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解放軍の腐敗(八、習近平の憂鬱)

2015年06月28日 22時20分35秒 | 日記
2014年2月に、香港の《経済日報》が、習近平の発言に関して一つの記事を掲載しました。そこには、習近平の憂鬱が書かれていました。

「アポロン新聞ネット」

『習近平 私的講話で中共の〝弱点〞を暴露:1948年の国民党のようだ』

2014-02-05


2013年10月、浙江省余姚(よよう)市民が市政府の門前に押し掛け、高く掲げられた〝人民のための服務(为人民服务)〞の大文字をこそげ除いた。

「2013年は、中共総書記習近平の集権の年であり、また、彼の〝反腐敗に拳を振り上げた〞年でもある。最近、ある香港の媒体が事情通の情報開示を引用して次の様に述べた。一昨年の北戴河の会議上、習近平は、中共が当面直面する内憂外患の、その弱点は〝民心を失い尽くした〞事だ、常に中国版ジャスミン革命の危険にさらされていると強調した、と。

*〝十八大の後 必ず迅速に人心を収めなければならない〞

2月4日、香港の《経済日報》が、ある2012年の北戴河会議に参加した消息筋の発表を引用して、習近平が会議上で、中共の現状は、1948年の国民党と酷似しており、〝民心を失い尽くした〞段階に置かれている、と強調した。これによって、会議後、中共の前指導者と、2013年の中共十八大(第十八期全国代表大会、2012年11月8日~14日に北京で開催)で交替した後、必ず迅速に民心を収める事で互いに合意した、と。

報道は更に、北京ウォッチャーの指摘を引用し、如何に民衆の中共官僚の腐敗に対する印象を変えるかについて、習近平は、公衆の認識を変えるには相当の時間を必要とするが、しかし、時間は中共の側には立っていない、と考えている、と。

*英国研究院:中共は中国の99%の人心を失った

《ニューヨークタイムズ》の報道によれば、2011年6月、ロンドンの王立政治事務研究院 アジア事務主管Kerry Brownと、その他五名の外国の学者は、中共主要機関の三日間会議に参加した。Brownは、実際には内部で、中共は明らかに、彼等は正真正銘、人民の尊敬を得てはおらず、〝彼等は中国99%の人口の民心を失っており、これに対して彼等は恐れを感じている〞、と述べている。

Brownの考えでは、主な原因は、人から嫌われる中共の腐敗を含め、人民の要求が更に多いのは、政府の監督時に恒常的に行われる暴力に対してだ。しかも、彼等が暴力を使用して人民をあしらっているのに、報道は、まさしく中共の一大禁忌としている、と。

〝人民のための服務(サービス)〞、これは恐らく、中共の最も有名なスローガンだ。しかし、最近、このスローガンを刻印した看板が、しばしば民衆によって取り除かれている。

2010年6月21日、江蘇省邳州(ひしゅう)市第一中学の学生が、学校移転の問題で、当該学校の学生全員が、市政府に集結して抗議、激怒した学生が、政府入り口の〝人民のための服務〞の文字をこじ起こして削ぎ落とした。その場の民衆は大声で〝好いぞ、偉い〞と叫び、当時の学生の勇敢さを大いに賞賛した。この事件の原因は、当地の教育局が、学校の土地を売却し、学校の移転を要求し、学生達の強烈な不満を引き起こした事に始まるが、反対は無効に終わった。

2011年6月、当地の全人代代表※冉建新(ぜんけんしん)は、警察の取り調べ中に死亡した。その後、民衆の押し殺していた怒りは、先週木曜(6月9日)に爆発した。冉が官僚の腐敗との戦いで死んだと信じられたためだ。デモ隊は、湖北省利川の政府庁舎を包囲し、ある現地の住民は、彼等は、上部に書かれた〝人民のための服務(为人民服务)〞の看板を叩き潰した、と公表した。

