社会人学生の遅れてきた学習意欲

実質的には、旅行フォトブログです

台湾中部紀行4日目 阿里山―登山道を抜けると緑色の世界

2012年05月20日 | 2011台湾中部紀行




(前回の続き)
奮起湖で竹林を散策してから駅近くの老街で奮起湖名物の弁当を買ったまでが前回までの話。ここでしばらく時間をとった後、ツアーバスは阿里山に向けて発車します。





途中、何箇所かで雨によると思われる土砂崩れのせいで道が工事中でした。一応舗装はされているのですが、その舗装の真横まで土砂がザザザっと崩れてきているので、車は交互通行を余儀なくされている状況でした。

バスの中では他のツアー客とも打ち解けはじめ、先程奮起湖で買ったコーヒー味のわらび餅を分けていただいたりしました。その一家はマレーシアに住んでる華僑で、久しぶりに台湾に帰ってきたとかそんなことを言ってました。





1時間ほどで阿里山に着きました。阿里山はエリア入場料が150元(=390円)必要です。ここでツアーの方とはおさらばです、華僑の一家ありがとう。





これが阿里山森林鐵路の阿里山駅です。駅舎は最近改築されたようで、阿里山名産の総檜造りでリッチ感満載です。列車は運休中のため駅舎のど真ん前で仏事をやってます。





ちょうどお昼なのでまずは腹ごなしに奮起湖弁当をいただきます。ピクニックなんかに持っていく使い捨ての紙製弁当箱には「ワシが作りました」的な爺さんの写真があります。





相変わらず上下2層構造の弁当に台湾風情を感じます。この奮起湖弁当は山菜の緑や赤色を添えているので、茶色単色の台湾の標準的な弁当からすればかなり見栄えのする方だと思います。味の方は完璧です、文句無いです。





弁当を食べているとシベリアンハスキーの雑種みたいなおとなしい犬が寄ってきて「なんかちょうだい…」と切なげな目で訴えかけてきます。あまり人間の食べるものをバカスカやると犬の健康によろしくないので、肉を食べた後の鶏の骨をやりました。骨に残った肉をこそげ落としてきれいに骨だけにした後はじっと伏せてぼーっとしてらっしゃいました。





食事を済ませて観光案内所で地図をもらいます。向こうも手慣れたもんで「ここからこう行って回ればこれだけの時間で帰ってこれますよ」と淀みなく説明してくれます。団体客にはバスでの送迎がありますが、基本的に阿里山エリアは歩きなので、まずはルートを決めて帰ってくる時間を予め読んでおくことが重要です。





嘉義では30℃以上あった気温も、阿里山では標高が高いので22℃くらいしかなくてとても快適です。歩いていても汗でベタつきません。





森林エリアまでは砂利道の道路が続いており、おそらく大陸から来た中国人団体客を載せたバスがひっきりなしに走っているので、その煤煙のせいでこの辺の空気は悪いです。





砂利道の道路から森林エリア側に入るといきなり杉の巨木に遭遇します。木の大きさもさることながら、蘚苔類や地衣類が辺り一帯を覆っていて、見渡す限り緑色の世界になっています。





アマゾン河で見た板根とはまた違った根の張り方です。木が上に伸びるとどうしても倒れやすくなるので、横方向に根が張っていくのでしょう。





梅園への階段。梅がどうこうよりも周囲の木が茂りすぎてて、何なのかわかりません。





森林鐵路は森の奥深くまで続いています。もともと伐採した材木を運ぶための軌道ですから、奥まで続いてなんぼなんでしょうね。線路は続くよどこまでも。

(つづく)

台湾中部紀行4日目 奮起湖―入れ物選べる名物弁当

2012年05月06日 | 2011台湾中部紀行




(前回の続き)
觸口の休憩所でしばらく散策した後は九十九折の山道をひたすら駆け上がっていきます。ツアーバスに同乗していたオバハンが車酔いしたらしくゲーゲー言ってます。





