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◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

今泉のブログ(たった一人の法要)に対するコメントへの御礼(2件)

2017年03月10日 | 今泉章利
(1)伊牟田さまのコメント
参加させて戴きありがとうございました (伊牟田伸一です。)2017-03-05 20:56:07 
先日は法要に参加させて戴きありがとうございました。
とても貴重な体験でした。 226事件は決して風化させてはいけないと改めて思いました。 今は仕事が忙しく時間が作れませんがいつかご尊父のお話を伺う事が出来れば嬉しいです。

今泉御礼:お目に書かれて光栄でした。ゆっくりお話したいですね。伊牟田さまのお気持ち、どうか大切にされてくださいませ。どんなことでも、ご自分の納得いく形で向かい合ってください。
歴史家の、あるいはルポライターの歴史でなく、
お墓から見えてくる体温を感じるような、お線香の香りがするような、「我々の先輩の方たちの出来事」を、実際に感じてください。いつの日か、伊牟田さまが語り部になるのです。
頂きました文章拝読いたしました。これを一里塚に精進されますことをお祈りいたします。
仕事はお忙しいでしょう。みんなお金も限られています。だから、メールや、どこへかけても課金の安い「カケホーダイ」のような今の道具を使ってください。
ご努力を期待します。一緒に頑張りましょう。岐阜から来られた加藤様にもよろしくお伝えくださいませ。

(2)AZU様のコメント
Unknown (Azu)2017-03-05 22:09:24今泉様
82回忌法要を恙無く終えられた由、よろしゅうございました。その数日後、お父様の23回忌のために再び賢崇寺様を訪ねられたのですね。
小雨にけむるお墓のお写真にも、あたたかなお気持ちが表れているように思われます。
たった一人の御法要、、お父様始め、お母様、お祖父様もきっと御一緒にいらして、さぞやお喜びのことと存じます。
故人への供養は偲ぶこと、と聞いたことがございます。静かな御本堂で、お父様とゆっくり向き合うことが叶い、良き御法要でございましたね。
昭和10年10月に少尉となられ、翌11年2月26日に事件とは、僅か5ヶ月後のことでしたか。部下の方にメンタムを塗っておられたお父様。大切な部下の方々の為に、意を決せられたのですね。
まさに、今泉様にしか、お出来にならぬこと。お父様を通して、事件の真の意味を、これからもお書きいただければと願っております。
その為にもどうか、くれぐれも、ご自愛くださいますよう、心よりお祈り申しております


今泉御礼:AZUさま 身に余るお言葉ありがとうございました。私は、軍隊のことはよくわかりませんが、少なくとも私は父や同期生の方から聞いたことは書けます。
日本の軍隊は暴力集団ではありません。決められた規律のもとに、国のために身命を賭して軍務に励む、大組織でありました。しかし、日本の軍隊で一番大切なものは、天の陛下を中心とする「一君万民」の考え方でした。
これがあったからこそ、旧日本の軍隊は「皇軍」でありました。国を思う気持ちは同じです。父のようなノンポリに、公判で、ある法務官が「お前も(事件の)同志だろう」といわれました。法務官は、
「お前も極刑に値する一味だろう」という意味です。父はこの時、「同志とおっしゃるなら、そこにいらっしゃる判士(士官学校出身)もみな同志だと思います。天皇陛下のため、みんな同じ志を持っている」と言い返したで、有罪になったと思う」と昭和56年2月號の「歴史と人物」82ページに書いてあります。

父の公判は20回目5月26日のことでした。父は私に、「このことを話したとき、法務官以外の判士や裁判長(士官学校出身)はみんな涙をぬぐっていた」といっていました。青年将校たちの心情が、士官学校出身の判士、裁判長にはよくわかっていたのでしょう。同じ軍服を着ているのでわかりにくいですが、陸軍法務官は、所謂「法律屋」で、軍隊をよく知らない人たちです。此の裁判では、何とか有罪にしようとする、主に私立大学出身の「法律軍人」」でありましたから、軍隊に流れている何よりも大切な、そして日本の軍の根幹をなした[天皇陛下のための軍人]という意識が希薄で、いつか話しますが「悪い命令だったらお前は従うのか」というバカな質問を出してきます。当時日本の陸軍においては、中隊長の命令は天皇陛下の命令で、絶対であり、部下は中隊長に従い、逆に中隊長は、部下の責任はすべて自分がとる」という考えでありました。しかし乍ら、そのような発言が、「法律軍人」である法務官の口から、裁判の席で突然なんの法的根拠も示されず、これまで行われてきた伝統的事実も無視され、思い付きのように、法務官から出されました。日本の軍隊の統制は、これから崩れてゆきます。日本の軍隊の自殺はここから起こっていった、と、言っている人もいます。私もそう思います。

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二・二六事件 全殉難諸霊 八十二回忌法要 と いくつかのご報告

2017年03月10日 | 今泉章利



二・二六事件 全殉難諸霊 八十二回忌法要

早いもので3月も10日になってしまいました。
今年は、末松さんがお見えになり、また、久しぶりに森田(折目)朋美さんが明るい笑顔でお見えになり、とても心がみたされるような法要でした。
安田さんも大変お喜びでした。泉下の皆さまも、特に池田俊彦さまなどは、にっこりと微笑まれたような気がいたします。

法要後、仏心会より、東京地検にあった「裁判資料(公判資料)」が国立公文書館に移管され、今年中の公開に向けて準備中であることが報告されました。
また、二・二六事件裁判資料を法学者の立場から研究された故松本一郎先生(元裁判官、独協大教授、熊本幼年学校卒)が、事件の方たちのお気持ちに感銘され、ご自分のお墓を賢崇寺に立てられたお話もされました。

このブログでお目にかかった伊牟田さまや、新しく安藤大尉のことを研究された佐川仁一さまともご挨拶を致しました。また、慰霊像の奉仕を申し出てくださった方もおられました。心から感謝しております。

これからも、様々な視点で、様々な方たちが事件を研究してくださることが大切と思いました。私自身も元気なうちになるべく多くを、書き残しておきたいと思っています。

 


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水上さん関連覚え書き

2017年03月10日 | 今泉章利
水上さん関連覚え書き

まだ、書きたいことがいくつもありますが、先に進めないので、とりあえず、順不動ですが、覚えを書いておきたいと思います。

なお、26日に、私がこのブログに書かせていただいた記事を印刷製本し、井上宣子様にお送りしましたところ、宣子様より、ご丁重なるお礼の言葉を頂いたほか、この記事を読んで、母から聞いたいろいろなことを思い出したので、
別途お話をしたいとの有難いご連絡がありました。


書けなかった覚えとは次のようなものです。


(1)河野大尉の遺書

(2)皆川巡査のお墓詣り、ご遺族のお苦しみ

(3)襲撃された家屋の様子(東京地検の資料から私がスケッチしたもの)

(4)襲撃撤退時の最後の発砲と牧野侯爵の救出   (誰も訂正しなかった高橋正衛氏「二・二六事件」の明らかな誤謬記事)

(5)伊藤屋旅館と光風荘  牧野峯子氏と天野屋旅館 

(6)牧野伸顕侯爵の避難していたところ

(7)水上さんの「救国学生同盟」と「捨て石救国論」

(8)山内一郎氏と歩一栗原中尉

(9)埼玉挺身隊事件と水上源一

(10)遺された遺族

(11)当時の社会の姿 富める者と貧しきもの

(12)日本の政治 普通選挙の実施の現実

(13)日本を取り巻く世界の状況 軍事、帝国主義、清国崩壊の中国

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たった一人の法要 近衛歩兵三聯隊少尉 今泉義道23回忌

2017年03月04日 | 今泉章利
たった一人の法要

2月26日(日)の82回忌の御法要は、皆様のおかげをもち、滞りなく終えることができました。心からの感謝の気持ちで一杯でした。

それから数日たった3月2日(木)、小雨の降る賢崇寺で、私は、たった一人で法要をしていただきました。木版がなり、本堂に入ると、住職の藤田俊英さまからのご説明が、ありました。

「ただいまから青雲院禅心義道居士、故今泉義道さまの第23回忌の法要を行います。導師(藤田俊孝、前住職さま)の入場を待ち、入場の際には合掌にて迎えます。正面の座についた導師の合掌礼拝にならい、礼拝をお願いします。
本日は、読経のあと修証義第5章「行持報恩」を共にお読みします。そのあと、ご焼香になります。香のかおりが、わが身を清め、そして、立ち上る香は、私たちの思いや願いを亡き人のもとに届けてくれるといわれています。
身心を正し、心を静め、故人の冥福をお祈り頂きたいと思います。」たった一人の私に対しても、普段と何ら変わることなく、淡々とご説明をされ、御導師のご法要が引き続き行なわれました。
私の家は、江戸時代から賢萗寺が菩提寺であるため、子供のときから父に数えきれないほど連れられてきた居りますが、今回、この静かな本堂で、父と初めて、ゆっくりと再会したような気がしました。懐かしくてむねが熱くなりました。