2013年10月、浙江省余姚(よよう)市が深刻な洪水被害を出した。現地公務員の救済努力が足らず、被災状況をごまかし、民衆を激怒させた。10月15日、一万を超える民衆が余姚市政府庁舎前に集まり、数千人の武装警察と衝突し、多くの民衆が捕まり、一部の民衆は殴られて血を流した。激怒した民衆は、市政府門前の〝人民のための服務(为人民服务)〞の標語の〝人民〞の二文字をこじ起こして取り除いた。

嫌と言うほど中共当局の〝強制撤去〞に苦しめられている情況下で、ある民衆は、これは数年来で最もスゴい〝強制撤去〞だ、気骨がある、有名無実で、皮肉が掛けられているのだ、取り除くのが正解、古来英雄は若者から出る、いつでも中南海入り口のあの幾つかの文字を取り除いてくれ!、と述べた。

*党報は〝迅速に人心を収める〞と呼びかけるが
 中共は既に人心の向背を無くしている

この他、香港《経済日報》の報道に、2012年、北戴河会議が行われる前に、中共武漢市委員会の機関紙《長江日報》が〝迅速に人心を収めなければならない〞と題する社論を発表し、群衆衝突事件の問題の中心にあるのは、政府の間違った行いだ、と強調した。社論は、〝合法的な資源は無制限に貸し越しはできず、「合法性」に修復する時間も無限ではない〞と警告している。並びに〝 当面の急務は、迅速に人心を収め、もう一度「合法性」を形作る事だ〞と呼びかけている。偶然にも、1948年11月4日、当時の国民党の党紙《南京中央日報》にも同様の標題の社論が掲載された、と指摘している。

2012年5月、《人民ネット》も文章を発表し、人心を勝ち取るのは、極めて困難な事業だ、と述べている。

しかし、大陸の民衆は、人心の向背を執政党に--いわゆる〝是正〞を行うための多くの機会を、中共に与えるつもりは無いようだ。更に多くの輿論は、60数年来、中共は民衆を〝苦境に堕とし〞ており、8000数万の中国同胞をしておきながら、しかも、その血に飢えた本性は全く変わっていない。すべては一時的な〝妥協〞の手段で、ただ体制を維持するためだけの存在だ。しかし、中共はとっくに〝是正〞の資格を失っている、と考えている。

2014年2月5日まで、《大紀元新聞ネット》上で、三退(退党・退団・退隊)を発表した人物は、既に1億5千6百80万人を超え、しかも、人数は日々増加している。大陸の退党した人物は、退党支援者に対して、彼等は中共に対して、極度に失望しており、土地の強制占拠後の農民が生活ができないと感じるだけでなく、内部の官僚は更に、中共は既に付ける薬が無い事を見て取っている、と話している。」(「アポロン新聞ネット(阿波罗新闻网)」『習近平 私的講話で中共の〝弱点〞を暴露:1948年の国民党のようだ(习近平秘密讲话曝中共〝死穴〞:像1948国民党)』2014-02-05)


※:地方政府が土地を接収し、それに絡んで殺人が起き、その後、デモ(群衆事件)が発生するというのは、中国で現在起きているデモの一つの型と言えます。以下は、冉建新事件を報じる。「騰訊新聞」の記事です。

『利川群衆事件の背後に:冉建新の奇妙な死』

2011年06月13日12:01

6月10日早朝、「利川新聞ネット」のニュース報道で、利川の千名を超す市民が、市政府庁舎大楼の前に集まり、少数の人々は勤務中の民警に向かって、ミネラルウォーターの瓶や生卵・雑貨を投げつけ、更に、電動の鉄門を押し倒し、勤務中の民警を襲撃した等の情況を伝えた。事態の悪化を防ぐために、公安機関は法によって迅速に策を講じ、すぐさま、この群衆事件は適切に処理された。衝突の原因は何か?死者の背後に真相はあるのか?適切な処置とは何か?一連の疑問は早急に解決を要するが、しかし、これらの問題はある人物から離れることはない、その人物は「冉建新」。