1時間ほどして奮起湖に着きました。写真は阿里山森林鉄道の奮起湖駅です。電車は運休中につきひっそりしていました。





案内板を見ると駅の北側に散策道が整備されているようです。





昔ながらのトレッキングルートはまさに獣道。濡れた岩肌はサンダルだと滑るので深入りせずに引き返します。





これとは別に木馬桟道という舗装された道があるみたいなので、そちらをたどってみることにします。





遊歩道というよりかはむしろこういう石段の道がメインです。





さすがに空気は新鮮です。森特有の土のにおいがします。





石段を登り切って一般道に出たと思ったら、道の向こうに石段はまだ続いているのです。





道の向こうの石段はまだまだ続きます。





石段の道を登り切ったところにかつてここにあった奮起湖神社の跡地がそのままありました。案内看板には「神社」とだけあるので、奮起湖神社と呼ばれていたのかどうかは不明です。





おそらく神社本殿の基壇だと思われます。それほど大きくないので祠に毛が生えた程度の規模の建物だったんじゃないかと思います。





基壇のすぐ後ろにはこれだけの大きさの木が育っています。国民党に神社が破壊されてから生えた木のはずです。





基壇から入口方面を見た図。





歩道の竹に自分の名前を彫り込んでるアホ発見。
おい、高本!
お前の人生うまくいってなかったら、この竹の精に呪われてるぞ!





歩道を散策していると視界の開ける場所に出ました。奮起湖駅と集落が一望できます。





電車が走っていないはずなのに駅の中に人がいますね。





「水がないのになんで奮起湖?」という案内板。言われてみれば確かにそうです。私は湖があると思っていたので、実は到着した時に水辺を探しました。

嘉義縣文化観光局によれば、この地方は三方を山に囲われていてちりとり(畚箕、台湾語では「奮起」と同音)のような形をしているのと、ちょうどちりとりの凹んだところに霧がとどまると湖のように見えるからこの名がついたのだそうです。

さて「奮起湖の名物は弁当」と前のエントリーで書きましたが、その理由は書いていませんでした。昔の登山電車が嘉義から登ってくるとちょうどお昼時にこの奮起湖に到着し、発車までしばらく時間があるので乗客たちが弁当を買い求めたと。そういう理由でこんな山中のひなびた駅が弁当で有名だというわけです。ですので私も弁当を買いに老街に走ります。






奮起湖大飯店では店内でも食べられますし、テイクアウト用に包んでもくれます。また、外装に金をかければ松や檜の弁当箱もチョイスできます。普通の弁当箱なら弁当は100元(=260円)です。

(つづく)

台湾中部紀行4日目 嘉義―律儀に迎えに来るバァさん

2012年05月05日 | 2011台湾中部紀行




08/17 水曜日
滞在地:嘉義(省轄市)→阿里山(嘉義縣)





朝、ホテルで阿里山行きの支度をしていると、昨日嘉義駅前で乗り合いバスの営業に来たバァさんが迎えに来てくれました。正直、あの時はその場で代金を支払ったものの領収書など受け取っておらず、当日トンズラでもこかれたらたまらんなと心配していましたが、ちゃんと迎えに来てくれるのもやはり台湾。大陸とは違います。バァさんに連れられ嘉義駅の線路をまたいで駅の北側へ。





バァさんに嘉義駅北口すぐの旅行社まで引率され、ここで旅行会社のツアーバスに合流しました。バァさんたちがいくらのリベートをもらっているのか分かりませんが、阿里山行きのバスはあっても奮起湖絡みのバスは少ないので結果オーライです。