今から22年前の1995年平成7年3月2日、父、今泉義道が、亡くなりました。81歳でした。

父は、只の一度も、私に怒ったことがありませんでした。いつも春風駘蕩、仕事一途で、几帳面で、おしゃれで、綺麗な整った字を書き、お風呂の好きな父でありました。
生意気盛りの私は、それがなんとも歯がゆくて反発を感じたものでしたが、父や事件関係者の方たちから、いろいろと事件のことをお伺いし、自分も、68歳の齢を迎えようとするこの頃になって、改めて、父の気持ちがわかる様な気がしています。

父は、鎌倉師範学校付属小学校卒業後、神奈川県の湘南中学1年をおえて、東京陸軍幼年学校に入学、47期陸軍士官学校予科(近衛歩兵第三聯隊)、本科に入ります。父の少尉任官式である、命課布達式(注:課命布達式ではない)は、昭和10年10月に、今のTBSのところにあった、赤坂の近衛歩兵三聯隊の営庭で、行われました。
1000名を超える連隊長以下全員整列の前で行われたようです。詳しい文言は忘れましたが、声の良く透る大きな声で、
「天皇陛下ノ命ニヨリ今泉義道士官候補生は陸軍歩兵少尉ニ補セラル。因テ同官ニ服従シ各々軍紀ヲ守リ職務ニ勉励シ其ノ命令ヲ遵奉スヘシ。」「カシラーナカ」」
このようなことを父は言って居たように記憶しております。軍に命をささげた21才の男にとっての最高の瞬間でありました。ほとんどすべての陸軍の将校が、この布達式を経験されていることと思います。

任官後、父は直ちに11月に徴兵された第7中隊の新兵たちに教育を行ないました。我が家には、父の持っていた新兵さんたちの身上一覧表がのうち残っています。いろいろとプライバシーも書いておりますが、同様のものを私は、歩三の麥屋少尉から見せてもらったことがあります。教育は、よく計画されているものでした。終戦頃に殴るけるの陸軍内務班話をきくと、信じられないといつも言っていました。

兵隊さんは、陛下からお預かりした大切な方たちで、一人前の兵隊さんになれるよう1,2,3期と検閲を受け乍ら、基本動作を訓練するものです。そんな中、ある時、軍曹が、青ざめた新兵さんとともにやってきました。
歩兵銃の、いわゆる「営倉バネ」をなくしたということのようでした。父によれば、話を聞いたあと、机の引き出しをあけ、その兵隊の顔の少し傷ついたところに、メンタムを塗ってあげたと言っていました。(もちろんバネは備品をあてがったようです。)
これには、後日談があり、父は戦後の集まりで、この兵隊さんは、その後、聯隊一の射撃手になったときいたそうです。その時の、うれしそうな父の顔が今でも浮かんでまいります。

父の葬儀は、賢萗寺藤田俊孝さまにより行われました。私は46歳、御老師は58歳、御老師は、法要の一部として、皆様への私のご挨拶の時間をくださいました。私は、父の二・二六事件参加の決断となった、部下の斎藤特務曹長が、必死の形相で、「今泉少尉殿、私は、命ぜられるままに実弾を運びました。今泉少尉殿、私は死にます。」と、軍刀の柄を握りしめ、ボロボロ涙を流された話をさせていただきました。父への思いやりをくださった俊孝様の御心に胸が詰まる思いがいたします。

あれから22年、私は68歳、俊孝老師は80歳になられました。事件の多くの方たちが鬼籍に入られました。もう父の事も知っている人はほとんどいなくなりました。気が付いたら、いつも一緒に歩いていた人が、消えてしまったのであります。
3月2日、たった一人の私にしていただいた、、父の23回忌に、そんなことを思ったのでした。




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17.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170206) 水上源一さんのこと(その16)

2017年02月05日 | 今泉章利
17.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170206)
水上源一さんのこと(その16)

水上さんのお話が、長くなり申し訳なくも思いますが、記憶をたどれば、水上さまの長女、宣子さんから、父親のことを調べてほしいと言われたのは、今から12年前,私が55歳のときでした。その後東京地検に裁判資料閲覧の許可を申請。三度目の審査を経て東京地検より得たのは、11年前。簡単に水上源一論をまとめられると思いながら、閲覧作業を行っていたのですが、これが結構大変で、実際の事件の法務上の処理を書き写すという作業は、生半可でなく、かてて加えて、仕事がとても忙しくなり、海外出張の連続。その後、小生の60歳定年、定年延長さらには関連会社への出向転籍などや、体調の不振。などが重なりました。
然し、正直に振り返ってみると、根本的には、水上さんの行動や気持ちが今一つ理解できず、心の中で、水がせき止められてしまった様でした。
しかし、今回、このブログで書きながら、改めて、収集済みの資料を再読していると何かが見えたような気がいたしました。
そのような気持ちに立つと、ここまで書いたのは、実に序章の序章で、まだ大量にある資料を見乍ら、67歳の自分に残された寿命の短さにぞっとしております。然し乍ら、父と同期の池田俊彦さんが「生きている二・二六」を書かれたのが73歳だと想起すれば、いやいやまだやれると思う気持ちにもなれます。

さて、水上源一さんのことを考えると実に多くの遺墨、手紙、遺品があります。遺品には柔道着とか、写真や日大の卒業アルバムとか、補充電信兵として応召したときに与えられた実印の入った貴重品袋、奉公袋、軍隊手帳、教育を受けた際の手帳など、また、多くの遺墨を書いた紙は、障子紙で、「美濃本場 御障子紙」書いてある包み紙まであります。
で、それをしっかりと持っていたのは、奥様のはつねさまであり、それを、引き継いだのは、宣子様であり、この保管のことを考えただけでも、強い愛情や同志の思いが伝わってまいります。

賢萗寺のお墓は、「水上源一家の墓」となっており、はつねさまが建てられたものです。
写真は、水上源一一家三人で撮られたものです。 又、お墓の写真は仏心会の安田様がお参りしているものです。いずれも掲載許可をいただきました。

  

水上さんは日本のために「捨て石」となられました。然し、そのお名前は歴史に残り、お墓の中で今は奥様と、そして天から宣子様を見守り、いつの日か、あたたかく、一家揃って、お過ごしになるのだろうと思います。
長くなりましたが、とりあえず筆を擱きたいと思います。

私が実際に接した水上源一さんのご長女、宣子様は、私に新しい二・二六事件の新しい理解のきっかけをくださいました。いつまでたっても御報告が出来ないことに対し、ここに改めておわびするとともに、その一部を書かせていただきました。


源了院剛心日行居士 昭和十一年七月十二日  水上源一 二十九才
初了院妙観日光大姉 平成五年七月二十二日  水上初子 八十二才  注:はつねさまのこと。
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16.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170205) 水上源一さんのこと(その15)死刑判決を妻に知らせる手紙

2017年02月05日 | 今泉章利
16.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170205)
水上源一さんのこと(その15)死刑判決を妻に知らせる手紙


お話しましたように、昭和11年7月5日、水上さんは、死刑の判決を受けます。懲役15件の求刑から突然の変更、極刑です。以下は、この7月5日日、源一さんは、獄中で、妻はつね(初子)さんに、手紙を認めます。悲しいけれど書きます。

封筒には赤い三銭切手が貼られ、消印はよくわかりません。あて先は「東京市麻布区霞町一 水上はつ子様」。封筒の裏は、「渋谷区宇田川町二八 水上源一 昭和十一年七月五日」とあります。

4枚の便箋に書かれています。はじめと最後の名前の後に水上さんの印が押してあります。

「 印  拝啓 長い間御無音に打過ぎ誠に申訳け御座いません。 其の後如何暮しかと毎日心配致して居ります。  先日お前等の事に就きまして 松本さんにお願ひのお手紙を日大歯科□気付にて差上げましたが ご多忙か未だ御返事ありません。
お前らの後顧の患も考ず今回の事件に参加致しました。 しかし賢明なるお前は良く私の心を諒解してくれる事と思えます。
甚だ申兼ねる次第ですが本日(七月五日)東京軍法会議に於て死刑の言渡を受けました。
しかし決して嘆かずに下さい。私の只今の心境は今年の正月に書初致しました通りです。
決して取り乱さぬよう。人は一代ですが名は末代迄です。身体は此の世から消るとも 魂は必ず
お前と宣子の頭上にありて何くれとお守り致します。これより女の手一つで宣子を育てる上は
幾多の困難に出会ふ事でせうが何卒宣子を立派に育て上げる様お願ひ致します。
二人の□子は不幸にして男子無き故 私の意志を次ぐ事出来ず 残念至極に存じますがせめて宣子が生長の暁には私の意志をお聞かせ下さい。
お前も御承知の如く小さい時から母上様には勿論兄上様には非常なる御恩を受けて居ります故 何卒私にかわり 母上様、兄上様に御恩返し下さる様
今後の事は兄上様とよくご相談の上決せられたし。

