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六四天安門事件のおさらい

2010年10月29日 20時12分45秒 | 日記
10月8日、劉暁波(りゅうぎょうは)氏が、

ノーベル平和賞を受賞しました。


『読売新聞』によれば、

ノルーウェー・ノーベル賞委員会は、

全会一致で劉氏への授与を決めたよう。

委員長によれば「相手が大国だから、

委員会がひるんだと見られることは許されなかった。」と述べました。


『読売新聞』の伝える、中国の人権活動家の現状は、

魏京生(ぎきょうせい)氏 60歳 

70年代後半、民主化運動「北京の春」で、小平を批判、

97年11月、病気治療名目で米国に出国。


王丹(おうたん)氏 41歳

89年の天安門事件当時の学生指導者、

民主化運動を指揮

98年4月、病気治療名目で米国に出国。


ウアルカイシ氏 42歳

89年の天安門事件当時の学生指導者、

民主化運動を指揮

事件直後、フランスに脱出、現在台湾在住。


徐文立(じょぶんりつ)氏 67歳

「北京の春」に参加、98年、

「中国民主党」結成に向け支部設立

02年12月、病気治療名目で米国に出国。


劉氏は、1955年、吉林省長春生まれ。

北京師範大で文学博士に。

ノルウェー、米国に滞在後、

89年の天安門事件の前に民主化運動に加わるため帰国。


事件後、人権活動家が次々と出国するなか、

中国に残り、

天安門事件関係者の名誉回復と、

人権保障などを呼びかけましたが、

08憲章(08年12月、中国の知識人303人が署名し、

ネット上で公表された民主化を求める文書。

自由・人権・民主を基本理念に、

三権分立・直接選挙・言論の自由など19項目の要求を掲げたが、

すぐに当局により削除

しかし、ブログに次々に転載され、結局1万人以上が書名した)