嘉義からツアーバスに揺られて40分ほどで觸口というところに着きました。觸口まではなだらかな平地ですが、ここからは本格的な山道になります。





八掌渓という川です。





川幅から察するにこのあたりは中・上流域だと思います。





吊り橋がかかっています。





揺れはしますが丈夫なので怖くはないです。





地久橋の他に天長橋もあるそうです。2つあわせて天長地久ということらしいです。





わざわざ吊り橋を渡らなくても並行して普通の道路がありますので、苦手な方はそちらをどうぞ。





地久橋を渡り終えたところに龍隱寺というお寺がありました。中は結構立派な寺で、阿里山行きの観光客が休憩がてらに参拝しに来ておりました。この觸口エリアは平地最後の休憩スポットということで、これといったものが何もない割にコンビニやトイレがあり観光客で賑わっております。

(つづく)

台湾中部紀行3日目 嘉義―先走ってコンビニ弁当を食べる

2012年05月04日 | 2011台湾中部紀行




(前回の続き)
鹿港の天后宮にお参りしたまでが前回までの話。天后宮の正面に奉天宮という別の廟があったのでこちらにも参拝しました。天后宮が人でごった返していたのに対し、奉天宮にはほとんど誰もいませんでした。





天后宮と奉天宮の間には屋台が並んでいて、こういう揚げ物タイプが多かったように思います。その中でも鹿港名物の蚵嗲をいただくことにします。漢字王の宮崎美子もやくみつるもおそらく読めないであろう蚵嗲ですが、台湾語で「オテ」と読みます。





蚵嗲、30元(=80円)。牡蠣入りのお好み焼きを球状に成形してフライしたような食べ物で、台湾人にはお馴染みの小吃です。一つが軟式野球用ボールぐらいの大きさがあるので食べごたえはそこそこあります。





観光も食事もひと通り終えたので彰化にバスで帰ります。鹿港の彰化客運バスターミナルはこのような一昔前の田舎の待合所です。

台湾の中距離バスは運転手のオッサンのチョイスによるBGMがかかっていることが多いです。このバスは加山雄三の「君といつまでも」のインストゥルメンタル版でした。オッサン世代以上には日本の歌謡曲が幅を利かせているようです。





彰化駅に着いて嘉義行きの切符ゲット。朝に荷物を行李房に預けていたので、それを引き取りに行くと、係のオッサンが失踪していて荷物が出せません。しばらくすると同じく荷物を引き取りに来た女の子がオッサンを捜索してくれてどうにかスーツケースを手にすることができました。





彰化から嘉義までは鉄道で約80キロの距離です。莒光号は途中駅に停車しまくるので1時間半もかかります。





莒光号入線。





内装は自強号と同様です。時々弁当の車内販売が来ては客がそれを買い求めて食べるので、車内は台湾の弁当特有の匂いがします。私も食べたいけど嘉義に着くまでガマンです。





乗車中にスコールが降ったみたいで嘉義に着いたら虹が出ておりました。駅から出るやいなや阿里山に行く乗り合いバスの売り込みのバァさんに猛アタックされます。嘉義から阿里山までの阿里山森林鉄道は台風や倒木の被害で運休しているのでバスで行くしかないのです。

明日の朝ホテルまで迎えに来てくれて、往復600元といいます。途中の奮起湖に寄りたい場合は、直線ルートからちょっと離れるので700元だそう。少額をけちっても仕方ないので奮起湖経由のルートにしました。

ホテルにチェックインして休憩した後に食事をしようと文化路夜市に行きました。ここは普通の道路の両脇に屋台がずらっと並んでいるので、クルマやバイクの交通量が多く危ない印象を受けました。小雨がぱらついてきたので何も食べずホテルに戻りました。





ホテル近くのセブンイレブンで食料の買い出しです。こちらはコンビニ版奮起湖便當、65元(=170円)。明日の阿里山行きの乗り合いバスで奮起湖に立ち寄るルートにしたのは奮起湖名物の便當を食べるためなんですが、セブンイレブンの便當売り場でまさにその弁当を売っていたのでフライングして買っちゃいました。





新國民便當同様の上下2層構造の茶色単色便當です。見た目はセンスの欠片もないんですが、味は一流でめちゃくちゃオイシイんです。おかずの接しているところのご飯がほんのりおかず味でコレまたおい味しいです。