宣子へ。
宣子の生れいづる時 父は獄にて知らず、今又可愛時代を見ず天皇陛下の御ため死する。
宣子も又父の顔を幼い故知らずに残念であらうが、寫眞をみて昔の記憶を呼び起せ。
父に逢いたければ、墓場に来たれ 父は喜んで迎ふ。
母は女手一つで宣子を生長させる故我儘を云わず 母の云う事を良く守り立派なる女子となり母に孝養せよ。
此の書面は最後と思ふが十二分に身体を大切にせよ。
私もあの世とやらから 初子と宣子の御壮健と御幸福を祈る。
もし此の書面が早く到着したなら至急面会においで。

先は、永久に永久に左様奈良
御機嫌やう
吉田豊隆兄 澤田一敏兄初め 皆様によろしく。河原の叔父母様によろしく。

昭和十一年七月五日

水上源一 印

初子 宣子様  」
注:写真は手紙の一部、三枚添付します。



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15.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170204) 水上源一さんのこと(その14)湯河原襲撃ー2

2017年02月04日 | 今泉章利
15.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170204)
水上源一さんのこと(その14)湯河原襲撃ー2

水上さんのみならず二・二六事件の一次資料という意味では、もちろん、(元東京地検にあり、いまは)国立公文書館にある裁判資料が一級と思います。この一日も早い公開が待たれます。拘束から判決、処刑までの130日間の記録です。
世界的にも類を見ない記録だと思います。

あと、神奈川県公文図書館というところにある神奈川県特高関係資料という警察の資料もあります。「二・二六事件前後の神奈川県特高関係文書」(今井清一)というリストがあり、右も左も博徒まで、213資料があり、そのうち、牧野さん襲撃関連は、横須賀の病院に入った宮田さんのもの、牧野伯に関するものなどのほか、番号でいうと、104,107,110-135、145-147、165、178-など(以下略)があります。
ひとつ注意いただきたいのは、「私はそのときその場にいた、、」という様な断片的な新聞や週刊誌などに書かれている記憶たよりの資料が時々ありますが、長い年月で、勘違いが増幅して、思い違いを「真実」として語る場合もあるので、わずか80年の歴史であるが注意して資料を扱うことが重要であります。
あとは、国会図書館の憲政資料室がおすすめで、未開拓の資料が山のようにあります。皆様の地道な研究を期待しております。

資料は、いきなり詳細について述べれているので、どうしても我々は、資料を読むのではなく、資料に読まれてしまう傾向にあります。
ご自分なりに、おおまかでいいので、事件の年表と全体像をつくられて、この資料はいつ、どういう人が作ったものかを、評価しながら読むことが必要です。一次資料なのか、孫引きなのか、歴史家は、文章がうまいので、注意深く読むことが必要です。
私の父の事を、佐賀出身であるということだけで、事件を前々から知っておきながら、裁判で知らぬ存ぜぬというような卑劣なやつと、田中惣五郎という著名なひとが、想像断定して書いていた記事を、今でも悲しく思い出します。きっといつの日か、誰かが図書館とか古本屋でこの本を見つけ出し、「これが真実」と思う日が来るのかもしれません。父はノンポリで、軍務教育に専心しておりました。このように歴史は、作られていきます。
真崎黒幕論、北一輝黒幕論、あるいは、取るに足らないことをあげつらう学者や文筆家がいます。
この事件が、起こった理由が何で、結果的に我々になにをもたらしたか。あの翌年、日中戦争を勃発させたのはだれか。なぜ国民は非難できなかったのか。争臣はなぜいなかったのか。
女性や子供までも犠牲にした国家総力戦は、どうして食い止められなかったのか。21世紀の我々は、次の世代にどのような教訓を残せるのか。

「誤謬は常に繰り返される。従って真実は繰り返し繰り返し語られなければならない」 (ゲーテ)
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14.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170203) 水上源一さんのこと(その13)湯河原襲撃ー1

2017年02月03日 | 今泉章利
14.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170203)
水上源一さんのこと(その13)湯河原襲撃ー1

これから研究される方に、いくつか参考の文献をご紹介しなければなりません。
まずは、河野司(つかさ)様の、「湯河原襲撃」(日本週報社、昭和40年2月発刊)があります。この昭和40年は、渋谷宇田川町の衛戍(えいじゅ)刑務所の処刑場跡に「二・二六事件全殉難物故者慰霊観音像」が建立された年で、河野司さまは、仏心会代表として、構想から全国の協賛金募集からプロジェクトの完成まで10年間、末松太平さまたちと推進されていました。
この本には、河野大尉の遺書や三島憲兵隊長の宮内善則さん、や事件参加した方たちの寄稿等があり貴重な本です。
また、湯河原事件で水上さんと同じく参画した、最古参の宇治野時参(ときぞう)軍曹や、野中大尉の自決に、最期まで一緒だった井出宣時大佐のことなどもまとめてあり、是非ともご一読願いたいと思います。
河野司さんは、明治38年1月の生まれ。当時60歳の著作です。裏表紙には出版社が書いた次のような記載があります。

「昭和の悲劇 天皇を奉じた民主革命 昭和11年二月二十六日早朝、降り積もる白雪を蹴立てて、第一師団管区の青年将校が率いる千数百の将兵は突如クーデターを決行し、首相官邸など数か所を襲撃し、重臣たちを殺害した。世にいう「二・二六事件」である。軍は事件の真相を国民にひたかくしにかくしたが、その裏には大義と骨肉の最上の相剋に悩む純真な青年将校や、その肉親、上官、部下たちの悲しくも温かい人間の心と心のふれあいが秘められていたのである。
本書は、牧野伸顕伯爵を湯河原に襲撃した痕、果物ナイフで自決し果てた元陸軍航空大尉・河野壽の実兄司氏が、実弟をはじめ野中四郎、安藤輝三両大尉の行動や心情を書きつづった号泣の書である。編集者も泣けば、装丁家も泣いた。おそらくはすべての読者も泣くに違いない書である。」

読者には、「天皇を奉じた民主革命」という言葉に注目された方もおられるかもしれません。この言葉は、極東裁判のためGHQに呼ばれた斎藤瀏少将(注:歌人斎藤史さまのご尊父、二・二六事件で禁固5年)から、河野司さまへの手紙の中に書かれていました。手紙の中で、斎藤閣下は、各種資料を提出し、説明議論のすえ、米国検事から、「アメリカは二・二六事件の真相を明快に解明しました。二・二六事件は天皇を奉じた民主革命でありました。」との言葉をもらった、とあり、その中の「天皇を奉じた民主革命」という言葉であります。河野司さまは、これこそ二・二六事件の目途とした「昭和維新」の真の姿を解明する最大の鍵であると書いています。
実際、末松様が、戦争に負けたら、突如として自分たちの主張していた憲法が目の前に現れたと言っておられたように記憶しています。

注:この言葉は、昭和11年6月4日の将校班23回公判時における検察側求刑文書中、北一輝の目的とした「(社会)民主主義革命」を行った行動であったとする検察の陳述中の「(社会)民主主義革命」の意味とは、明らかにことなります。青年将校はその日の午後、等しく、天皇陛下に現状を伝えない重臣たちを打倒し、人々の苦しみをお知らせし、日本をよくしてほしいというものであったので、行動は北さんの主張するものとは関係ないと主張しています。検察は、何とか、青年将校の行動は北一輝の扇動によるものとしたかったのでしょう。河野司さまが書いておられるように、維新を目指したものとはなにか。丁寧な検討が必要と思います。


この本には、水上さんに関する二つの重要な点が記されています。

一つ目は、河野壽大尉は遺書の中で「自分の率いた部下7名はすべて自分の命令によって行った。彼らには何の罪もない。」と言って居られることです。
 「三、小官引率セシ部下七名ハ小官ノ命ニ服従セシノミニテ何等罪ナキ者ナリ  御考配ヲ願フ」
つまり水上さんたちは、自分の部下なので彼らには罪はないと言っておられます。ご自分は自決することによってお詫びすると言っておられます。(注:この隊は、二月二十五日深夜に、歩一で栗原中尉によって紹介され、構成された部隊)

