら。。

(今泉章利)
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光風荘に行ってまいりました。

2009年08月01日 | 今泉章利
御無沙汰いたしております。先々週、光風荘に、安田さんと井上さんと三人で、行ってまいりました。
山本寅太郎様の霊前に、お祈りしてまいりました。

光風荘は、きちんとボランティアの方たちが守ってくださっておりました。

今回は、上流側から歩く機会があり、ゆっくりと、交番や橋の位置など見させて戴きました。

こののどかな湯河原での事件、、歴史との関係、、大変に不思議な感じがいたしました。
少し夏めき、それでもいい風に気持ちの良い汗をかきました。

話は変わりますが、上流に大きな天野屋さんという今は閉じてしまっている旅館があります。。IAEAの事務局長になられた天野さんは、湯河原のご出身とか、、今度機会があったらお伺いしたいと思います。  むりかなあ、、
天野さんとは、外務省の軍備科学審議官時代(大使)からお目にかかっております。あちらは覚えておられますでしょうか。。

(今泉章利)
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水上さんの重要資料

2009年07月20日 | 今泉章利
朝から集中して、水上さんの資料を37種類、資料としてデジカメに収めることができた。ほんとうは、スキャンがいいのだが、時間がかかるので、とりあえず、デジカメとした。
1.昭和5-6年 弁理士関係(1点)
特許局長官中松真卿氏(昭和5年7月就任)の印あり。
実用新案登録心得(14ページ)

2.昭和6年
北海道瀬棚にいた夏休み中の源一氏からはつね様への手紙(6通)

3.昭和7年
北海道瀬棚にいた夏休み中の源一氏からはつね様への手紙(12通)

4.軍隊関係(近衛師団、電信第一補充兵)(昭和9年12月1日~昭和10年5月10日)(4点)
①奉公袋
②軍隊手帳(説法、誓文、心得、所属)
③第一補充兵服役上主要心得
④軍隊手帳

5.昭和11年(11点)
①香田清貞大尉より、水上源一厳父様への遺書
②メモ
③源一遺書(三首が一枚に書かれている。これをベースに遺書を書かれた)
④7月 はつねから源一へ
⑤7月5日 源一からはつねへ
⑥上記返信
⑦はつねから源一に(般若心経)
⑧最後のはつねからの手紙 許可印あり
⑩7月12日 遺体引き取り通知
⑪はつねさんメモ(決意)

6.昭和15年(1点)
①池上本願寺納骨料収書

7.昭和44年(1点)
①文春からの取材申し入れ

8.昭和46年(1点)
①澤地久栄の取材依頼

9.昭和60年(1点)
①北海道新聞記事(山名康郎)

実は、涙なくしては読めない。

(今泉章利)
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二・二六 日本革命史 山本又(一部)

2009年07月15日 | 今泉章利
各位

法要で読ませて頂いた部分を本日、下田の鈴木様のご了解をいただいたので下記します。

(なお、一部に、同じ場面におられた方とのご証言と異なることもありますが、それは、また、別の交渉が必要と思いますが、その、気迫たるや胸に迫ります。三角さんのもの、大蔵さんのもの、、それぞれが少しずつ違います。それでいいのだと思います。ついに語れなかった父今泉義道も、同じ思いだったと思います。)

暗黒裁判に同志散る。
思いもよらない暗黒裁判だ。特に予審はことごとく彼らの憶測、推断により、でっち上げで、我々陳述の千分の一の真実もなく
公判においても、千分の一も真実、真意を披歴せず、最も短い時は、五十二分間で訊問を終わっている。何たる非武士道なる行為だ。

同志、七月十二日午前七時三十分より、八時三十分までの間に、刑場の露と消ゆ。
午前七時ごろ、君が代の斉唱を聞く。この時我等も斉唱をした。

銃声の間、天皇陛下万歳の声を聞く。

我等同志、号泣、胸は張り裂けんばかりであった。
終日、もだえ、もだえて号泣に号泣を重ね、ただ泣き暮らした。

断じて再び、尊王討奸の神義軍を起こすべきだ。天も哭(な)け、地も哭(な)け、鬼神も哭(な)け、雪、血、涙。

命の限り、魂のある限り、おけらとなっても生まれ変わり、生まれ変わり、君国のために尽くさん。

(以上は山本又陸軍少尉の書かれたもの。鈴木俊彦様がワープロ貸したもの。無断転載を禁じます。)

(今泉章利)
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