台湾でよく見かける阿Qラーメン(ニンニク味)、35元(=90円)。日本で言うところのスーパーカップみたいな位置づけのようです。





味はそのまんまニンニクですね。あまりドぎつさはないので食べられますが、後半になると飽きてきます。大陸のインスタント麺に比べれば全然アリです。

台湾中部紀行3日目 鹿港―まとまる範囲が極めて小さい民族

2012年05月03日 | 2011台湾中部紀行




(前回の続き)
中山路で古めかしい建物が現役で使われているのを確認したまでが前回までの話。再び鹿港の南側エリアに戻って観光を続けます。

鹿港國小の少し西側に摸乳巷と呼ばれる小道があります。その名の通りすれ違う際に「乳の擦れるほど狭い道」というところで、そんだけ狭いのなら一つこの目で確かめてみようというわけです。





入り口はこちら。見た感じでは民家と民家の間のただの隙間で、地元民だけが近道として使っているような印象ですが、ちゃんと名前もついて看板まで掛かっているのですから「道」なのでしょう。





とにかく狭い。撮影時はタイミングよく誰ともすれ違いませんでしたが、二人がすれ違うだけの幅は確保できてませんね。手に買い物袋なんかを持ってその中に玉子でも入ってたら、すれ違いざまに割れてしまうかもしれません。

ここから20m程のところに摸乳巷に並行して走るちゃんとした幅の道があるので、肝心のショートカット機能に関してはほとんど誰も恩恵を被っていないと思われます。





続きましてはたぶん鹿港で一番有名な観光スポットと思われている九曲巷です。こちらも裏路地であることは摸乳巷と同様ですが、九曲巷はぐねぐね曲がりくねっております。





道というかただの民家の間の隙間なんですよね。近所のオバハンが路端でそうめんなんかをすすってますし、そういうところにわれわれ観光客がワイワイ言いながら日中ひっきりなしに往来を繰り返す、と。お金が落ちるわけでもなくうるさいだけで、住民にとっては相当迷惑な話なんだろなと思います。





この辺の裏道は基本的に煉瓦で舗装されています。建材としても使われていることが多いです。





次は後車巷と呼ばれる道です。こちらは前2つとは違って「まとも」な道です。依然狭い道であることに変わりありませんが、Googleのストリートビューカーが通れるだけの幅はあります。





後車巷には沖縄でよく見かける石敢當がありました。石敢當は福建省発祥の魔除けだそうでして、福建泉州からの移民が多い鹿港なら石敢當があってもおかしくはありません。ただ、沖縄のように頻繁に目にすることはなかったです。




これは隘門と呼ばれる門です。隘門を簡単に言ってしまえば、違う町会同士を隔てるための門です。台湾には主に福建地方からの移民が住んでいたのですが、福建と言えど福州・泉州・厦門・漳州・潮州などなど出身地は皆バラバラです。

鹿港は対岸の泉州出身者が多いと言われていますが、泉州と一口に言っても〇〇村の人間と△△村の人間は敵対していたりして、とにかく村や一族単位の小規模でまとまることはあっても、その小コミュニティの外部とは主に敵対するような関係だったそうです。

その小集団同士が利権などをめぐって血みどろの争いに発展することも少なくなく、それを分類械闘(略して械闘)と言ったそうです。一旦械闘が起こると集落全滅の恐れもあるため、隘門を封鎖することによって敵方の侵入を食い止めたのだそうです。

実際に械闘の結果ディアスポラ状態になって村を追われ、離れたところに新たな村を建てた北港と新港の例がありますが、それはまた嘉義に移動してからの旅行記で書きますね。とにかく隘門こそは小集団でしかまとまれない漢族の漢族たる所以を今に示す貴重な歴史資料と言えるでしょう。