二つ目は、宇治野時参(ときぞう)陸軍歩兵軍曹のことです。宇治野さんは、湯河原隊における、唯一現役、歩兵一聯隊第六中隊の下士官でありました。(もちろん隊長の河野大尉は現役ですが。)
栗原中尉は、この隊は全員、一騎当千の憂国熱血の士であったが、実際の戦闘行為における、中心となる現役の下士官として、宇治野さんを選んだと言われています。
以下は、河野大尉亡き後、公判を受けていた七名の隊員のうちの唯一現役の下士官、宇治野さんをめぐる河野司さんの記事であります。多少長くなりますが引用します。

「襲撃は、当の牧野伯爵を逃がして失敗に終わった。護衛警官の戦闘応戦に遭い、河野隊長、宮田隊員の受傷によって襲撃が頓挫したことが原因であった。
この失敗について宇治野君は、それはすべて自分の責任であるとの自責の念に悩んだのだった。
屋内に踏み込んだ隊長と宮田隊員が、予期しなかった警官の抵抗にあって受傷し前進を阻止されたとき、河野隊長は屋外の待機隊員に対して、続いて突入するよう再三にわたって命令した。
断続する銃声で、この命令が消されたのかもしれないが、外部から誰一人、飛び込むものはなかった。胸部盲貫銃創の隊長が、やむなく屋外に後退し、第二次襲撃の非常手段としてとられたことは、放火であり、機銃打ち込みであった。
これは措置としては、明らかに拙劣であり、失敗でもあった。私が熱海の陸軍病院に弟を訪れたとき、弟はこのことに触れて「もう一人将校がいてくれたら」と漏らした。この話は、その後誰にも語らず、ただ、私一人の胸の中に封じ込んでおいたが、襲撃目標の牧野伯を逃がした失敗の原因の一つがこの辺にもあったことがうかがえた。  
十余年の後、奇しくも宇治野君の口から、裏付けるかのような当時の状況を聞いたが、宇治野君はそれはすべて自分の責任であるとの自責の念に悔い悩み続けたことを知った。
殊に、事件後の軍法会議の裁判の結果、湯河原襲撃隊員のうち、水上源一氏ただ一人が、死刑の判決をうけて刑場の露と消えた。その判決理由所によれば、河野隊長受傷後、隊長に代わって指揮をとり、機銃掃射、放火を行ったことが罪に問われている。
 隊長に代わるべきものは、隊の編成上は、自分であったはずである。それが民間の学生、水上氏一人が責を問われて死んでいった。宇治野君の性格として、これは堪えられない苦悩であったことは想像に難くないことである。」
宇治野さんはその後ビルマ戦線で軍属として決死の働きをし、終戦の帰国でようやく二・二六事件の同士とも肩身の狭い思いをせず相交わるこころのゆとりを持たれたという。

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13.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170202)  水上源一さんのこと(その12)

2017年02月02日 | 今泉章利
13.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170202)
水上源一さんのこと(その12)

前回、投稿したものは、少し筆が走りすぎていて、いかにも不遜と思われる箇所もあり、読み返しながら忸怩たるものを感じております。
内容や自分の考えていることに嘘はないつもりのですが、、、力が入るということは、未熟ということだなあと思っております。頭の中に思い浮かぶのは、末松様をお尋ねしたときのことです。
末松様が、何かのときに、”いっぱんをみてぜんぴょうをぼくす【一斑を見て全豹を卜す】” と言われたことを思い出しました。
これは、物事の一部を見てその全体をおしはかることをいうことで、視野の狭いことなのですが、私には、逆に、いい加減なことがひとつでもあると、この全体は推して量るべしだよ というように思われます。
宮中をめぐる動きは木戸幸一日記がすぐに頭に浮かびます。この本は、今後も深く研究されるべきであると思っています。
因みに、判決一ヵ月前の昭和11年6月5日、木戸幸一内大臣秘書官は、部下より報告を受けた後、湯浅内大臣(斎藤実内大臣の後任)に「二・二六事件の情報その他を報告。意見を交換す。」 とあります。



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12.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170130) 水上源一さんのこと(その11)

2017年01月31日 | 今泉章利
12.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170131)
水上源一さんのこと(その11)

ここのところ、ちょっとハードな仕事や、又、別の大変お世話になった親せきの方が先週亡くなったり、体力の減少を自覚したり、なかなか思うように投稿ができず申し訳ないと思っております。
馬齢を重ねるとは、わたくしのためにある言葉ような気がしておりますが、お目にかかった方たちのメッセージなどに思いを馳せ、頑張れと、自らを奮励し続けておりますが、筆の進まぬ点、どうか、ご寛恕賜り、もうしばし、よもやま話も含めてお付き合いいただきたく存じます。

最近二通のコメントを頂きました。夫々へのお返事をかねて次のように書こうと思います

(1)AZUさま
コメント:7月12日処刑直前の絶筆を拝見しては、何を申せましょうか。
どんな死も悲しい。けれど思わぬことで大切な人を失くすほど哀しいことはないでしょう。せめて、その背景を原因を解きほぐして書き留めてくださいまし。

今泉の考え:コメントありがとうございました、人が死ぬのは悲しいことです。湯河原事件では、結局3人の人が亡くなりました。2月26日には警察官の皆川義孝巡査が、3月5日には熱海衛戍病院で河野壽大尉が切腹自決、そして民間人水上源一さんは7月12日に代々木の刑場で亡くなりました。それぞれのご遺族は今も重い気持ちを引きずっておられます。日本の一大悲劇の原因と結果は、かなり詳細なデータを用いながら、じっくり構えて考える必要があると思いますが、まずは、お墓(元麻布賢萗寺)や慰霊像(処刑場、宇田川町)をお参りただくとともに、、河野司さまなどがまとめられた、遺言、遺文などもお読みいただき、じっくりと、ご自分なりの考え育ててゆくことが、21世紀の日本の大切な宝になると信じております。
また、ともすると一方的になるこのようなブログにご感想ご意見をお寄せ頂きましたことあらためて御礼申し上げます。またのコメントをお待ちしております。


(2)伊牟田伸一さま
コメント:早速ご厚意に甘えますが下の記事を読んだ時に衝撃を受けました。奥様への限りない愛を超えて蹶起に踏み切った民間人、少ない資料の中貴重な投稿をありがとうございます。下記に記事の信憑性は如何なのでしょうか?教えて下されば嬉しいです。「検察官の論告の際に禁固15年を言い渡された水上源一が「他の同志の人たちが死刑になるのに、自分だけが助かってはすまぬなぁ」と言ったため死刑に回されたと伝えられています。・・・」


今泉の考え:コメントありがとうございました。
お書きになられたものは、橋本徹馬さんの「天皇と叛乱将校」という昭和29年の著書に、聴いた話として書いてあるのを記憶しています。伊牟田さまはどこで資料をご覧になられましたか。水上さんが栗原さんの死刑求刑を知っていたかについては、小学館資料資料によれば「将校班の求刑は、昭和11年5月6日の第23回公判で行われ、21名が死刑(求刑)であり、湯河原班の求刑は5月10日の第4回公判で、水上源一、宇治野時参、中島清治、黒澤鶴一が懲役15年(求刑)、、、」となっておりますので、御存じであったと思います。
この発言があったといわれる湯河原班の第4回公判は、私は残念ながら見ていません。然し、もしそのような不規則発言があったとしても、まず記録には残らないと思います。(将校班の公判でも、いくつかも不規則発言が、磯部さんや對馬さんや中橋さんなどからなされたようですが、記録には残っていないと、私は、池田さんや父から聞いております.) 一方、国家立て直しのため「捨て石」の覚悟を持つ水上さんにとっては、確かに同志栗原さんが死刑であったのは些かショックであったかもしれません。
また、別の話では、河野大尉の了解を得て行った放火を「水上が指揮した」とか、栗原さんが着用してくれと言う「軍曹の軍服を着ていた」という理由から死刑になった,という話もあります。
ちょっと話はずれますが、公判記録を注意深く読んでいくと、事件の計画は何も知らない水上さんがいつの間二・二六事件か主犯になるような記述に代わってゆくのがわかります。きっと、大卒で理路整然としていたから注目され、主犯にしてしまえといわんばかりの書きぶりです。(これは別途機会があれば書きます。)