*突然の死

6月5日、「天涯」等の多くのウェブサイトは、ある人物がニュース欄で、湖北利川の元反腐敗局長 冉建新が、巴東の拘置所で打ち殺されたと伝えた事で、一気に注目が集まった。記事によれば、2010年11月、冉建新は利川市紀律委員から涜職罪(とくしょくざい、公務員の職権濫用・職務怠慢により、国家機関の正常な活動を妨害した罪)で双規され、2011年6月、湖北省巴東県の人民検察院で亡くなった。“死者は、顔にある七つの穴から流血し、全身鬱血し、どこも傷だらけ、背部には更に多くの火傷があり、見るに忍びない有様だった。”、と報じた。記事には、死者の多数の写真も添付されていた。

冉建新、男、49歳、利川市検察院反腐敗局長・副検察長・利川市司法局局長を経て、利川市都亭庁舎党委書記・主任に転任。《羊城晩報》の報道によれば、2010年11月13日、冉建新は“双規”を宣告され、利川市紀律委は、彼が行った“不正命令・不正操作・労働紀律違反の三違”に関する取り締まり中の問題に関して、説明を求めた。2011年1月3日、巴東県人民検察院は法に依って要訴追事件とした。2011年5月26日、利川市全人代常務委員会は議案を通過させ、市検察院の冉建新に対する逮捕を許可した。9日後、冉建新は突然死亡した。

冉の死亡に対して、巴東県委宣伝部の見解は以下の如く。6月4日、巴東県人民検察院は、冉建新の審理中、捜査官は冉建新の具合の悪い事に気がつき、すぐさま巴東県人民医院に送り応急手当を施した。当日16時30分、冉建新は手当のかい無く死亡した。天涯ネットの投稿者は、冉建新の突然の死の知らせを受けると、死者の家族はすぐさま巴東建に至り、家族は、死者の取り調べ中の監視ビデオの調査を要求したが、監視ビデオは壊れていたと告げられた。“どうして、全ての検察院の監視ビデオは壊れていないのに、事もあろうに、あの取調室だけが壊れているんだ?”度重なる交渉の結果、遺族はやっと死者の写真撮影を許された、と報じた。

*民衆からは“冉兄さん”と呼ばれていた

冉建新とはいったいどの様な人物か?

利川新聞ネットの報道によれば、今回は、大多数の野次馬を除いて、少数の人物が、“冉建新死亡事件”を名目として集まった群衆事件である。6月7日以来、連続して数日間、少数の市民が市政府庁舎大楼の前に集まっている。6月9日ー早朝、利川市政府庁舎大楼前に、また続々と人が集まり、10時頃には1000余人になり、最も多い時には1500人を超え、現場の交通は完全に中断された。一部の群衆は制止を聞かず、6月9日14時、警戒区域を強行突破し、電動の鉄の門扉を押し倒し、ミネラルウォーターの瓶・生卵・雑貨等で勤務中の民警を襲撃し、多くの民警が負傷し、現場は混乱した。

冉の事件は、恐らく教場村八組から始まる。利川は2つの街道の事務所で6鎮6郷を管轄しており、その中の都亭街道の事務所は、利川市の政治・経済・文化の中心である。しかも、教場村は、都亭街道事務所の中心的地域であり、当該村には11の小組に、合計3000余人が暮らしている。関係媒体の記者の調査によれば、冉建新が訴えられた“三違”に関する取り締まり中に起きた涜職罪は、まさに教場村の八組と関係がある。

地元住民の紹介によれば、教場村の八組600余人は、もともと300ムー(1ムー=6.667アール・15分の1ヘクタール、300ムー=20ヘクタール)の土地を所有していた。2002年から、当該組みの土地は続々と徴収が完了したが、しかし、後始末は全部が全部意に沿うものではなかった。中でも体育路は教場村を通過する重要な幹線道路で、道の両側の瓦葺きの日干し煉瓦の建物は、道路拡張のために取り壊され移転する事になった。当該村民は、自分達で壊して建設する事を提案し、政府が接収した157ムーの土地のうち、9ムーを使用して、村民のアパートを建てる事になった。2009年3月、アパ-トは着工した。これに対して、利川市委書記李偉は現場まで至り、非常にこの行動を称揚した。しかし、2010年“三違反”法執行担当官は、村民が家を建築するのは“三違反”に抵触するので、改善が必要だと述べた。