一見平和な裏路地ですがかつては投石や放火など攻城戦のようなえげつないことが行われていたのでしょうか。





その醜い争いが行われていたであろう道のさらに裏には鹿港老街があります。観光客相手の土産物屋が多かったです。





鹿港老街の北には新祖宮がありました。福建移民たちはここの祭事の主導権争いなどを原因にして争ったんでしょうか。隘門を見た後では全てを械闘ベースで考えてしまいます。





中山路を北に歩くと天后宮への参道になっていて出店で賑わっています。





天后宮入口。寺院建築に電光掲示板を取り付けるセンスはさすがです。フォントが明朝体なのがせめてもの救いです。





「くだらないことで同族同士争いませんように、南無」と祈願したときに気づきました。奴らはお互いを「同族」と思っていないから争うのですな。あぁ今も昔も漢族のまとまりのなさは健在です。奴らの「愛国」も「反日」もみんなウソ。

(つづく)

台湾中部紀行3日目 鹿港―町をフリーズドライするとこうなる

2012年05月02日 | 2011台湾中部紀行




(前回の続き)
彰化駅近くの肉圓屋で名物を頬張って食べたまでが前回までの話。今回は彰化のバスターミナルからバスに乗って鹿港に向かいます。台北に遊びに来た日本人にすっかりお馴染みの観光地といえば九份ですが、台湾中部で九份に劣らない人気の観光地が鹿港です。

18世紀頃に大陸の福建省あたりから漢族が続々と台湾に渡ってきて定住し始めるのですが、当時一番繁栄していた台南に継ぐ賑わいを見せていたのが鹿港ということです。

しかしながら、時代の流れとともに港湾の機能が縮小したり、鉄道路線から外れたりすることで、鹿港の経済的繁栄は急速に萎むこととなります。しかしそのことが却って鹿港の往時の雰囲気をそのままに保存することとなり、今では漢族の移民初期の頃の雰囲気が味わえる貴重な町となっています。

バスに乗るときに同乗したオッチャンにバスの行き先を確認したら、鹿港に着いた時に「鹿港の観光ならここで降りるんやで」とわざわざ教えてくれました。どうやら心配でずっと見ててくれたようです。





オッチャンにお礼を言ってバスを降りれば鹿港車站の近くでした。もともとはサトウキビ列車が走っていたようですが、何十年か前に廃止され今では観光案内所として使われているようです。





観光案内マップ。街自体はそんなに大きくはありませんが、見どころがいろいろありますのでちゃんと観光すると2時間ぐらいはかかります。メインストリートをバスが走っていますが、バスやタクシーに乗るほどの距離ではないので歩いて見て回ることが可能です。





エリア南部に文武廟があります。





文武廟の敷地内はこんな感じ。中華+南国=台湾





武廟の正門。全体的に古さはありません。





こっちは文廟。太鼓と鐘が誰も叩けない位置に吊ってあります。





文武廟を出て少し北に移動すると龍山寺があります。キラキラテカテカの寺廟が多い台湾にあって、この色褪せ加減は非常に珍しいです。創建は17世紀ですが、移転や改築を繰り返して19世紀前半に現在の形に落ち着いたと言われております。





門をくぐると正面に本殿があります。





こういうくすんだような、塗りが剥げたようなお寺の方が風格があって好きです。





多く見積もっても百数十年の歴史のある建物ですが、築千年ぐらいの古ぼけ感です。鹿港は風が強い街としても有名で、強風によって建材にダメージが加わってきたのかもしれません。





中の装飾も比較的落ち着いた感じです。





そんな寺の境内にはいかにも南国な木が植わっていて、寺院にいながらちょっとしたリゾート気分です。





鹿港のメインストリートは中山路といい、こんな感じの普通の台湾的道路です。





が、よくよく観察すると周囲の建物に日本時代に建てられたのではないかと思われるものがちらほら見受けられます。





中でもこちらの玉珍齋は創業1877年のお菓子屋さんといいますから清代の光緒年間になります。建物自体がいつ建てられたのかはわかりませんが、台湾で普通に見かける建物とは違って、妙にデザインに凝っているのでおそらく戦前のものではないかなと思います。

(つづく)