水上さんの死生観を書きます。ご遺族にはつらい思いますが、水上源一さんは、昭和7年「救国学生同盟」を設立しました。集まる学生と面談しながら、結局、本当に国のためになる、自らの命を犠牲にする「捨て石」にできるもののみが、本質なのだととらえ、その意味でその年の12月栗原さんと意気投合したようです。火力の大きさは軍にはかないませんが、水上さんは単独でもことを起こそうと考えていました。利権まみれの政治家、倒れた犬養の後継の鈴木を倒そうとした熊谷事件(埼玉挺身隊事件)、首班に迎えようとしている腐りきった陸軍大将暗殺未遂など、怒りは収まっていません。しかし、捨て石の向こうには、一君万民の世が待っていると信じて居ました。(当時の日本人の大多数はこうした考えでした。)

私の解釈ですが、水上さんは、綿引正三さん、を引き連れ、二・二六事件に参加したのですが、小さいながらも、水上部隊は、軍とは精神的に協同してに参加したと思っています。これは、宇治野さんたちが、栗原さんに軍で薫陶を受けて参加したのとは、質的に異なると思います。軍がやらないなら、自分たちだけでもやる。国家がよくなるための「捨て石」となるという確信は、第一次救国学生同盟を解散するときに水上の心の中に強く芽生えたものでありました。
二・二六事件は、水上部隊の参加によって、軍だけの運動ではないと思っています。(その意味で5・15事件の延長線上であると思います。これをいう人は誰もいませんが。)

単にこれまでの、二・二六事件研究は、昭和40年に出版された高橋正衛の中公新書で、「二・二六事件は真崎甚三郎の野心と重なり合った青年将校の維新運動」であるといってよいであろう」と断じた考えから一歩も出ていません。即ち、「二・二六事件は、悪役真崎大将と陸軍の内部抗争事件である」と断じたベストセラーが 値段もお手頃で、わかりやすく40版以上なので、多分50万部も、売れたのではないでしょうか。これを私は、「高橋正衛史観」と呼んでいるのですが、これは、二・二六事件を陸軍に絞って推理と経緯を述べたもので、なぜ、その前史、国家構造、国家思想、二・二六事件に至る様々な事件との関連、そしてその後日本民族に与えた被害、一方、二・二六事件を想定して合法的に処罰と粛清を行ういかつ速やかなマスコミ統制を行うためのシステム研究=昭和9年㋀「政治的非常事変勃発に処する対策要領(片倉衷、後藤他新官僚などが研究)についてなどはまるで論じていません。「二・二六事件産業の人たちは」二・二六事件を陸軍内部抗争に焦点を絞り、鍬を振り上げスコップを金の生る畑に掘り下げていったように思われます。
(「高橋正衛史観」に基づいて、NHKと共同で「真崎が黒幕だった」と結論づけたよみものである「雪は汚れていた」は100万部売れたと言われているので、日本人の大半は「真崎黒幕説」で洗脳されているに違いありません。実際「雪は汚れていた」の著者は、高橋正衛の真崎黒幕説が書いてあるノートをNHK経由写しをもらってまとめたものです。彼女は一言も書いていませんが、高橋さんが雑誌で、「澤地は自分のノートを使い、かつまとめ方について電話で相談してきた」と其の経緯を公表しています。ちょっとだけ触れておきますが、「真崎黒幕説は、何の根拠もなく、高橋正衛の想像です」と、高橋は、1990年2月、千葉の末松宅で、末松太平さん、山口富永さんに対しあっけなく説明します。しかし、日本人の頭の中に植え付けられた真っ黒い性格の悪い真崎像はどうしてくれるのでしょうか。、、)

伊牟田様、だいぶ話がそれてしまいました。長くなりました。水上さんの死刑の問題は、水上さんが言われたかもしれない発言ではなく、もっと直接的に、天皇の前で厳罰を誓った、責任者の寺内寿一大臣(川島陸軍大臣の後任で、誰からも、ロボット大臣といわれていた)、および梅津次官(もと、安藤大尉の上官であった歩兵三聯隊長)をよく調べる必要があると思います。
そして、最後に、干与審理を行った井上一男法務官を調べるべきでしょう。匂坂資料のオリジナルがそのまま国立国会図書館の資料室にありますので調べるのもひょっとしていみがあるかもしれません。

長くなりましたので擱筆しますが、私は、よく、令嬢の宣子さまから「なぜ二・二六事件は青年将校ばっかりなの?」と聞かれました。今回初めて書いたことは、私の心の中にずっとあったものです。また、様々な、コメントをお待ちしております。

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11.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170119) 水上源一さんのこと(その10)

2017年01月19日 | 今泉章利


11.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170119)
水上源一さんのこと(その10)



前回お話しましたように、今年に入り私親戚が亡くなりました。人が亡くなるということは、理由の如何を問わず、悲しいことです。

二・二六事件で処刑や遭難された方のご家族がどれほど苦しみ悲しみを引き継いでおられるか、思いを一層深くいたしました。水上源一さんは、明治41年北海道の太平洋に面した長万部から、日本海に面した瀬棚という町を結ぶやや瀬棚寄りにある内陸の、そして日本で一、二美しさを競う後志利別川(しりべしとしべし がわ)が流れる、今金(いまかね)という地で生まれました。

船乗りになるべく15歳のとき、函館商船学校に入学しました。大正12年のことでした。昭和2年19歳で卒業しましたが、宣子さんが「お父さんはね。船酔いがひどくて船乗りになれなかったとお母さんが言っていた」というのは本当でしょう。
この学校には練習船がなく、鮭漁の漁船などに乗る実習で、環境は良くなかったと記録されております。
函館の高台のお寺、確か、高龍寺というお寺だったと思いますが、そこに、函館商船学校の卒業者名が刻まれた大きな碑があり、水上源一のお名前は確かに彫られてありました。写真が見当たらないのが残念です。

水上さんのご親戚は裕福で、叔父様が水上さんの学資のスポンサーでありました。
水上さんは、翌昭和3年の4月、東京の日本大学専門部政治科に入学しました。それからのことは次回に書きますが、このころの大きな出来事は、奥様の佐藤はつねさんとの出会いです。
初子というのは水上さんが、好んで付けたお気に入りの名前で、戸籍上は、「佐藤はつね」さんです。はつねさんは明治44年岩手県の前澤で生まれました。二十人町という歴史のある町で生まれました。
かなり急な道をのぼった丘に前澤小学校があります。前澤の町を一望できる場所ですが、はつねさんはこの小学校に通われたと思います。はつねさんはその後、東京の学校に通われました。

源一さんは北海道、はつねさんは岩手県前澤、ですが、お二人は東北本線の汽車の中で知りあったそうです。昭和3年源一さん20歳、はつねさんは17歳でした。
それから8年間、源一さんが二・二六事件で生涯を終える昭和11年まで、水上さんと、はつねさんと共に居られました。令嬢の宣子さんから、源一さんが、はつねさんに、昭和7年の7-9月の3か月に出された7通の手紙を見せていただきましたが、はつねさんがしっかりと源一さんの手紙を大切に保管していたことに思いを馳せると熱いものを感じます。

昭和9年に宣子さんが生まれ、婚姻届けを出しています。(宣子さんの名付け親は、澁川善助さんです。)写真は、28歳の源一さんが処刑される直前まで持っていた、25歳のはつねさんあてのセンスとその箱です。センスには、「我が永遠の最愛なる妻初子よ 義務終りたらば来れ 我れは嬉んで迎ふ それ迄は強くゝ生きよ昭和拾壱年七月拾壱日 夫源一」 箱の裏には「今処刑台に行かんとし これ迄我手に固く持っていたもの 既に栗原さん露と消えたり」とあります。

この絶筆は、昭和11年7月12日、朝7時の栗原さんの処刑直後に書かれたものでしょう。源一さんは、8時30分に澁川善助さんたちと共に処刑されました。


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10.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170109) 水上源一さんのこと(その9)

2017年01月09日 | 今泉章利
10.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170109)
水上源一さんのこと(その9)