当地の村民は、“三違反”担当官の態度は強硬だが、しかし、冉建新は圧力に耐えて、建築を支持した、と言った。現在、この建物は、いまだ建設途中だ。土地を失った村民の大多数は職が無く、自分で活路を開き、彼等は道の両側の歩道で協力して露天を開き、串焼きを売って商売を始めた。これに対して、利川市“三違反”法執行担当官は、たびたび都亭街道事務所に露天を片付けるよう要求したが、冉建新は民の生活が非常に苦しいと考え、行動を起こさなかった。大会では、彼は李偉に名を呼ばれ批判された。2010年“幹部三違、一律停職”の8文字が、殆ど毎日、地元のテレビ番組の中で流された。

*遺書には機会を利用して報復されたと書かれていた

関連の媒体が6月10日の報道で、冉建新がトイレットペーパーを用いて書いた“絶筆”を公開し、冉は遺書の中で次の様に称している。“(2010年)12月中旬から2011年1月中旬にかけて、捜査班はおよそ私の知り合いで、仕事上の友人や同僚だ、事実を確かめると言う理由で、逐一通知して基地に行き、身柄を拘束する自由を採用し、安全を守るために24時間監視し、身の回りのあらゆる品物を取り上げ、二重規則のように、毎日の静座は16時間以上、酷いときには20時間、細長い鉄板の腰掛けに座り、眠らせず座らせず等の方法で、証拠を収集する。この間、幹部・労働者・村の幹部、一般の村民と個人経営の店主、多くの人々は何も無いまま、十日以上拘束された。”ある冉建新事件に近い人物のリークによれば、冉の連座で、少なくとも40数名が、利川警示教育基地に送られ、調査を受けた。教場村だけで20余人、村の幹部も村民も含まれていた、と。

この他、冉建新は利川政法系統で長年仕事をしており、利川検察院からもまた数十名が、紀律委員から話しを聞かれている。“彼等は、自主的に冉建新の問題を説明しさえすれば、紀律委員は決して追究せず、引き立てられるべきは引き立てられ、昇進すべきは昇進し、決して影響は無い、と述べた。”

*最後の結果を待つ

中国新聞ネットの最新の報道では、湖北恩施州紀律委員会報道官は、6月9日、初めて冉建新事件について口を開き、冉建新事件は、湖北利川市紀律委員監察局の案件で、捜査の過程で、法にもとる現象があったのか否か、恩施州紀律委員が調査組織を結成し、現在、調査中である、と発表した。

湖北恩施州巴東県の公式ウェブサイトは、6月9日午後6時、巴東県人民検察院調査官 趙小育・譚運龍は、冉建新事件を調査中、職務違犯の疑いがあり、恩施州人民検察院は、法によって立件し、並びに、拘留を決定した。恩施土家苗族自治州第六期人民代表大会常務委員会第三十次会議は、鄭雪松が巴東県人民検察院検察長の職を辞する事を批准した、と発表した。(「騰訊新聞」『利川群衆事件の背後に:冉建新の奇妙な死(利川群体事件背后:冉建新的离奇死亡)』2011年06月13日12:01「南方新闻ネット」より)


「冉建新事件」は、同僚の報復という側面があるようです。悲惨な事件ではありますが、これより酷い事件は中国各地で起きており、中共指導部の心胆を寒からしめています。習近平も主席就任前から中共の前途に危機感を抱いており、或いは、その様な情況が、薄煕来・周永康等に地位の簒奪を計画させたのかもしれません。

さて、現在の中共は、1948年の国民党の情況に似ていると言う事ですので、次回は、1948年について考えたいと思います。