の公表直前に拘束されました。


さて、そこで、

天安門事件のおさらいです。

「天安門事件」とは、天安門広場で起こった事件。

1989年6月4日に起こったので、

「六四」とか「六四天安門」と言ったりします。

民主化を求めて集まった、学生を中心としたデモ隊に対し、

中国人民解放軍が武力弾圧、多数の死傷者を出した事件です。


事件の詳細について、

「新唐人電視台」、

在米プロデュースの全世界華僑向けの放送局に、面白い番組がありました。

『六四天安門 二度の大殺戮 アメリカの機密文書解禁』

事件からちょうど二十年目、昨年6月3日の放送です。


ここでは割愛されていますが、

放送の始めに、

「番組をご覧の皆さんこんにちは、「中国禁聞」にようこそ。

六四20周年前夜ですが、

日本の『産経新聞』の報道に依れば、

アメリカで、最近、ある機密文書が解禁になりました。

中共政府は、1989年6月の北京天安門大事件のさなか、

二度にわたり、学生・民衆・運動に参加した人々を虐殺しましました。」、

という説明がつきます。


美国密件解禁:六四屠城両度大殺戮



女性アナウンサー

この機密文書は、当時のアメリカ駐華大使ジェームズ・リリーが、

大使館員が6月3日から4日にかけて、

天安門周辺で発生した事件について目撃した内容を、

秘密裏に、アメリカの国務卿と国家安全会議に送信した内容です。

文書には、解放軍が北京長安街で、

武器を全く持たない学生・民衆と運動に参加した人々に対して、

二度にわたり、機関銃を掃射した事が指摘されています。


機密文書によれば、

6月4日払暁1時、

北新華街から1.6キロ離れた民族飯店の周囲で、

銃声が聞こえ始めた。

西長安街では、バスやトラックが倒され放火され、

銃声は次第に大きくなり、

解放軍の装甲車は東に向かい疾走した。

群衆は非常に憤り、年配の女性が叫んだ、

「どうして中国人が中国人を撃つの?」

若い男性も声をあげた、

「俺たちは中国人だが、奴らは違う」

そして、中南海を指さして

「奴らは悪人だ」と言った。


1時10分、

失火した装甲車が突っ込んできた。

いきり立った群衆は、装甲車の車輪に向かって、

コンクリートの塊をぶつけて停車させ、

古い木材を積んで焼き払った。

1時20分、

後続の装甲部隊が、

群衆に向かって発砲しながら北新華街に進んできた、

群衆の中で血に染まった者が、

次々に倒れた。

デモに参加していた人々は、

兵士が実弾を使用した事を知ると、

恐れ慌てて、天安門付近の路地に向かって、

ちりぢりに逃げた。


1時45分、

他の部隊が天安門に到着すると、

装甲車部隊は長安街に向かって陣を整え、

人民大会堂の正面東側に到着した。

装甲車部隊は車のライトで

東長安街に集まっていた1万5千名のデモ参加者を照らし出し、

ぴたりと止まった。

2時9分、

毛沢東の肖像の前に整列していた兵士と装甲車の部隊は、

長安街の大群衆に向かって発砲した。

群衆は、東の北京飯店の方向に逃走したが、

多くの人々が銃弾にあたり倒れた。


2時30分、

約100名の解放軍が、

歴史博物館横の道路正面に腹ばいになり、

群衆に照準を合わせて発砲したので、

群衆はちりぢりに逃げた。

しかし、数分後、再び、死体を回収しに戻ると、

軍隊は再び発砲し、

10名から15名が倒れた。

天安門広場の照明は3時半に消えた。

しかし、4時27分、再び明るくなると、

装甲車・戦車・トラックの大部隊が出現し、

広場北の自由の女神像の残骸を照らし出した。

人民英雄記念碑の周囲からは、煙があがっていた。


明け方、5時30分、

50輛の装甲車・戦車とトラックで編成された第2部隊は、

東長安街を通って天安門広場に入り、

解放軍は、ジープ上から二つの機関銃で15分間掃射した。

この大殺戮の後、

天安門広場から北京飯店までの東長安街の路上には、

25名から30名が倒れていた。


6時20分、

約40輛の武装車両からなる第3部隊は、

東長安街東側から広場に入り、

機関銃を群衆に向けて掃射する事10分、

多くの死傷者を生み出した。


機密文書の指摘によれば、

二度の大虐殺が行われた時、

天安門広場のスピーカからは、

穏やかな声で

「混乱は既に終結し、秩序は既に回復し、

暴動は既に鎮圧されました」

という放送が流れていた。


『産経新聞』の報道によれば、

アメリカ政府が長年この機密文書を公開しなかったのは、

アメリカの実情把握の程度や、情報収集の方法を、

中共に知られる事を避けるためだったとしている。

機密文書は、

北京市政府が89年6月に発表した、

天安門広場内では一人の死者も出なかったという報告を、

真っ向から否定するものである。


当時、学聯代表の身分で、

北京に学生運動の支援に来ていた陳清華は、

6月4日、明け方3時に撤収したが、

彼は、機密文書の内容は、

概ね、自身に起こったことと矛盾はないとしている。


つとに、1999年、

六四事件に関連してアメリカ政府のレポートが発表された、

アメリカ『国家安全索引電子簡介書』第16号に掲載された

「1989年 天安門 歴史の謎を解くレポート」と題する文章は、

全て70章、その中の18章に

軍の鎮圧の状況が記載されている。


レポートの中では、

数名のアメリカ人記者が、解放軍により重傷を負った事、

また、解放軍27軍が大の元凶であり、

彼等は天安門広場への路を切り開いたのみならず、

他の部隊の兵士を殺害する事も厭わなかった。

その後の、6月6日、引き続き、

他の部隊と内輪もめを起こし、

発砲したという噂にも言及している。」

ニュースはここまでです。


この様な状況を劉暁波氏は体験して、

出国もせずに、運動を続けている事を考えれば、

ノーベル平和賞も納得です。


それにしても、これは、アメリカのレポートですが、

日本にも、駐中国大使や大使館員がいたはずですが、

この様なレポートは作っているのでしょうか?

当時、中国にいた日本人留学生からは、

他の国よりも、対応が遅いと文句が出ていたようですが…。


それに、1999年のレポートでは、

「天安門事件」が軍の暴走によって発生した可能性を示唆しています。

中国は過去21年間、二桁で軍事費を伸ばし、

少なく見積もっても15兆円。

この両年中には原子力空母まで造る予定だそうです。


尖閣諸島も、海上保安庁だけで大丈夫でしょうか?