親戚に不幸があり、山口まで行っておりました。あっという間に日が過ぎるなと思っています。

さて、日本の歴史教科書は、大正、昭和になるといきなりわけがわからなくなる、とは、よく言われています。特に戦後、唯物史観という歴史認識が大きな伏流となって、各大学の文学部の歴史担当者に引き継がれ、文部省にもなだれ込み、マッカサーの占領政策ともなじみつつ、「歴史学」がその自由な学問的な立場を失い、「プロパガンダ」的、歴史”学”になったからだ という人がいましたが、いい得て妙であります。
筆者は二・二六事件の窓から、歴史を振り返るのみですが、「なぜ」とか「その背景」があまりに述べられていないし、研究もされておらず、いくら本を買っても事件の本質は近寄れない気がします。例えば前回の、犬養、鈴木の話でも、あるいは普通選挙でも、なぜあれほどに国民全体が怒っていたのかがわかりません。私の見るところ、二・二六事件につながる政党不信やその攻撃の標的となった人は、当たり前なのですが、ほとんどみんな政友会や其の周りの大きな沼の中にいます。
政友会の初代総裁伊藤博文は、1900年、その結党に当たり明治天皇から2万円のご下賜を頂いたそうですが、地方地主や三井などの財閥などをその基盤として選挙(普通選挙前の特定選挙)を行い、帝国議会を運営、内閣を組閣して政治を行いました。政友会を源流とする45年の歴史の中には、当たり前ではありますが、西園寺公望、高橋是清、清浦圭吾、田中義一、原敬、浜口雄幸、久原房之助、犬養毅、鈴木喜三郎などがおります。もうあまり残り少ない人生ではありますが、この方面の研究をもう少しやってみようと思っています。またこの流れは、今の自民党につながっている、私たちの政治の歴史でもあります。

また、もう一つ分かりにくいのが賄賂や特権階級のことです。一部商売的なものも感じますが、富の偏在、階級の存在などが、いかに、人々の心をいら立たせていたかです。軍費用に係るもの(キックバック)、塩など統制品に係るもの、許認可に係るもの、朝鮮や中国における様々なもの、その他権力の座にとってのフリンジベネフィットは山ほどあると思います。
またさらに、究明すべきは、農村の大地主制についてです。北一輝が問題としていた大地主制度は、敗戦とともにマッカーサーの指令により、一朝にして崩れ去りました。然しそれまでは、大地主と小作人という構造には一切、手が付けられませんでした。それは、政友会政権の基盤が、地方地主にあったからです。人力に頼っていた農村の徴兵の負担も大きかったかもしれません。
二・二六事件の大きなきっかけであった貧農問題は、小作人問題であり、大地主制度にありました。末松太平さんが、私に言われたことの中に、二・二六事件の原点は、津軽の「車力村」にあるといわれました。私は、過去3回ほどこの地を訪れました。そして、山背の風の中、胸まで浸かって田植えをしたという当時の小作人の方たちに思いを馳せました。

扨て今日は、三島憲兵隊における水上さんの憲兵調書の後半を書きます。

(続きです。救国学生同盟についてです。)
当時ノ会員ハ日大、拓大、中大、早大、慶大等テ 約4百名アリマシタカ 之ハ、既ニ解散シ、昭和九年二月十一日 日本青年党ヲ設立シ、同十年八月郷軍同志会ヲ設立致シマシタ

カウシタ私ノ気持カ今回ノ事件ニ加担シタ主因トナッテ居リマス

問)オ前ト栗原中尉トノ関係ハ如何

答)ソレハ昭和七年十二月友人ノ山内一郎カ幹候トシテ歩一ノ十中隊ニ入隊シマシテ ソノ月ノ半頃 山内ニ面会ニ行キマシタ際「中隊ニ君ノヤウナ気持ヲ持ツテヰル将校カ居ル 会ツテ見タラドウカ」ト言ワレタノテ ソレテハト言ツテ将校室ニ行キ栗原サンニ  会ツタノカ初メテゝ其時オ互ヒニ信念ヲ語リ会ヒ大イニ 共鳴スル処カアリマシタノテ 爾来今日迄同志トシテ交際シテ居リマス

問)今回ノ事変ニ対スル計画ニ参與シ非サルヤ如何

答)私ハ今回ノ事件カ如何ニ計画サレテヰタカハ一向存シマセン  唯実行ニ加ハッタゝケテアリマス

問)指揮官河野大尉トハ面識アリシヤ如何

答)決行ノ夜 栗原サンニ紹介サレタノカ 初メテゝ存シマセンテシタ

問)本件ニ就キ他ニ陳述スルコトハアリヤ

答)私ノ信念ハ尊王絶対テアリ今回私達ノ採ツタ行為ニ依ツテ皇運ノ益々隆昌ナルコトヲ希フモノテアリマス

水上源一(自筆)拇印

右讀聞ケタル處相違ナキ旨申立ツルニ付署名拇印セシム

昭和十一年二月二十八日

三島憲兵分隊

陸軍司法警察官  陸軍憲兵曹長 山中梅吉 (印)

この三島憲兵隊での訊問調書は、事件直後であり、率直に語られていて、私は一級の資料と思っています。そのあと、東京の訊問調書や公判記録では、誘導的な尋問がなされ、いつの間にか、水上さんが軽機、拳銃、弾薬を用意したように言わせていますが、東京の資料を引用するにあたっては十分な注意が必要です。

求刑は懲役十五年。判決は死刑。
死刑の判決文には、「右ノ者等ニ對スル叛亂被告事件ニ付當軍法會議ハ検察官陸軍法務官井上一男干與審理ヲ遂ゲ判決スルコト左ノ如シ  主文 被告人水上源一ヲ死刑ニ処ス (以下略)」とあります。
井上一男法務官の「干與審理」とは、まだ不勉強でよく分かっていませんが、いやしくも懲役十五年の求刑が、決定的理由も述べられず、無期を飛び越え死刑になったのであります。
事情を知っている筈の湯河原班の「裁判官陸軍法務官」の伊東章信は、戦後の雑誌対談では、明らかにしていません。
一方、この東京陸軍軍法会議の最高責任者であり、天皇に厳罰を誓った寺内寿一陸軍大臣は、この決定にどのようにかかわったのか。元歩三の連隊長で部下の安藤大尉の参加に愕然とした梅津陸軍次官や匂坂法務官はどのように考えたのか。
研究課題は、湧き上がってくるばかりであります。 なお、次回の10回目で一応水上さんの記事はとりあえず擱筆する予定です。


追伸:井上一男法務官は、1929年4月9日陸軍法務官に任官、終戦時は第6空軍法務部長でありました。

「干與審理」も含め、何か情報をご存知の方はご教示くださいませ。

なお、私の写した第一回公判調書のノートの該当部分を恥ずかしながら添付します。



写真の中央部をよく見ていただくと井上一 までは読めるのですが、草書体の文字が読めず、」その位置づけがわかりかねています。
どなたか、誠に申しわけないのですが、お教えいただければ幸甚です。

なお、、その前後の関係分は次の通りです。

「第一回公判調書 元陸軍歩兵軍曹 宇治野時参 、、、(略)」、、、、右ノ者ニ対スル反乱被告事件ニ付 昭和十一年五月五日東京陸軍軍法会議公判廷ニ於テ  裁判長判士陸軍歩兵中佐人見秀三  裁判官陸軍法務官伊藤章信  裁判官判士陸軍砲兵大尉根岸主計  裁判官判士陸軍歩兵大尉石井秋穂  裁判官判士陸軍歩兵大尉杉田一次(?)補充裁判官判士陸軍騎兵大尉吉(?)橋健児  陸軍録事鈴(?)木又三郎 XXXノ上 検察官陸軍法務官 井上一男(?)XXXXX 公判ヲ開廷ス  陸軍軍法会議法第四百十七条ニ依リ 審判ヲ公開セズ 各被告人ハ  XXXX。。。 わかりづらく自分で辞書っぽいものも作りましたが大変です。但し、この草書はきちんとしたものですが、ほとんどが立派な毛筆のため、難物です。
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9.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170104) 水上源一さんのこと(その8)

2017年01月04日 | 今泉章利


9.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170104)
水上源一さんのこと(その8)

裁判制度は、私たちにとって、わかっているようでなかなかわからない世界です。しかし、そのベースとなるものは法律という取り決め事です。感情で人を裁くのではなく、法律という約束事で世の中を治めるのです。このような国家を法治国家と呼んでいます。しかし、世の中が複雑になってゆくと、裁く側の奇妙な論理の組立て、結論ありきの見せかけ裁判が横行します。二・二六事件の裁判は、東京陸軍軍法会議という特別な、天皇の命令、「昭和一一年勅令第二一号東京陸軍軍法会議ニ関スル件」によって設けられた軍法会議です。この軍法会議は、いわゆる戦時下での「特設軍法会議」と見做し、裁判官の忌避はできない、弁護人の選任を許さない、審判を非公開、上訴を認めないというものであり、さらに、対象を裁判管轄権の変更なく、民間人にまで広げたものでありました。事件の重大性はあるとしても、このような裁判手続きが明治憲法下の法治国家で許されるのか、明治憲法といえども、権力による私刑ともいうべき裁判を容認してはいなかったはずである、と、私に多くを教えて頂いた松本一郎先生はいわれています。(写真参照ください。二・二六事件裁判の研究、1999年7月、緑陰書房)また、別のある人は、この「東京陸軍軍法会議」の設置を「明治憲法の自殺」と断じました。

水上さんの第一回の訊問調書は、3月18日に行われました。小学館の二・二六事件秘録第三巻195ページに水上さんの訊問状況が書かれていますが、同席した憲兵の記憶報告であり、要点は間違っていませんが、実際のものはかなり長文で,やり取りに満ちています。
今回は、ほとんど見ることのない、というか、多分初めての発表になると思いますが、事件直後の2月28日に憲兵隊三島分隊における訊問調書を一部記載したいと思います。

被告人訊問調書  被告人水上源一

右者ニ対スル叛乱被告事件ニ付、昭和十一年二月二十八日 當分隊ニ於テ本職(注:三島憲兵分隊 陸軍司法警察官陸軍憲兵曹長山中梅吉)ハ右被告人ニ対シ、訊問ヲ為スコト左ノ如シ

問 氏名、年齢、族称、本籍、出生地、住所ハ如何
答 氏名ハ前述ノ通リ
  年令ハ當二十九年
  族称ハ平民
  本籍ハ東京市神田区西神田二ノ二一ノ三
  出生地ハ北海道瀬棚郡利別村今金
  住所ハ東京市麻布区霞町一
問 位記、勲章、記章、恩給、年金ヲ有スルヤ
答 アリマセン

問 兵役関係ハ如何
答 第一補充兵役陸軍電信兵
問 二月二十六日ノ行動ニ就イテ述ベヨ
答 私ハ二月二十四日午後三時頃、歩兵第一聯隊ノ栗原サンヲ久方振リデ 訪問シタトキ
  「明晩当直ダカラ遊ヒニ来イ」ト云ハレマシタノデ、同志綿引正三ト二人テ面会ニ行キマシタ処
  「今日ヤルゾ」ト云ヒマシタカラ 何時ダカ問ヒ返スト「明朝四時ダ」ト答ヘマシタ ソシテ
  軍ト着替ヘロト言ハレル侭ニ 其ノ部屋ニアッタ軍曹肩章附着ノ軍服ト着替ヘ編上靴、巻脚絆ヲ穿ケ  マシタ 
  ソノ内ニ同志ガ集ッテ来マスシ 軽機ヤ拳銃、弾薬等ガ運バレ 私ハ日本刀ヲ持チ 二十六日午前零時四十分頃 皆と共ニ 河野大尉ノ指揮ヲ受ケ 牧野伸顕殺害ノタメ湯河原伊藤旅館別館ニ向ヒマシテ同家ヲ襲撃シマシタ

問 襲撃時ニ於ケル状況ヲ述ベヨ
答 私達ハ隊長ヲ先頭ニ目的地タル牧野ノ宿舎ニ参リマシテ 門前ニテ区署ヲ受ケ 私ト綿引、宇治野ノ三名は、表カラト云ワレ、勝手口ノ板垣ノ横カラ侵入シ、表玄関入口ニ向ヒマシタ。 ソノ時、隊長ト同志二(宮田、黒田)ハ勝手口カラ入リマシタ。 私達ハ表玄関ニ行キ、私ハ日本刀ヲ、綿引ハ足テ硝子戸ヲ破壊シテ居リマスト 中カラ銃聲カ聞コエマスノテ「ヤッタナ」ト思ヒ 屋内カラ「畜生ヤリヤガッタナ」ト言フ聲カシタノデ 敵ガ 彼方ヘ集中シタト感シ ヤラレテハ大変タト勝手口ニ向ハウトシタ時ハ 共ニ来タ二人ハ其処ニハ居リマセンテシタ ソレテ私モ直グ勝手口ヘ廻ッタトキ 隊長カ 中テ同志ニ助ケラレテ出テ来ルノヲ認メマシタ 私ハ其ノ時「軽機来イ」ト大聲ヲ発シマシタラ 軽機(中島)カ降リテキテ勝手口カラ飛込ミマシタ ソコテ私ハ 屋内ヲ指示シ「敵は向フタカラ撃テ」ト言ヒマシタガ銃ノ故障カ彈丸ハ出マセンテシタ。ソコテ私ハ軽機カ使ヘナケレハ駄目タト感ジ 隊長ヲ探シマスト玄関前ノ所テ屈ンテヰタノテ隊長ノ許ニ行キ「火ヲツケマス」ト云ッテ、前ノ塀ヲ乗リ越へテ、玄関脇ノ物干場ニ行キ干物ヲ下ロシテ火ヲ付ケントシタカ干物カ湿ッテヰテ駄目ナノテ、、、(以下略)

問 襲撃ニ加担スルニ至レル動機ハ如何
答 私ガ日本大学ニ入校シマシタ当時、校内ニ於イテ、学生が共産主義ヲ云々シ 演説練習ニ共産党理論ヲ口説シ 畏クモ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スルカ如キ言辞ヤ私有財産制度ノ非認ヲ云々スルカ学生間ニ非常ナ拍手感動を與ヘテ居ルノテ 田舎出ノ私ニハ共産党トハ如何ナルモノカ分ラナカッタカ 皆ニ向ッテ日本ハ他國ト國体ヲ異ニシ立派ナ國ノ筈タトテ國体観を述ヘタカ弥次ラレテシマッタ様ナ状態テ 当時ハ各大学共左翼化シ来テヰタ時代テアリマシタ

ソレカラ私ハ共産党ノ理論ヲ研究シテ見タカ 私ノ國体観カ正シイノタト信シマシタ 然シカウシタ学生間ノ叫ヒノ内ニ我國ノ何処カニ欠陥カアルヤウニ感ジマシタ ソレカラ一度議会ノ傍聴ニ行ツタ際 神聖ナルヘキ國会議場カ マルテ 政権争奪ノ修羅場ノ如クテアルノテ コレテハ立派ナ政治カ行ハレナイト
感シマシタ

ソレハ田中大将ノ張作霖爆死事件等議場ノ問題トスヘキモノニ非サルニ 政権争奪ノ具ニ供シ 議会ニ於テ暴露スルカ如キハ 徒ラニ國際関係ヲ悪化スルモノト思ヒ 政党ニ対スル不満ヲ抱クヤウニナリ、又、續イテ起ツテキタロンドン軍縮会議ニ於ケル政府特権階級ノ私利私慾ニ基ク屈辱的條約ノ締結及ヒ 政党財閥ニヨル弗買ヒ、満州事変時ニ於ケル塩賈事件等私利私欲ノタメニハ国家国民モ眼中ニナキ輩(特権階級)ニ対スル不満ヲ一層感スルニ至リマシタ  ソレカラコノ侭テハイケナイ 何ントカセネハナラヌト考ヘタカ如何トモ出キマセンテシタ

其処テ私ハ昭和七年五月十六日、自ラ主唱シテ学生間ニ愛國団体 救国学生同盟ヲ設立シ 事務所ヲ千田(ママ)ヶ谷ニ置イテ合法的運動テ進ンテヰマシタ


続きは次回ですが、水上さんが救国学生同盟を設立されたのは、24歳、日大法文学部政治学科 2年生です。憂国の思いが伝わってきますが、注意深い読者にはピンとくる日です。つまり、昭和7年五・一五事件の翌日なのです。つまり、犬養内閣が総辞職した日です。 政友会の総裁には、犬養毅に代わり鈴木喜三郎が就任します。この鈴木喜三郎を狙った事件が、埼玉挺身隊事件、翌年昭和8年の11月のことでした。(今泉)
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8.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170103) 水上源一さんのこと(その7)

2017年01月03日 | 今泉章利



8.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170103)
水上源一さんのこと(その7)

二・二六事件は、改めて大きな事件だったとしみじみ思います。登場人物も半端でなく人数も多い。
それはなぜでしょうか。私はずっとこのことを考え続けてきました。また、一生考えてゆきたいとも思っています。ひとつには、多分、事件を起こした人たちの心情が、国民の多くの共感を得ていたからだろうと思います。五一五事件にみる、全国からの減刑嘆願書。相澤事件への関心の高さ。確かに、大地主制のもとの小作人たちの農村は極限まで貧困になっていました。
国際経済に連携した不景気と労働争議の頻発、社会主義の伸長、半世紀が過ぎた明治憲法とその矛盾と貧富の差と権力の偏在。
念願の普通選挙によって選ばれた議員たちは、私利私欲に駆け回り、賄賂は横行、、怒りと絶望の中で、人々は押しつぶされそうになり不安に喘いでいました。
だから、多くの人たちは、それぞれの立場にあって、政治を変えたいと願っていました。当時の人々の願いの多くは、その中心には天皇がいてほしいと願っていました、私の父(今泉義道)は、「一君万民」と口癖のように言っていました。父によれば、天皇陛下は「帝王学」を修めておられるから、正しいことは、きちんと理解され、統治される能力をお持ちなのであると、言っていました。
この事件に参加した人たちは、天皇は、周りの取り巻きによって真の世情が伝わっておらず、もし本当のことを天皇が知ってくれれば、必ず、天皇様は日本のために大御心を開かれる、そう信じて、疑わなかった人たちでした。

もう少しお話します。昭和11年1月15日、日本はロンドン軍縮条約からの脱退を宣言。無制限建艦競争が始まりました。陸軍統制派の人たちは、民間人をも巻き込む国家総力戦のため、法律、経済の整備を画策していました。
司法省刑事局の調査によれば、昭和6年から14年までに検挙された左翼学生は3941人、同じ期間に新たに設立された右翼学生団体は163団体、約25000人を擁していました。
資本主義の行き詰まり金本位制は限界を迎えます。株の暴落による世界恐慌。共産主義国家の成立、清王朝の崩壊過程で、各地に軍閥政権ができている混乱の中国。各植民地は独立の機運が高まり、日露戦争に勝った日本に留学生たちを送る。まさしく多事多難が渦巻く、そんな時代の中に、この事件は起きました。

さて、今日の写真は、宇田川町の陸軍衛戍刑務所の中で処刑される最期までしっかりと水上さんの手に持っていた、愛娘(まなむすめ)に遺したきれいな扇です。トンボは秋津洲、つまり、日本のことであります。この日本の国に三頭のトンボが飛んでいて、赤いトンボの宣子さんを、母親の初子(はつね)さんと父親の源一さんが見守っているのであります。父親は娘に次の言葉を遺しました。

「此の國の如く父母は汝を愛せり。父は明日天皇陛下のために死す。汝成長なさば母に孝養せよ。  昭和拾壱年七月拾壱日」

さて、私は、水上さんをめぐって「行動隊第二十九冊ノ内第十八號(湯河原班)」の標目(目次)と丁数(ページ数)で、筆記すべきところを日にち順に次の11の箇所を選択いたしました。
<>は、私が前述した118までの資料番号で、( )は丁数(ページ数)を示します。

1.昭和11年2月26日<38> 拘引状(P.183) 6ページ記述あり

2.昭和11年2月28日<35> 水上源一第一補充兵役陸軍電信兵 (P.163) 8ページ記述あり

3.昭和11年3月3日<56、57> 勾留状水上源一 (P.227) 2ページ記述あり 

4.昭和11年3月8日<82>  顛末書 (水上はつね) (P.329) 2ページ記述あり

5.昭和11年3月18日<105> 被告人水上源一訊問調書 (P.551) 56ページ記述あり

6.昭和11年3月20日<106> 第二回被告人水上源一訊問調書 (P.607) 3ページ記述あり

7.昭和11年5月5日<111> 第一回公判調書  (P.620) 137ページ記述あり

8.昭和11年5月6日<112> 第二回公判調書  (P.757) 124ページ記述あり

9.昭和11年5月9日<113> 第三回公判調書  (P.881) 4ページ記述あり

10.昭和11年5月10日<114> 第4回公判調書 (注:求刑 懲役十五年) (P.885) 27ページ記述あり

11.昭和11年7月5日<118> 第五回公判調書 (注:判決 死刑)  (P.921) 裁判書へ
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7.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170102) 水上源一さんのこと(その6)

2017年01月02日 | 今泉章利


7.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170102)
水上源一さんのこと(その6)

皆さま、本年もよろしくお願い申し上げます。この写真にあるハンカチは、水上源一さんが28歳で処刑される前日の、昭和11年7月11日午後8時に、25歳の妻、初子(はつね)さんへ遺したもので、宣子さん許可を得て撮った写真です。その時宣子さんは2歳でした。私は、今、裁判記録、すなわち、行動隊第二十九冊ノ内第十八號(湯河原班)の中に、どのような資料があるのかをお示したうえで、水上源一さんのそのうちの被告人尋問調書、公判調書を示したいと考えています。標目を続けたいと思います。

71.叛乱被告人河野壽自決ニ関スル通牒        (丁数二五十二)
72.xx引取證及假還付書送付ノ件通牒         (丁数二六四)
73.引取證                       (丁数二六五)
74.仮還付書                      (丁数二六七)
75.検視調書送付ノ件                (丁数二六八)
76.検視調書 (注:河野壽)            (丁数二六九)
77.聴取書送付ノ件                  (丁数二八三)
78.聴取書                            (丁数二八四)
79.陸密第250號 元陸軍航空兵大尉河野壽遺書送付ノ件通牒   (丁数二九二)
    (自二九八丁至三〇一丁三枚欠)

80.證拠物件追走ニ関スル件通牒 (宮田晃)          (丁数三〇二)
81.検案書 (皆川義孝) 32歳               (丁数三〇三)
82.顛末書(水上はつね) (注:3月8日)          (丁数三二九)
83.請書(水上はつね)                    (丁数三三一)
84.顛末書(綿引誠)                     (丁数三三二)
85.請書 (綿引誠)                     (丁数三三四)


86.被告人訊問調書(宇治野時参) (注:昭和11年3月13日) (丁数三三六)
87.第二回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月14日) (丁数三五一) 
88.第三回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月15日) (丁数三六一) 
89.第四回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月16日) (丁数三六六) 
90.第五回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月19日) (丁数三七三) 
91.被告人訊問調書(黒澤鶴一) 22歳 (注:昭和11年3月16日)(丁数三七五)
92.第二回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月18日)  (丁数三九二)
93.被告人訊問調書(中島清治) 明治41年2月1日生(注:昭和11年3月16日)(丁数四〇一)
94.第二回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月17日)  (丁数四〇九)
95.第三回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月17日)  (丁数四二一)
96.被告人訊問調書(宮田晃) 明治41年10月9日生(注:昭和11年3月18日) (丁数四二三)
97.第二回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月19日)  (丁数四三四)
98.被告人訊問調書(綿引正三) 大正3年2月28日生(注:昭和11年3月15日)  (丁数四五二)
99.同人手記           (注:昭和11年3月15日)  (丁数四八九)
100.第二回被告人訊問調書(同) (注:昭和11年3月20日)   (丁数四九六)
101.被告人訊問調書(黒田晃) 明治43年4月15日生(注:昭和11年3月16日) (丁数四九九)
102.第二回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月17日)  (丁数五一七)
193.第三回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月18日)  (丁数五二六)
104.上申書(同)                          (丁数五三六)
105.被告人訊問調書(水上源一) 明治41年9月28日生(注:昭和11年3月18日) (丁数五五一) 
      注:この調書は56ページあり)
106.第二回被告人訊問調書(同)  (注:昭和11年3月17日)   (丁数六〇七)


107.命令(注:裁判官6名)  昭和11年4月24日          (丁数六一〇)
108.命令(注:第一回公判を昭和11年5月5日午前10:00) 昭和11年5月1日  (丁数六一一)
109.受領書(注:命令の受領)                     (丁数六一二)
110.召喚通知書 (注:7人、宇治野、宮田、中島、黒田、黒澤、水上、綿引)(丁数六一三)
    (注:軍法会議→刑務所)
111.第一回公判調書  (注:5月5日)                (丁数六二〇)
    (注:この調書は137ページあり)
112.第二回公判調書  (注:5月6日)                (丁数七五七)
    (注:この調書は137ページあり)
113.第三回公判調書  (注:5月9日)                (丁数八八一)
    (注:この調書は137ページあり)
114.第四回公判調書  (注:5月10日)               (丁数八八五)

115.命令(第五回公判、七月五日 十一時)(注:7月4日)        (丁数九一二)
116.(命令)受領証           (注:7月4日)        (丁数九一三)
117.召喚通知書 (注:7人、宇治野、宮田、中島、黒田、黒澤、水上、綿引) (丁数九一四)

118.第五回公判調書  (注:7月5日)(注:裁判書へ、判決)       (丁数九二一)

以上が「行動隊第二十九冊ノ内第十八號(湯河原班)」の標目(目次)と丁数(ページ数)です。
それぞれの記録は、命令書等を除いては、ほとんどが毛筆による草書体で書かれており、読むためにはかなりの辛抱と
努力が必要です。筆者の場合、ノートを二行書きとし、判読できないものは、模写して、後でゆっくり眺めると、読めてくる。そのうち、一種の辞書のような比較表を作りましたが、
その後、草書体くずし辞典などを見ると、録事(記録係のこと)が異なり、筆致は変わっても、くずし字は、当然ながら同じものとなっています。
次回はこの記録の中で、どこを中心に水上さんの記録をたどったについてお話したいと思います。
(今泉)
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